第153話 空欄に入った月
月曜日の朝、俺は工場の予定表の前で、5分近く動けなかった。
仕事が少ないわけではない。
逆だった。
空いているところがなかった。
旋盤。
フライス。
検査。
クロフィックス。
通常の加工品。
追加注文。
再注文。
今週だけではない。翌週も、その次も、それぞれ仕事が入っている。
以前なら、これを見たら喜んでいたと思う。
機械が遊んでいない。
仕事が切れない。
売上になる品物が工場の中を流れている。
町工場にとって、それ以上にありがたいことはない。
だが、今の俺には別のものが見えていた。
「森川さん」
「はい」
「これ、新しい仕事1件入ったらどこ入れる?」
森川さんが俺の横へ来た。
予定表を見る。
すぐには答えない。
「いつまでの仕事です?」
「まだ来てへん。仮の話」
「それやったら答えられません」
「例えば10個、来週末」
「何を10個です?」
「……そこからか」
「そこからですよ」
笑われた。
当たり前だった。
10個でも、1時間で終わるものと2日使うものがある。
俺は予定表を見ながら、質問を変えた。
「ほな、この先、追加の仕事入れる余裕ある?」
今度は森川さんも笑わなかった。
「あります」
「ある?」
「入れようと思ったら」
嫌な答えだった。
「どうやって?」
「納期動かせる仕事ずらして、クロフィックス分けて、急がん仕事後ろへ送って。それでも足らんかったら残業です」
「それ、余裕って言う?」
「言いませんね」
「やっぱり」
「せやから、入れようと思ったら、です」
工場の奥で機械が回っている。
いつもの音だった。
少し前、クロフィックスが月50組になった頃にも、工場の狭さを感じた。
その後、必要な時期に合わせて作るようにし、完成品を1度に抱えないことで流れはかなり良くなった。
だが、今は月130組まで増えている。
その間も通常の加工仕事が消えたわけではない。
むしろ、黒瀬精機へ直接来る相談は増えていた。
何かを改善するたび、少し余裕ができる。
その余裕へ次の仕事が入る。
そして、また埋まる。
これまでは、それでよかった。
問題を1つずつ潰せば、会社が前へ進んだ。
けれど、予定表の前に立っていると、そろそろ同じやり方では追いつかない気がした。
「直人さん」
事務所から佐野さんが呼んだ。
「電話です。クロフィックスの追加について」
「どこから?」
「工具店です」
俺は事務所へ戻り、受話器を取った。
「黒瀬です」
『ああ、黒瀬さん。この前のやつ、また追加や』
「何組です?」
『まず三十。できたら来月頭までに欲しいらしい』
俺は予定表の方を見る。
さっきまで立っていた場所が、事務所からでも見える。
「三十ですね」
『いける?』
以前なら、反射的に言っていたかもしれない。
何とかします。
調整します。
作れます。
だが今は言わない。
「工場の予定確認して折り返します」
『頼むわ。向こう、前に使った分が具合ええらしいで』
「それはありがたいです」
『せやから、できたら切らしたない言うてる』
電話を置いた。
30組。
作れない数ではない。
材料も特殊ではない。
工程も分かっている。
問題は、作れるかどうかではなかった。
どこへ入れるかだ。
「森川さん」
また工場へ戻る。
「ほんまに来た」
「何が?」
「さっき言うてた新しい仕事。クロフィックス30組追加。来月頭希望」
森川さんが予定表を見た。
今度は少し長かった。
「できんことはないです」
また同じ言葉だった。
「残業?」
「それも入れたら」
「入れんかったら?」
森川さんが鉛筆を持ち、いくつかの予定を追った。
「10組なら入ります。残り二十は、今の予定のままやったら厳しいです」
「通常の仕事ずらしたら?」
「ずらせる仕事はあります」
「どれ?」
森川さんが2件を指す。
どちらも長く付き合っている取引先だった。
急ぎではない。
だが、こちらから提示した納期で受けている。
「これ動かしたら入る?」
「入ります」
「クロフィックス売るために?」
「俺はそこ決めませんよ」
「分かってる」
森川さんは、作れる方法を示しただけだ。
何を優先するかを決めるのは俺の仕事だった。
予定表の2件を見る。
クロフィックスは伸びている。
売れば売上になる。
同じ物を繰り返し作るから、段取りも読みやすい。
利益も計算しやすい。
会社にとってありがたい商品だ。
だからといって、それを増やすたびに昔からの加工仕事を後ろへ送れば、黒瀬精機はいつかクロフィックスだけを作る工場になる。
それを望んでいるわけではなかった。
「動かさんといて」
「この2件?」
「うん。約束した納期のままで」
「ほな20組足らんですよ」
「先方と話す」
俺は事務所へ戻った。
工具店へ折り返す。
「30組の件なんですけど、10組なら希望日に間に合います。残り20組は分けさせてください」
『どれぐらい遅れる?』
「1週間ほど」
『1週間か』
「はい」
向こうが黙る。
俺も黙った。
『ちょっと待ってな。客に聞くわ』
「お願いします」
電話が切れる。
これで注文がなくなる可能性もある。
それなら仕方ない。
ところが15分ほどして、また電話が鳴った。
『黒瀬さん、十と二十でええって』
「大丈夫ですか?」
『切らしたない言うても、来月頭に全部使うわけやないらしいわ。最初の十あったら回せるって』
「ありがとうございます」
『ただな』
「はい」
『この先も増えるかもしれんで』
俺は返事を止めた。
『最近、使ってるところから別の工場へ話行ってるみたいや。うちにも問い合わせ増えてんねん』
「どれぐらいです?」
『まだ注文になってへんのもある。ただ、黒瀬さんとこ、これ以上増えても作れるん?』
痛いところを突かれた。
「今のままやったら、どこかで止まります」
『正直やな』
「嘘ついてもしょうがないです」
『せやけど、売れる時に作れへんいうんも、もったいないな』
「それは俺も思ってます」
電話を切ったあと、その言葉が残った。
売れる時に作れない。
51歳だった俺なら、その言葉を嫌というほど知っていた。
仕事がない時には機械が遊び、仕事が来た時には人が足りない。
忙しい時に設備を買えば、その設備が届く頃には景気が変わっている。
人を採れば、育つまで時間がかかる。
だから忙しい時だけ残業で乗り切る。
乗り切れたら、また同じことをする。
その繰り返しの先で、オトンは倒れた。
俺も同じように働いた。
今の黒瀬精機を、そこへ戻すつもりはない。
「直人」
オトンが事務所へ入ってきた。
「難しい顔して何や」
「仕事増えすぎた」
「ええことやんけ」
「オトンならどうする?」
「何を」
「今の工場で入りきらん仕事来たら」
「納期ずらせるんやったらずらす。あかんかったら断る」
「それで売れる仕事逃しても?」
「作られへんのに取る方があかんやろ」
即答だった。
俺は少し笑った。
「何や」
「いや、昔のオトンやったら何とか入れてたんちゃうかなと思って」
「昔っていつや」
「……前の話」
危ない。
俺は言葉を飲み込み、
「俺が小さい頃とか」
と続けた。
オトンは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追わなかった。
「若い時は無茶したこともあるわ。せやけど今は人も仕事も増えてる。俺1人遅うまで残ったら済む話ちゃうやろ」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
今のオトンは、自分1人で背負う会社ではないと分かっている。
それだけでも、元の時間とは違う。
ただ、だから仕事を断り続ければいいという話でもなかった。
「機械増やす?」
俺が聞くと、オトンは工場を見る。
「置くとこあるんか」
「ない」
「ほな終わりや」
「早いな」
「何の機械買うかも決まってへんやろ」
「せやけど、このまま注文増えたら」
「その『このまま』で何百万も使えるか」
その通りだった。
売れているから機械を買う。
置けないから工場を広げる。
忙しいから人を採る。
順番を間違えれば、会社が大きくなる前に金がなくなる。
俺はオカンにも数字を出してもらった。
ここ数か月の売上。
クロフィックスの比率。
通常加工の売上。
外注費。
人件費。
材料費。
現金の動き。
「売上は増えてる」
オカンが帳面を見ながら言った。
「せやけど、クロフィックスだけ見て何か買えるほど余ってへんよ」
「分かってる」
「それと、増えてんの売上だけちゃうからね」
「何?」
「外へ出す仕事も増えてる。運ぶ回数も増えてる。佐野さんの書類も増えてる。直人かて電話ばっかりしてるやん」
加工能力だけを増やせば解決する話ではない。
また同じところへ戻る。
俺は椅子にもたれた。
「工場の中だけ見てたらあかんのかな」
「何が?」
「全部うちで作ろうとするから、詰まるんちゃうかな」
オトンが眉を寄せた。
「外注増やすんか」
「何でも外へ出すんやない」
「ほな?」
俺は紙を1枚取った。
今ある仕事を頭の中で分けていく。
黒瀬精機でなければ作れないもの。
うちで作った方がいいもの。
他の工場でも十分作れるもの。
工程の一部だけ任せられるもの。
検査や最終確認だけは黒瀬で持つべきもの。
「今まで、外注って足らん工程を頼む感覚が強かったやろ」
「そらそうや」
「でも、仕事そのものが増えるなら、それだけやと追いつかん」
オトンが黙って聞いている。
「黒瀬が全部削るんやなくて、黒瀬が受けた仕事を、どこで作るのが一番ええか決める形も考えたい」
「それ、黒瀬が責任取るんか」
「取れる範囲だけ」
「そこが一番難しいやろ」
「うん」
簡単ではない。
外へ出せば能力が無限になるわけではない。
協力先にも仕事がある。
品質も違う。
機械も違う。
得意不得意もある。
納期だけ押し付ければ、今度は外の工場を潰す。
値段を叩けば、元請けに苦しめられた自分たちが同じことをする。
それだけは避けたい。
「直人」
オトンが言った。
「うちが仕事取って、他所へ丸投げして差額取るだけやったら俺は嫌やぞ」
「俺も嫌や」
「ほな、何する」
「黒瀬がやる意味ある部分は残す。図面見て、どこで作れるか判断する。必要なら工程分ける。条件は客と確認する。最終的にうちが責任持つ仕事なら検査もする」
「それ、今より直人忙しなるんちゃうか」
オカンに言われて止まった。
「……なるな」
「意味ないやん」
「せやから、そこまで考えなあかん」
また俺1人の仕事を増やして終われば、何も変わらない。
黒瀬の中に機械を増やす代わりに、俺の頭の中へ仕事を詰め込むだけだ。
それでは工場の床が埋まるのと同じだった。
「まず、今ある協力先の仕事を整理させて」
俺は言った。
「どこが何得意で、どこまで頼めるか。誰が連絡して、誰が確認してるか。そこが俺だけになってるなら、それも変える」
オトンは腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「金かける話は、そのあとやな」
「うん」
「人増やすんも?」
「そのあと」
「工場借りるんも?」
「まだせえへん」
「分かった」
設備も採用も、工場を広げる話も、最後に決めるのはオトンだ。
俺ができるのは、その判断に必要な材料を出すところまでだった。
午後、俺は森川さんに話した。
「何でも外へ出すんは嫌ですよ」
最初の反応は予想通りだった。
「分かってる」
「難しいもんだけうちに残って、簡単なん全部外へ出したら、若いのが覚える仕事なくなりますよ」
そこまでは考えていなかった。
「……それあるな」
「あるでしょう」
森川さんは続けた。
「それに、外で作ったやつが悪かったら、結局こっちで直すんでしょう。空いたつもりが余計詰まることもあります」
「せやな」
「でも、全部うちでやるんももうしんどいです」
否定だけではなかった。
「どれなら外へ出してええと思う?」
「今すぐは決められません。仕事ごとに見たいです」
「それでええ」
「ただ」
「うん」
「直人さんが全部決めるんはやめてくださいね」
思わず笑った。
「オカンにも同じようなこと言われた」
「そら言われますよ」
「森川さんは何見る?」
「加工できるか。どこまで外でやってもろたら、こっちで確認できるか。その辺です」
「客との条件は俺が見る」
「それでええです」
答えが少しずつ見えてきた。
外へ出す仕組みを作る、ではない。
まず、判断を1人に集めない。
俺が客を見る。
森川さんが加工を見る。
佐野さんが図面と文書を管理する。
オカンが金を見る。
オトンが会社として最後に決める。
外の工場を使うなら、その延長に置く。
新しい組織を急に作る必要はない。
翌朝、俺は予定表の前へ戻った。
昨日まで仕事で埋まっていた。
今日も埋まっている。
追加30組のうち、最初の10組だけが予定へ入り、残り20組は翌週へ分かれた。
その下に、佐野さんが新しい見積依頼を1件置いた。
「これ、いつ回答します?」
「今日中。加工できるか森川さんに見てもらう」
「納期は?」
「まだ書かんといて」
「分かりました」
俺は図面を持ち上げる。
予定表には、この仕事を入れる空欄がなかった。
以前なら、その空欄を作るために何かを後ろへ押しただろう。
今は違う。
空欄がないという事実を、そのまま見る。
黒瀬精機の中へ入らないなら、入らない。
それでも仕事を取る方法があるのか。
黒瀬でやるべき部分はどこなのか。
外へ任せても責任を持てる部分はあるのか。
そこまで見てから答える。
予定表に空きはなかった。
けれど、会社の次の手までなくなったわけではない。
俺は図面を持って、森川さんのところへ向かった。
工場を大きくする前に、黒瀬精機という会社がどこまでを自分たちの仕事と呼ぶのか。
それを決める時期が来ていた。
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