第167話 引き継がない治具
小池から紹介を受けた阪南制御機器との打ち合わせは、共通土台を使った倉田向けの加工が始まった翌週の火曜日に決まった。
黒瀬精機から出向いたのは、直人と隆夫の2人だった。新しい受注の加工条件は直人が確認できるものの、治具の所有や取引終了時の扱いまで決めるなら、社長である隆夫が同席した方が早い。
阪南制御機器の会議室には、購買担当の藤原と、現在その品物を納めている津田製作所の社長が待っていた。
津田は60代半ばで、工場を閉めるわけではない。従業員が1人退職し、家族だけで続けられる仕事へ絞るため、小口の定番品を順に手放しているという。
机の上には、制御盤の内部で配線部品を支える小さな金具が3個、製品図面、過去の納入記録、組立側で使っている取付確認板が並んでいた。その横には、黒く油の染みた鋼製の治具が置かれている。
「最初は3台分を組んで確認します。1台に4個使いますので12個、それに予備2個を加えて、試作は14個お願いしたいと考えています」
藤原は製品図面を直人の前へ広げた。
「問題がなければ、その後は月80個ほどです。津田製作所さんが次の納入分まで作ってくださるので、その次から黒瀬さんへ切り替えられれば助かります」
「この治具も一緒に渡す話になってるんですか」
隆夫が尋ねると、藤原より先に津田が答えた。
「まだ、なってません。これはうちが自分で作って、何年も使いながら直してきた物です」
治具の底面には、機械へ何度も締め付けた跡が残っている。材料を止める当て金は左右で形が異なり、側面には使われなくなった穴を埋めた跡もあった。
「製品図面は阪南さんの物です。ただ、この治具の材料代も、作った時間も、修理した費用もうちで持ってきました。阪南さんから治具代を受け取ったことはありません」
藤原は困ったように治具を見た。
「製品を作るためだけに使っている物なので、製造先が変わるなら一緒に移せると思っていました」
「製品を納める契約と、治具を渡す契約は別や」
隆夫は津田の側へ治具を押し戻した。
「これは津田さんの物です。黒瀬が勝手に受け取る話やない」
藤原が、治具を買い取る形ならどうかと尋ねたものの、津田は首を振った。
「値段の問題だけやありません。これを黒瀬さんの機械へ載せて、同じ品物が出るとは限らんのです。うちの機械で、俺が使う前提で直してきましたから」
「図面にはしていないんですか」
直人が尋ねた。
「最初に作った時の紙は残ってます。ただ、後から削った場所や、押さえ方を変えた時の記録まではありません。材料の反り方を見て締める位置も変えます」
津田は治具を手放したくないのではなく、治具だけを渡して仕事まで移せると思われることを嫌がっていた。渡した先で寸法が外れれば、古い治具を作った津田の責任なのか、使った黒瀬精機の責任なのか、それすら曖昧になる。
「黒瀬では、この治具を引き継ぎません」
直人が答えると、藤原は納期記録へ視線を落とした。
「一から作るとなると、切替えが遅れませんか」
「そこは工場へ戻って確認します。ただ、津田さんの治具を持ち帰って、使えるつもりで予定を組む方が危ないです」
直人は製品図面と3個の現物を照らした。
3個とも図面の範囲には収まっている。阪南制御機器が組立時に使っている確認板へ差し込んでも、穴位置と外形に問題はなかった。
「この3個のうち、実際の制御盤へ使って問題がなかった物は分かりますか」
「こちらの2個は、完成した盤から予備として戻した物です。残り1個は倉庫在庫から出しました」
藤原は2個を分け、その場で製造番号の記録と照合した。
完成品へ問題なく取り付けられた2個のうち、傷や変形のない1個を基準現物として貸し出す。倉庫から出した1個は寸法比較用とし、基準現物とは扱わない。取付確認板も阪南制御機器の借用品として、受渡票へ番号と返却条件を記入した。
「津田さんには、治具や作り方を渡してもらうんやなく、過去にどんな不具合が出たかを聞かせてもらえませんか」
隆夫が言った。
「黒瀬が一から治具を作っても、昔に踏んだ穴まで同じように踏む必要はない。そこは仕事として払うべきやと思います」
藤原は意外そうな顔をした。
「引継ぎの説明にも費用が必要ということですか」
「津田さんが何年もかけて覚えたことです。製品単価の中に入っていた判断まで、取引が終わるからいうて無料にはならんでしょう」
津田はしばらく黙っていたが、やがて治具の当て金へ手を置いた。
「半日でええなら、黒瀬さんの治具を作る前に、材料の押さえ方と過去の不具合は説明できます。ただし、うちの治具を分解して寸法を写すのはなしです」
「それで十分です」
3社で確認した結果、津田製作所には技術引継ぎの立会費として3万円を阪南制御機器が支払うことになった。対象は過去の不適合、材料の変形、組立側から指摘された事例の説明までであり、治具現物や津田製作所の製作用図面は含まれない。
黒瀬精機は別に、自社の機械へ合わせた新しい治具を作る。
治具製作費は6万8000円、試作14個は検査記録を含めて1万4000円。合計8万2000円で見積もり、量産単価は試作時の作業時間を確認した後に提示することにした。
「治具代を阪南さんが全額払うなら、出来上がった治具の現物は阪南さんの所有でええ」
隆夫は藤原へ条件を伝えた。
「ただし、黒瀬が作る製作用図面や加工の手順まで、治具代に含めて渡すわけやない。取引が終わった時は現物を返します。図面まで必要なら、その時に別で話をしてください」
「補修や変更が必要になった場合は?」
「阪南さんの承認をもらってから直し、変更箇所は黒瀬で記録します。勝手に削って、次の工場へ渡された時に分からんようにはせえへん」
藤原はその場で即答せず、見積条件と受渡票を社内へ持ち帰ることになった。
黒瀬精機へ戻った直人と隆夫は、借りてきた基準現物と確認板を佐野真紀へ渡した。佐野は受渡票の番号を確認し、それぞれに借用品の札を付ける。
「基準現物は、加工用の見本として削ったり書き込んだりしないでください。確認板も、返却前に黒瀬の治具と一緒に保管しないよう分けます」
森川は製造予定を確認し、治具製作から試作14個までに必要な時間を割り出した。
翌週の火曜日に治具本体と当て金を加工し、水曜日に組み立てと付け外しの確認を行う。木曜日に試作14個を加工すれば、その翌週を待たず、金曜日に出荷できる。
「既存の注文は動かさんでいけるか」
隆夫が尋ねた。
「いけます。ただし、直人さんが治具本体を加工する時間は火曜の午前だけです。午後まで延びたら、別の定番品へ掛かります」
「午前で終わらせる」
直人は製品図面を測定台へ広げ、宮田と検査箇所を決めた。
基準現物と同じ数字を作るのではなく、製品図面で保証する寸法を先に置く。取付確認板は、加工後の品物が阪南制御機器の組立条件へ入るか確かめるために使い、製品寸法の代わりにはしない。
翌日の午後、阪南制御機器から注文書が届いた。
発注されたのは、治具製作6万8000円と試作14個1万4000円の合計8万2000円。量産80個については、試作品の組付け確認後に改めて注文する条件だった。
津田製作所の立会いは、治具を作る前日の月曜日に行われた。
津田は自社の治具を持ってこなかった。代わりに、過去に穴位置が外れた品物1個と、端面に押さえ跡が残った品物1個を持参している。
「この材料、板厚は揃ってても、切った後の反りは同じやありません。細い押さえで強う締めたら、真ん中が浮きます」
津田は不適合品を定盤へ置いた。
片側を指で押すと、反対側がわずかに持ち上がる。強く締めれば加工中は平らになるものの、治具から外した時に戻り、穴位置がずれて見えることがあったという。
「うちは当て金を直したんやなく、押さえる面を広げました。どれだけ広げたかは、黒瀬さんの材料と機械で決めた方がええ」
「最初から押さえを強くせん方がええんですね」
宮田が尋ねた。
「動かん力は要る。ただ、締めた時だけ別の形になるほど押さえたらあかん。最初の数個より、材料を一束使った後の方を見た方がええです」
津田はほかにも、切断面の返りを当て金へ向けないこと、ねじ穴の切粉が材料の下へ入りやすいこと、組立側で問題になった1件は製品ではなく確認板の摩耗だったことを説明した。
約束した半日が終わると、隆夫は立会確認書へ署名した。
「助かりました。治具は引き継がんでも、仕事はつながります」
「俺も、その方が気が楽ですわ」
津田は持参した不適合品だけを箱へ戻し、黒瀬精機を出た。
火曜日、直人が治具本体を加工し、宮田が当て金と押さえ板を仕上げた。押さえ板は材料の幅へ合わせて面を広く取り、片側だけへ力が寄らない形にする。森川は完成寸法と取付位置を確認したが、津田製作所の治具と同じ形かどうかを比べる物は、黒瀬精機には存在しない。
水曜日には、治具を機械から3回外して付け直し、試し材を加工した。
3個の穴位置に差はなく、材料を外した後の反りも増えていない。確認板にも無理なく入り、ねじ穴へボルトを通した際の引っ掛かりはなかった。
木曜日、試作14個の加工へ進んだ。
最初の3個を全項目測定し、その後は5個目、10個目、最後の14個目を確認する。津田が注意した材料の反りは、途中で材料の束が変わった時にも測った。
加工を終えた14個は、すべて製品図面の範囲に収まり、取付確認板にも通った。作業時間を集計すると、治具への取付から加工、測定を含めて1個当たり6分弱だった。
森川は現在の製造予定へ当てはめ、月80個なら40個ずつ2回、いずれも半日以内で加工できると判断した。
金曜日の午後、直人と宮田が阪南制御機器へ試作品を持ち込んだ。
14個のうち12個を3台の制御盤へ取り付け、残る2個は交換用として寸法確認に使う。組立担当者がボルトを締め終えるまで、穴を広げたり、金具を叩いたりする手直しは発生しなかった。
「3台とも問題ありません」
藤原は組立側の確認印が入った試作結果票を直人へ渡した。
「量産は、40個を月2回でお願いします。単価の見積もりも出してください」
「作業時間は取れました。戻って今日中に出します」
帰り際、直人は会議室の隅に津田製作所の古い治具が置かれていないことに気づいた。
あの治具は津田の工場に残り、最後の納入分を作っている。
黒瀬精機へ持ち帰る車には、組付け確認を終えた試作品2個と、阪南制御機器の所有札が付いた新しい治具だけが載せられた。
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