第164話 呼ばれない火曜日

 旭電装から最初の運用結果が届いた翌週の金曜日、北河工業の片岡たち3人が黒瀬精機を訪れた。


 北河工業が黒瀬精機を離れ、自社だけで運用を始めてからは、すでに1か月以上が過ぎている。決められた自己運用期間を終えた後も数週間続け、量産前試作の処置と残る3品種の社内判断がすべて閉じてから、報告に来たのだった。


 以前のように、直人を北河工業の工場へ呼ぶためではない。


 片岡は薄いファイルを抱え、購買担当者は協力工場別の一覧、西川は北河工業の管理印が押された報告書を持っていた。


 3人が事務所の打ち合わせ机へ着くと、佐野真紀は人数分の湯飲みを置き、報告書の表紙を確認した。


「今回は、追加判断のご依頼でしょうか」


「いえ。自己運用の結果報告です」


 西川は、報告書を佐野へ差し出した。


「黒瀬さんに結論を出していただく項目はありません。契約終了後に、自分たちだけで運用できたかを記録しました」


 佐野は依頼事項の欄が空白であることを確かめ、受領日を記入した。報告書を受け取ったからといって、内容を黒瀬精機が再承認するわけではない。


 直人は向かいの席へ座り、片岡が机へ置いた金属部品を見た。


 北河工業で優先順位を付けた残り3品種のうち、最初に調べることになっていた配管固定金具だった。


「第1工場と第3工場で、取付角度が違う言うてたやつやな」


「はい。最初は、用途ごとに別品番へ分けるつもりでした」


 片岡は、金具の下へ2枚の測定表を並べた。


 第1工場と第3工場では、取り付けた後の金具の角度が異なっていた。しかし、両工場で使われている金具を定盤の上で測ると、寸法も曲げ角度も同じだった。


「第3工場の組立治具を測り直したところ、取付面が傾いていました。4年前に補修した時、台座の片側へ薄板を挟んでいたんです」


「図面には残ってへんかったんか」


「治具の補修記録には、摩耗部を修正したとしか書かれていませんでした。薄板を挟んだ理由も、誰が判断したのかも追えません」


 第3工場では、傾いた治具へ金具を取り付けるため、片側のボルトを強く締め込んでいた。それが長く続き、作業者の間では正しい取付方法として定着している。


 北河工業の3人は、違いを見つけた時点で品番を増やさなかった。


 設備保全と相談し、治具の取付面を本来の角度へ戻す。補修後に同じ金具を使って確認すると、第1工場でも第3工場でも、無理に締め込まず取り付けられた。


「配管固定金具は、1種類のまま管理します」


 片岡が結論を口にした。


「違いを見つけても、何でも品番を分けたらええわけやないんやな」


「はい。品物を分けるべきなのか、設備側を直すべきなのかを先に確認しました。危うく、傾いた治具に合わせた金具を新しい標準品にするところでした」


 次に西川が開いたのは、点検口受け板の資料だった。


 北河工業には形の異なる2種類の古い図面が残り、一方には手書きの寸法が加えられている。どちらが現在使われているものか、図面の日付だけでは決められなかった。


 西川たちは、過去5年分の設備台帳、修理記録、購買履歴を照合した。


 手書き寸法の付いた受け板は、すでに撤去された設備の補修用だった。最後の発注は3年以上前で、その設備は工場内に残っていない。


 もう一方の受け板は、現在使われている点検口の寸法と一致していた。


「古い方へ廃止印を押し、現行図面の一覧から外しました」


 西川は、赤い廃止印の付いた写しを見せた。


「原本は履歴として残しますが、購買や協力工場へ出す図面の棚には置きません。手書き寸法が撤去済み設備用だったことも記録しました」


「現行図面は作り直したんか」


「実物と照合したうえで改訂しました。ただ、古い図面を捨てて終わりにはしていません。何に使われた寸法か分からないまま消すと、似た紙が出てきた時に、同じ調査を繰り返すことになります」


 直人は、廃止印の横へ書かれた設備番号を見た。


 黒瀬精機が北河工業へ残したのは、古い図面を捨てる方法ではない。現在使える指示と、過去の理由を残す記録を分ける考え方だった。


 最後の制御箱補強板について、購買担当者は発注実績の一覧を開いた。


 外部の協力工場へ展開する候補に入っていたが、対象設備は3台しか残っていない。過去4年間の使用数も2枚で、毎月どころか毎年発注する品物でもなかった。


「量産品として協力工場を選び、初回確認まで進める必要はないと判断しました」


「作らんのか」


「必要な時には作ります。ただ、常時発注する品物にはしません。現行図面を1枚に決め、対象設備を明記しました。交換が必要になった時だけ、保全部品として個別に見積もりを取ります」


 購買担当者は、数量欄が空白の発注予定表を閉じた。


「外へ出せる状態にすることと、実際に外へ出すことは別でした。手順を作ったからといって、量産する必要のない仕事まで増やすことはありません」


 自己運用中、北河工業では新たに6件の保留が発生していた。


 旧版図面が候補工場へ送られかけたものが2件。使用設備の区分が注文書から抜けたものが1件。材料証明の不足が1件。初品の寸法外れが1件。候補工場の月間能力が必要数に届かなかったものが1件である。


 旧版図面の2件は西川が送付前に止め、当日中に正しい図面へ差し替えた。使用設備の記載漏れも同じ日に閉じている。


 材料証明の不足は、協力工場から原本を取り寄せるまで2営業日。初品の寸法外れは片岡が加工条件と測定記録を確認し、3営業日目に再試作品を合格とした。


 候補工場の能力不足については、購買部門の上席者を交え、発注配分を変更するまで3営業日掛かった。


「6件とも北河工業内で閉じました。未解決は0件です」


 西川は、解除日と署名が並んだ一覧を見せた。


「保留を解除する時は、片岡、購買、西川の3人が、それぞれの確認欄へ署名しています。黒瀬精機さんへ判断を求めた回数は0回でした」


 保留中の品物を現場へ流した件数も0件。穴を広げたり、削ったりして現場で合わせたものもなかった。


 表面処理後の量産前試作へ進んでいた保護カバー受けとセンサー支持具についても、片岡が工程と現物、購買担当者が供給能力と発注条件、西川が図面と記録を確認した。


 3人全員がそれぞれの欄へ署名し、北河工業の責任で通常発注へ切り替えている。


「残る3品種について、続きの支援はどうします?」


 直人が尋ねた。


 片岡は購買担当者と西川を見たが、相談はしなかった。答えは3人の間ですでに揃っている。


「お願いしません」


 言い方は丁寧だったが、迷いはなかった。


「配管固定金具は、治具を直して1種類のまま運用します。点検口受け板は現行図面を確定しました。制御箱補強板は量産対象から外しました。今のところ、黒瀬さんに判断をお願いする問題は残っていません」


 直人は報告書へ目を落とした。


 最初に相談を受けた時、北河工業は5品種すべてを外部の協力工場へ展開するつもりだった。図面を揃え、候補を選び、試作を確認するなら、残る3品種にも相応の支援料が発生するはずだった。


 ところが北河工業は自分たちで調べ、1品種は設備側を直し、1品種は古い図面を廃止し、1品種は量産しないと決めた。


 黒瀬精機へ頼む仕事そのものがなくなっている。


「追加支援を頼まんいう報告を、わざわざ持ってきてくれたんですか」


「途中で投げ出したと思われたくなかったんです」


 西川が答えた。


「黒瀬さんに頼らず運用できるか、結果を記録するところまでが北河の仕事でした。追加依頼がないから黙って終わらせるのは違うと思いました」


 購買担当者も続ける。


「それと、同じグループの別会社から、北河で何をしたのか聞かれています。黒瀬精機さんを紹介してもよいでしょうか」


 佐野は、すぐに承諾しなかった。


「北河工業さんの中で作られた手順や書式を説明されるのは、御社の判断です。ただし、黒瀬精機の支援内容や金額を、そのまま別会社へ当てはめることはできません」


「先方から直接相談してもらいます」


「その際は、品種数、現在の図面、使用区分、協力工場数、希望する支援範囲を、事前確認用紙へ記入していただきます」


 片岡は、分かりましたと答えた。


 3人が帰った後、直人は報告書の最後のページを開いた。


 自己運用中に黒瀬精機へ判断を求めた回数は、はっきり0回と印字されている。


「続き、来ると思ってたんやけどな」


 直人が呟くと、佐野は北河工業のファイルを閉じた。


「注文書も見積依頼も来ていません。売上予定には入っていませんよ」


「頭では分かってる」


「北河さんが失敗していれば、追加の仕事は増えたかもしれません」


「それを期待したら、何のために教えたんか分からんな」


 隆夫は自分の机で仕入先からの納品書を確認していたが、顔を上げずに言った。


「呼ばれんで済むところまで持っていく仕事やったんやろ。終わった仕事を、まだあるつもりで数えるな」


 直人は苦笑し、報告書を佐野へ返した。


 外部支援日として定めた火曜日についても、佐野は翌月から扱いを変えていた。


 北河工業の継続支援はなく、旭電装も自社運用へ移っている。依頼が入るかもしれないという理由だけで、注文のない火曜日を空けておく必要はなかった。


「火曜日は、外部支援を入れられる曜日です。外部支援のために、最初から製造を外す日ではありません」


 佐野は翌週の予定表を森川へ渡した。


「外部支援を入れる場合は、前週に製造予定を確定するまでに、注文書と日程を揃えてもらいます。予定確定後に来た依頼は、次に空いている火曜日へ回します」


「急ぎ言われてもですか」


 森川が確かめた。


「製造を止めてまで受けません。特別な事情があるなら、先に社長と主任を含めて、受けるかどうかから決めます」


 森川は予定表を確認し、翌週火曜日の欄へ2つの作業を書き込んだ。


 午前は小池向け定番品の段取り替え。


 午後は、宮田悟が担当する加工の初品確認。


「直人さんの外出予定はありませんね」


「ありません」


「それなら、午前の機械をお願いします。宮田の初品は俺が見ます」


 森川は直人へ判断を返さず、担当者の欄まで記入した。


 製造主任として、誰をどこへ置けば予定を閉じられるかを自分で決めたのである。


 翌週火曜日、黒瀬精機の事務所に外出用の鞄は用意されなかった。


 直人は朝から作業着で機械の前へ立ち、小池向け定番品の段取りを始めた。図面袋や確認用紙を車へ積む必要はなく、外出時間を見越して作業を途中で切ることもない。


 隣の機械では、宮田が治具を外し、取付面を布で拭いていた。


 森川は手を出さず、作業票の順番と宮田の動きを見ている。宮田が治具を据え、右側の取付ボルトを締めようとしたところで、森川が声を掛けた。


「締め切る前に、左の当たりを見て」


 宮田は手を止め、治具の左側へ薄いゲージを差し込んだ。


「あ、浮いてます」


「一回外して。拭いただけでは取れん切粉が、奥へ残ってるかもしれん」


 宮田が治具を持ち上げると、取付面の段差に細い切粉が貼り付いていた。


 布で表面を拭いた時には見えなかったが、治具を置くと片側だけがわずかに浮く位置である。


 切粉を取り除き、左右の当たりを確かめながら交互に締める。基準面を確認して材料を入れ、最初の1個を加工した。


 森川は完成品を測定台へ運んだが、測定器には触れなかった。


「宮田、自分で測って」


 宮田は作業票の順番どおりに、外形、穴位置、基準面からの寸法を確認した。いずれも許容範囲内に収まっている。


 初品確認欄には宮田が測定値を書き、森川が確認者として署名した。


 直人は隣の機械から一度だけ目を向けたが、測定台へは近づかなかった。


「次、流してええですか」


「ええよ。10個目でもう一度測る。途中で切粉が噛んだら、最初だけ合ってても意味ないからな」


 宮田は次の材料を治具へ置いた。


 午前の作業が進み、10個目を加工し終えると、森川は機械を止めさせた。


 宮田が初品と同じ項目を測り、作業票へ数字を書く。穴位置も基準面からの寸法も、初品から動いていなかった。


「よし。続けてええ」


 森川は10個目確認の欄へ署名し、作業票を宮田へ戻した。


 宮田が機械を再び動かす横で、直人も自分の段取りを終え、最初の材料を送り込んでいた。


 その火曜日、予定板に書かれた製造の仕事は、空白へ戻されることなく進んでいった。


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