第165話 図面にない0.1ミリ

 北河工業から自己運用の報告を受けた翌週の木曜日、黒瀬精機の作業場で、森川修一が次の加工へ進むのを止めた。


 機械に異音が出たわけでも、最初の加工品が公差を外れたわけでもない。


 直人が治具の位置決め当て金を外し、その裏へ薄い金属片を差し込もうとしたからだった。


「直人さん、それ何ですか」


 森川の声に、材料を並べていた宮田悟も手を止めた。


「敷き板や。これを1枚入れんと、穴位置が奥へ寄る」


 直人の指先には、幅2センチほどの真鍮板が挟まれていた。表面には油が染み、角の一つが斜めに切られている。厚みを示す数字も、使用する治具の名前も書かれていない。


 その日の仕事は、倉田向けの定番金具60個だった。


 材料を治具の当て金へ突き当て、2か所へ穴を開ける。長く繰り返し受注してきた品物で、直人にとっては体が段取りを覚えている仕事だった。


 宮田が治具を清掃して取り付けた後、直人が注文分の最初の1個を加工した。寸法は公差内に収まっているものの、穴位置が狙い値より0.1ミリ近く奥へ寄っている。


 測定値を見た直人は、迷わず自分の作業机へ向かい、引き出しから真鍮板を取り出した。


「作業票には書いてませんよね」


 森川が尋ねた。


「書いてへんな」


「治具の図面にも?」


「元の寸法しか載ってない」


「ほな、俺も宮田も知りません」


 直人は真鍮板を持ったまま、治具を振り返った。


「俺とオトンは知ってる。この当て金、昔に傷が入って、当たり面を削り直したんや。その分だけ低うなってる」


「いつ頃ですか」


「俺がこの治具の段取りを任されるようになる前やったと思う」


「それから、ずっとその板を挟んで使ってたんですか」


「せや。普段は治具を組んだまま置くことが多かったから、外れることもなかった」


 森川は、直人の手から真鍮板を取り上げなかった。


 操作盤へ停止札を掛け、注文分の最初の1個と作業票を測定台へ置く。


「この仕事、いったん保留にします」


「公差には入ってるで」


「最初の1個は入っています。でも、その板が本当に0.1ミリなのか、毎回同じ位置へ入っているのか、作業票では確認できません。直人さんがおらん日に俺がこの治具を組んだら、板なしで流してました」


 宮田は当て金の裏側を覗き込んだ。


「清掃中に落ちても、治具の部品やとは思わないです。材料の切れ端やと思って捨てるかもしれません」


「捨てたら、次から全部ずれるな」


「それを知っているのが、社長と直人さんだけなんですよね」


 直人は返事を止めた。


 北河工業では、補修時に挟まれた薄板が組立治具を傾け、実際には必要のない別仕様の金具を作りかけていた。


 旭電装では、発注先ごとに違う図面が残り、「前回同等品」という言葉の中身が会社ごとに変わっていた。


 黒瀬精機は、そうした曖昧さを分け、誰が見ても追える形へ直すことで金を受け取っている。


 その黒瀬精機の作業場に、親子しか知らない0.1ミリが残っていた。


「オトン、ちょっと来てくれへんか」


 直人が事務所へ声を掛けると、隆夫は老眼鏡を外して作業場へ出てきた。


 治具と真鍮板を見るなり、事情を思い出したらしい。


「まだ、それ使うとったんか」


「オトンが作ったんやろ」


「材料を噛ませて、当て金の当たり面を傷めた時や。平らに削り直したら、材料を止める位置が0.1ミリ奥へ入るようになった。納期が翌日やったから、裏へ真鍮板を挟んで元の位置へ戻した」


 元の図面では、治具本体の取付基準面から、材料が当たる面まで18.00ミリとなっている。


 ところが、削り直した当て金は17.90ミリ前後しかない。材料を当てると0.1ミリ奥へ入り、そのまま加工すれば穴位置も同じだけ寄る。


「新しい当て金を作る予定やったんですか」


 森川が尋ねた。


「次に手が空いたら作るつもりやった」


「空きませんでした?」


 隆夫は苦い顔をした。


「そのままでも品物は通った。俺か直人が段取りする限り、困らんかったんや」


 当時は隆夫が機械を動かし、直人が横で仕事を覚えていた。治具の癖や音の違い、薄板を挟む場所を紙へ残さなくても、親子の間だけなら仕事は回った。


 森川が製造主任となり、宮田が段取りを覚え始めても、治具に染み付いた古いやり方まで自然に変わるわけではない。


「昔の処置そのものが悪かったとは思わん」


 隆夫は当て金を手に取った。


「あの日の納期を守るには必要やった。ただ、仮の処置を今日まで残したんは、黒瀬の落ち度や」


「この60個、どうします?」


 森川が尋ねた。


 隆夫は納期表を確認した。出荷は翌日の午後。現在は木曜日の午前10時前で、新しい当て金の製作まで始めれば、別の注文へ影響が出る。


「今の治具で、管理して流す方法はあるか」


「あります。ただし、この真鍮板は使いません」


 森川は古い板を測定台へ持っていき、マイクロメーターで3か所を測った。


 中央は0.10ミリだったが、斜めに切られた端の近くはわずかに薄い。長年締め付けられた表面には、浅いへこみもできていた。


「厚みの揃った0.10ミリの板を切り出します。位置が動かないよう押さえを付け、注文分の最初の3個を全項目測定します。合格したら残り57個へ進み、10個目ごとと最後の60個目を確認します」


「今日だけの処置やな」


「はい。作業票にも次回使用禁止と書きます。新しい当て金を作るまでは、この治具で次の注文を流しません」


「納期は守れるか」


「昼までに暫定処置を閉じられれば、残業なしで終わります」


 隆夫はうなずいた。


「ほな、主任の判断で進めろ」


 森川は停止札を掛けたまま、宮田と材料棚へ向かった。


 黒瀬精機には、機械の据付や金型調整に使う薄板が、厚みごとに分けて保管されている。


 宮田は0.10ミリのものを選び、必要な幅へ切り出した。切断面の返りを落とした後、3か所を測って厚みが揃っていることを確認する。


 敷き板の端を当て金からわずかに出し、専用の小さな押さえ板で挟んだ。治具本体にも当て金にも、新しい穴や溝は加えていない。押さえを外せば元へ戻せる、その日限りの処置だった。


「取り付けるところから、もう一度やって」


 森川に言われ、宮田は当て金と敷き板を組み直した。


 左右のボルトを交互に締め、敷き板がずれていないことを目で確認する。注文分の最初の1個はすでに保留となっているため、その品物も含めて測り直した。


 穴位置は公差内だったが、暫定処置前の品物として別に置く。


 敷き板を固定した後に加工した2個目と3個目は、穴位置が狙い値の中央へ戻っていた。外形、穴径、基準面からの寸法にも問題はない。


 森川は3個分の結果を確認し、そこで初めて停止札を外した。


 残る57個の加工へ進み、10個目、20個目、30個目、40個目、50個目で機械を止める。測定は宮田が行い、森川は記録と現物を照らした。


 敷き板は動かず、穴位置にも変化は出ない。


 最後の60個目を測り終えるまで、値は許容範囲内に収まっていた。暫定処置前に加工した最初の1個も、正式な出荷検査で他の品物と同じ項目を確認し、合格品として60個へ含めた。


 倉田向けの品物は、予定どおり翌日の便へ載せられた。


 納期を守ったことで、治具の問題まで閉じたわけではない。


 森川は手書きの作業票へ、


「0.10ミリ暫定敷き板使用。今回限り。次回使用禁止。当て金再製作後に治具確認」


 と記入し、古い当て金と真鍮板を別々の袋へ入れた。


 佐野真紀は、その手書き作業票を加工記録の原本として保管した。


 次回用の作業指示書を標準様式で作る前に、森川へ尋ねる。


「この治具には、管理番号が付いていますか」


「品物の名前だけです」


「改訂履歴は?」


「ありません」


「作った時期は分かりますか」


 森川と直人は顔を見合わせた。


 隆夫も覚えていなかった。


「北河さんや旭電装さんへ、図面番号と改訂を残してくださいと言っておいて、黒瀬の治具には名前しかないんですね」


 佐野は責めるようには言わなかった。


 分からないものを分からないまま欄へ書き込まず、管理に必要な情報が欠けていることを確認しただけである。


「繰り返し使う治具には管理番号を付けます。新しく作る当て金も、何を変えたか残せるようにしてください」


「現物の寸法と用途は、俺が管理票に書きます」


 森川が答えた。


「番号は私が発行します。技術的な変更内容は、主任と直人さんで確認してください」


 さらに翌週の火曜日、新しい当て金を作る作業が製造予定へ入った。


 外部支援の注文はなく、直人は朝から工場にいる。森川は小池向けの定番品を宮田へ任せ、直人と一緒に古い当て金を測り直した。


 図面上の基準寸法は18.00ミリ。


 古い当て金は、場所によって17.89ミリから17.91ミリまで差があった。


 新しい材料から18.00ミリへ仕上げ、取付穴と当たり面を確認する。治具へ組み込み、敷き板を使わず試し材を加工すると、穴位置は狙い値の中央へ入った。


 森川は、用途、現物寸法、組付け位置を治具管理票へ記入した。


 佐野が発行した管理番号を治具本体へ表示し、新しい当て金を組み込んだ状態を初版Aとする。作業票にも、同じ治具番号と改訂記号が印字された。


 古い当て金には使用終了の札を付け、暫定処置に使った真鍮板とともに履歴袋へ保管する。


「これで、次は誰が組んでもいけますね」


 宮田が新しい当て金を見ながら言った。


「誰が組んでも同じになるかは、別の人が組んで確かめてからや」


 森川は、すぐに管理票を閉じなかった。


「次の注文では宮田が段取りして、俺が確認する。直人さんは、宮田が聞くまで答えんといてください」


「作業場にはおってええんか」


「いてください。ただし、先に手を出すのはなしです」


「厳しいなあ」


「親子しか知らない治具をなくすんでしょう」


 新しい当て金の確認が終わると、森川は繰り返し使う治具を棚から順に下ろし始めた。


 品物の名前が油性ペンで書かれただけのもの。


 裏側へ薄板が貼られたもの。


 使う向きを示す矢印はあるが、その理由が残っていないもの。


 図面はあるものの、現物と穴位置が違うもの。


 すべてを一度に直そうとはしない。まず管理番号を付け、現在の状態を測り、誰が使い方を知っているのかを一覧にする。


 直人も自分の作業机へ戻り、一番下の引き出しを開けた。


 中には、厚みも形も違う薄板、削った当て金、短く切ったピンが、小さな缶へまとめて入っている。


 見覚えのある物ばかりだったが、何に使うのかをすぐ説明できない物も混じっていた。


 直人は缶を引き出しへ戻さず、森川の測定台へ置いた。


「たぶん、ここが一番あかん」


 森川は缶の中から、数字のない薄板を1枚つまみ上げた。


「まず、この缶から確認しましょう」


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