第154話 黒瀬の外に机を置く
北河から届いた5品種の資料は、赤い未判断トレーへ収まらなかった。
佐野真紀は、厚いファイルを2冊だけトレーへ入れ、残る3冊を机の端へ立てた。どれも表紙には現在の月産数、使用工場、製作会社、図面番号が記されているが、中を開けば、現場から戻された品物の写真や手書きの修正指示、日付のない複写図面が重なっていた。
「これ、全部を前と同じように進めるんですか」
谷口佳代が尋ねた。
「まだ決まってません」
佐野は5冊の背表紙を見た。
「候補会社を2社ずつ挙げるだけでも10社です。そこから現場確認、試作指示、初回確認まで入れば、前の1品種とは比べものになりません」
机の横には、北河向け月65組、倉田、小池製作所、クロフィックスの予定が並んでいた。森川修一が毎朝組み直す加工順に、大きな空きはない。
山根製作所と青葉工業へ品物を振り分けても、黒瀬精機から仕事が消えたわけではなかった。候補会社の資料を読み、現場へ行き、確認条件を作り、止まった品の理由を確かめる仕事は、むしろ増えている。
翌朝、佐野は月130組の展開に使った時間を集計した。
北河との打ち合わせ、候補2社への訪問、試作指示書の作成と改訂、保留品の確認、電話、ファクス、記録整理。直人と森川が工場を離れた時間だけで、合わせて6日分を超えていた。
佐野自身が通常業務とは別に使った時間は42時間である。
隆夫は数字を見た後、5冊のファイルへ目を移した。
「単純に5倍はできんにしても、同時に来たら佐野さんだけで持たんな」
「電話と伝票を止めずに進めるのは無理です」
「現場も同じです」
森川が予定表を持って事務所へ入ってきた。
「俺と直人さんが順番に外へ出たら、その間の確認が宮田へ寄ります。今の北河向けなら止められても、知らん品種を5つ同時に見ろと言われたら、条件を覚えるだけで手いっぱいになります」
宮田悟は作業場から呼ばれても、できるとは言わなかった。
「今の品なら、どこで止めるか分かります。でも、新しい品を5種類いっぺんに入れられたら、同じ止め方でええのかも判断できません」
直人は時間集計の紙を見た。
5品種を受ければ売上は増える。しかし、前と同じ形を繰り返せば、品物ではなく判断の仕事が黒瀬精機へ詰まる。
「全部を受ける返事はせんとこう」
直人が言った。
「断るんか」
「今の形では受けられへんと伝える。進めるなら、北河の中にも担当と判断する場所を作ってもらわなあかん」
隆夫は腕を組んだ。
「片岡さんだけでは足りんか」
「片岡さん1人へ集めても、今度は北河の中で詰まります。工程を見る人、契約を見る人、図面と保留品を見る人を分けて、3人で1つの判定を作ってもらう方がええです」
その日の午後、隆夫は北河へ打ち合わせを申し入れた。
翌週火曜日の午後、直人と隆夫は北河へ出向いた。会議室には片岡、購買担当者、品質保証課の西川徹が待っていた。
西川は30代半ばで、これまで黒瀬が提出した保留票や確認記録を受け取っていた人物だった。ただし、候補会社の選定や現場確認には加わっていない。
「130組の展開がうまくいったので、社内では同じ方法で5品種も進められるという話になっています」
片岡が切り出した。
「候補会社は各品種2社ずつ挙げ、黒瀬さんには前回と同じように、選定条件の作成、現場確認、初回試作までお願いしたいと考えています」
「その形では受けられません」
隆夫は時間集計を机へ置いた。
「前回の1品種だけで、これだけ時間を使っています。通常の製作時間は入れてません」
購買担当者が紙を引き寄せた。
「5品種を順番に進めても難しいですか」
「順番にしても、全部の判断を黒瀬が持つ形は変わりません」
直人は答えた。
「北河さんの品種が増えるたび、こちらから人を出すことになります。最初は一緒に見ますが、最後まで黒瀬だけが通す形にはできません」
西川が尋ねた。
「黒瀬さんが見ない会社を、誰が候補から落とすんですか」
「北河さんです」
直人は5冊のうち、表紙だけを持参した2品種分の資料を机へ置いた。
「片岡さんが現場と工程を見る。購買が契約と月産数の根拠を見る。西川さんが図面の版、保留品、確認記録を見る。まず北河さん側で2社から1社へ絞り、最初の2品種だけは、その最終候補へ黒瀬が同行します」
「残り3品種は?」
「8週間のうちに全部を試作まで進めるのは無理です。残り3品種は、現状診断と、何を先に直すかの順番を決めるところまでにします。候補会社訪問や試作は、次の契約に分けます」
片岡は頷いたが、西川はまだ表情を崩さなかった。
「意見が割れた場合はどうします」
「通さないでください」
直人が答えた。
「ただし、それを3人だけの判断で本当に止められるよう、工場長と品質保証部長から権限を出してもらう必要があります。納期そのものを変える時は上司の承認が要るとしても、条件が揃うまで候補選定と試作開始を保留できなければ、担当を置く意味がありません」
購買担当者が腕を組んだ。
「候補会社を止めたら、社内の日程が遅れます」
「遅れる理由を記録して、揃ってから進める。それを黒瀬ではなく、北河さん自身で決められるようにする仕事です」
その日の打ち合わせでは、契約範囲を決めるため、代表となる2品種だけを短時間確認した。
1つは保護カバー受け、もう1つは配管固定金具である。図面と現物の数が合っているか、使用工場がいくつあるか、候補会社を探す前に何を揃える必要があるかを見るだけにとどめた。
保護カバー受けの資料には、現行版と書かれた図面のほかに、作業者が穴位置を書き込んだ複写が1枚あった。管理番号はない。
配管固定金具は、同じ品番なのに、第1工場と第3工場で曲げ角度が違うらしい。現物確認は契約後に行うこととし、その場では資料の不一致だけを記録した。
「この2品種だけでも、候補会社を探す前の整理が要ります」
直人が言った。
「5品種すべての診断は、正式な注文を受けてからです」
会議の最後に、片岡が1つの案を出した。
受入検査室の隣に、使っていない小部屋がある。以前は外注先から届いた帳票を保管していたが、今は古い棚が残っているだけだった。
そこを8週間、量産展開の専用室として使う。片岡、西川、購買担当者の3人が担当となり、5品種の図面、現物、候補会社資料、保留票を集める。
「机と棚は北河で用意します」
片岡が言った。
「黒瀬さんには、担当者教育と、最初の2品種の展開支援をお願いしたいです」
「見積もりを出します」
隆夫はその場で金額を答えなかった。
黒瀬へ戻った後、佐野を交えて仕事の範囲を分けた。
5品種の現状診断。北河の担当者3人に対する半日4回の教育。最初の2品種について、北河が各2社から1社へ絞った後の現場同行、試作条件の作成、初回試作確認まで。
残る3品種は、図面、現物、使用工場の差を整理し、次の契約で何から直すかを決めるところまでとした。
追加の現場訪問、2回目以降の試作確認、図面の新規作成は別料金である。
期間は8週間。見積金額は186万円になった。
2日後、北河から回答が届いた。
工場長と品質保証部長の連名で、片岡、西川、購買担当者の3人に、候補選定と試作開始を保留できる権限を与える文書が添えられている。条件が揃わない場合は3人のうち1人でも保留を掛けられ、解除には3人の確認が必要と記されていた。
同じ封筒には、期間8週間、金額186万円の正式な注文書も入っていた。
開始日は、担当者と専用室が揃う翌週月曜日である。
注文書を受けてから、黒瀬精機側の予定を組み直した。
直人は週に1日、北河へ出る。森川は最初の現場同行と試作確認だけに参加し、普段は黒瀬の作業場を守る。
書類の複写、配布、回収、改訂履歴は西川が管理する。佐野が持つのは、黒瀬が提供する標準書式の原本だけで、北河内の運用へ毎回判を押すことはしない。
それでも、立ち上げの最初の2週間だけは、平日の予定を空ける必要があった。
隆夫は全員を集めた。
「本来休みの第2土曜に、午前だけ4時間動かしたい。北河の仕事を増やすためやなく、平日に直人が抜ける分を先に整えるためや」
参加を求めたのは、直人、森川、宮田の3人だけだった。全員へ事前に都合を確認し、断っても通常の評価や仕事には影響させない。4時間分は休日出勤として別に記録し、割増分を含めて支払う。
「今回1回だけです」
隆夫は続けた。
「来月も必要になるなら、仕事の組み方を見直します。土曜を空き時間として使い始めるつもりはない」
森川は予定表を見て、土曜へ回す仕事を倉田の定期品と北河向け既存品の下準備だけに絞った。新しい5品種には触れず、翌週の平日を空けるための4時間にする。
「それなら出ます」
宮田が答えた。
「新しい仕事を押し込むためやなく、月曜から無理せんためなら分かります」
当日の作業は午前8時から正午までで終わった。森川は作業票の下へ、開始時刻と終了時刻、実施した工程を書き込む。
午後まで延ばした品はなく、翌週へ持ち越した残業もなかった。
正式契約が始まった月曜日、北河の専用室から古い棚が運び出された。
低い机が3つ入り、壁には5品種の名前を書いた札が並ぶ。机ごとに「現状確認中」「旧版回収待ち」「候補選定前」の区画が分けられていた。
入口には、工場長名で出された文書の写しが貼られている。
未確認品の持ち出し禁止。条件が揃わない場合、担当者は候補選定と試作開始を保留できる。
診断初日、直人と片岡、西川、購買担当者は、保護カバー受けが使われている現場へ向かった。
機械脇には、事務所管理の現行図面と、作業者が穴位置を書き込んだ複写が置かれていた。複写には管理番号がなく、作成日も分からない。
作業者は、現行図面より複写の方が分かりやすいから使っていると説明した。
西川は2枚を並べ、穴位置の数字を見比べた。複写には、現行図面とは異なる寸法が1か所書き加えられている。
「これは候補会社へ出せません」
西川は直人へ答えを求めず、片岡と購買担当者へ向き直った。
「現場の複写を全部回収し、書き加えられた寸法が必要な変更なのか、作業者だけの目安なのかを確認します。それが終わるまで、この品種の候補選定を保留します」
片岡が時刻を記録し、購買担当者も異議なしと署名した。
黒瀬から止めろと言われる前に、北河側の担当者が自分たちの権限で選定を止めた最初の記録になった。
その日の午後、5冊のファイルは専用室の棚へ収められた。
黒瀬精機へ持ち帰ったのは、診断記録の写しと、次回教育で使う質問票だけだった。
夕方、佐野は赤い未判断トレーを持ち上げた。
底が見えたのは、数か月ぶりだった。
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