第150話 月130組

 水曜日の朝、南田板金から小池製作所向けの正式品が戻ってきた。


 第二加工機横へ取り付ける受け金具は、赤札の仮品より板厚を一段上げ、通路側の角を大きく落としてある。油と切粉が下へ抜けるよう、折り曲げた部分にも逃げが設けられていた。


 森川は納品書の図面番号と品物を照らし合わせ、前もって空けていた区画へ置いた。


「曲げの外側に傷はなし。穴の仕上げと刻印をしてから、吉岡さんへ黒色処理ですね」


「うん。小池への取付日は、処理から戻る日を見て決めよう」


 直人が答えると、森川はすぐに宮田へ作業を振らず、その日の予定表を確認した。


 午前は倉田製作所向けの小口加工が入っている。小池の正式品は赤札の仮品を点検しながら使えており、今日の午前へ割り込ませる理由はない。


「小池は午後三時から俺がやります。宮田は倉田をそのまま続けてくれ」


「戻ってきたばかりやのに、急がなくていいんですか」


「処理へ出す便は夕方や。今から倉田を止めても、吉岡さんから戻る日は変わらん」


 宮田は頷き、倉田向けの穴あけへ戻った。


 午後三時になると、森川は小池正式品の穴を仕上げ、面取りを行った。直人が図面と現物を照らし合わせ、取付用ボルトが工具なしで通ることを確認する。通路側へ出る部分の寸法も測り直し、最後に「第二加工機横専用」と製作年月を刻印した。


 青い管理札は、現場へ運ぶまで品物へ添えるだけにした。機械へ取り付けた後は、可動部や材料箱に触れない固定面へ移すことになっている。


 その日の夕方、正式品は吉岡メッキへ渡された。


 黒色処理を終えて戻ってきたのは、金曜日の午前だった。森川が表面の状態とねじ穴を確認し、直人もボルトの入り方と刻印を見た。処理後の付着物もなく、午後から小池製作所へ持ち込める状態に仕上がっている。


 午後一時、直人と隆夫は正式品を小池製作所へ運んだ。


 浜野と大西に第二加工機を止めてもらい、主電源が切れていることを三人で確認する。赤札の仮品を外した後、周囲へ残った油と切粉を拭き取り、正式品を同じ位置へ収めた。


 穴位置に無理はなく、ボルトも素直に入った。


 固定後、青い管理札を金具から外し、機械の固定面へ移す。空運転を行い、続いて実際の材料を流したが、金具が材料箱や作業者の膝へ当たることはなかった。


 大西は通路側から何度か位置を確かめた。


「前より足元が広いです。材料箱を少しずらしても、角へ膝が当たりません」


「切粉の落ち方も見てもらえますか」


 直人が指すと、大西は金具の下へ手を入れず、横から目で確かめた。


「下へ抜けてます。仮のやつより掃除しやすいですね」


 正式品への切り替え時刻と確認者名は、小池側の控えへ記録した。赤札の仮品はその場で捨てず、黒瀬へ持ち帰る。正式品と並べた写真と寸法を残し、一週間の使用確認で問題が出なければ、小池の了承を得て廃棄することにした。


 小池社長は取り付けた金具を眺めながら、隆夫へ言った。


「仮品をそのまま黒くして終わりにせんかった理由が、ようやく分かったわ。角を落としただけやなく、下の空き方も違うんやな」


「実際に使ってもらわんと、どこへ油が流れて、どこに切粉が溜まるかまでは分かりませんからね」


「一覧の残りも頼みます。こっちで調べる言うてた洗浄液と機械の型式、揃えときます」


「揃った分から、次の半日を決めましょう。資料がないものを見に来ても、また同じところで止まりますから」


 小池の仕事は、それでひと区切りついた。


 黒瀬精機へ戻ったのは、午後三時二十分頃だった。


 谷口佳代の勤務は午後二時までなので、一次受け席には佐野真紀が座っていた。黒電話の横に、北河からの電話メモが置かれている。


「北河さんからです。来週月曜日の午後四時に、生産技術の方がお二人で伺いたいとのことでした。まだ確定の返事はしていません」


「用件は?」


 隆夫が尋ねる。


「新しい工場への展開相談、とだけ聞いています。注文数量の変更かどうかも尋ねましたが、資料を見ながら説明したいそうです」


 佐野は担当者名、来社人数、希望時刻を聞き取っていた。訪問を受けるとも、対応できるとも答えていない。


 隆夫は北河へ折り返した。


 月曜日の午後四時なら、北河向けの加工を止めずに話を聞ける。森川も同席させることにし、佐野は予定表へ「北河・展開相談 二名」と書き込んだ。


「森川にも最後まで入ってもらおう」


 電話を切った隆夫が言った。


「今の工場へ、どこまでなら増やせるか。わしらだけで数字を膨らませたら、主任を置いた意味がない」


 翌週月曜日の午後四時、北河の生産技術課長・片岡と購買担当者が到着した。


 片岡は挨拶を済ませると、鞄から数枚の資料を取り出した。現在の工場で使われている既定品の数量と、現場確認台で使用を止めた件数が、月ごとにまとめられている。


「現場確認台を入れてから、対象外の品を無理に使う件が減りました。止めた品が品質管理へ戻るようになったので、原因も追いやすくなっています」


 片岡は次の紙を机へ置いた。


「この運用を、来期から別の二工場へ広げることになりました」


 新たに導入する工場では、それぞれ月四十組を使う予定だという。現在の月五十組と合わせれば、北河全体で月百三十組になる。


 購買担当者が、数量の入った資料を隆夫へ向けた。


「立ち上げは三か月後です。その前月には初回分を揃えたいと考えています。現場確認台も、各工場へ一台ずつ必要になります」


 月五十組から、月百三十組。


 売上だけを見れば、大きな話だった。


 しかし、黒瀬精機の作業場では、北河以外にも倉田、小池、クロフィックスの仕事が動いている。入口の床予約と作業台を分け、森川へ確認範囲を渡したことで月五十組を安定して出せるようになったばかりである。


 購買担当者が続けた。


「必要であれば、設備の増設も含めて検討していただけますか」


 直人は、資料に印刷された月百三十組の数字を見た。


 前の人生でも、似た数字を信じたことがある。


 大口取引先から増産予定を示され、注文書が出る前に借入金で専用機を入れた。ところが、立ち上げは延期され、設計変更も重なった。実際に流れた数量は予定の半分にも届かず、機械の返済だけが毎月残った。


 空いた時間を埋めるため、採算の悪い仕事まで断れなくなった。


「いまの設備と人数で、月百三十組は作れません」


 直人が答えると、購買担当者の表情がわずかに固くなった。


「機械を一台増やしても難しいでしょうか」


「加工できる時間は増えます。でも、処理から戻った品を置く場所や、組み合わせを見る作業台、確認できる人まで一緒に増えるわけではありません。今の工場へそのまま入れれば、北河さんの品だけでなく、ほかの仕事も崩れます」


 片岡が森川を見た。


「現在、安全に増やせるのは、どの程度ですか」


「月十五組です」


 森川は遠慮せずに答えた。


「今の五十組へ足して、六十五組まで。それ以上は、別の仕事を減らすか、人と場所を増やす必要があります。残業を前提に月百三十組を続けるのは受けられません」


「機械を入れて、新しい人を採用した場合は?」


「三か月では、加工の一部を覚えるところまでです」


 森川は予定表を見ずに答えた。


「処理から戻った後の感触や、組み合わせを止める判断まで任せるには時間が要ります。立ち上げと教育を同時にやれば、教える側が加工から外れて、今の五十組まで不安定になります」


 隆夫は口を挟まず、森川の説明を聞いていた。


 現場の容量を決める役を渡した以上、客先を前にした時だけ社長の都合で数字を増やすわけにはいかない。


 購買担当者は資料を閉じかけた。


「そうなると、ほかの加工会社も含めて調達先を探すことになります」


「その方がいいと思います」


 直人が答えた。


「ただ、現在の図面だけを渡して、同じものができるとは限りません」


 片岡の手が止まった。


「加工寸法は図面に入っていますよね」


「寸法だけなら作れます。でも、どこを工具で押し込んではいけないか、処理後にどの感触で止めるか、対象外の品をどう分けるかまでは、図面だけでは伝わりません。改訂された時に旧版を止める方法も必要です」


「黒瀬さんが全量を作らなくても、同じ運用へ揃える方法はありますか」


 直人は、北河の資料を自分の側へ引き寄せた。


「まず、加工会社を選ぶ条件を決めます。必要な設備、測定器、処理先、処理後の確認方法、記録の残し方、図面改訂時の連絡と旧版停止までです。その条件を北河さんへ渡し、取引のある会社から候補を二社選んでください」


「候補が決まった後は?」


「設備一覧と担当者、使う処理先の資料を先に出してもらいます。資料が揃った会社だけ、黒瀬が現場を半日ずつ確認します。その後、各社で試作品を作り、黒瀬の基準品と並べて初回判定をします」


 購買担当者が尋ねた。


「黒瀬さんを一括の窓口にして、二社へ外注する形ではいけませんか」


「その形にはしません」


 隆夫が初めて口を挟んだ。


「うちが二社から全部買い取り、北河さんへ売る形にすれば、支払いも数量調整も品質責任も黒瀬へ集まります。作る場所を分けても、事務所と確認が詰まるだけです」


「各社と北河が直接契約する、と」


「はい。黒瀬は、量産へ移すための基準作りと初期確認を受けます。量産開始後の日常的な品質管理まで、うちが引き取ることはできません」


 片岡は、現場確認台の資料を見直した。


「新しい二工場にも、同じ確認台を入れたいと思っています」


「設置場所と作業者の動きが違えば、今の確認台をそのまま複製できない可能性があります」


 直人が答える。


「各工場の置き場所と使い方を確認してから、二台を別に見積もります。製作会社側には、現場用とは別に、加工途中と処理後を確認する方法が必要です」


「その設計も黒瀬さんでお願いできますか」


「できます。ただし、量産品の単価へ含める仕事ではありません」


 佐野は会議の横で、見積もり項目を書き出していた。


 候補会社の選定条件作成、二社の現場確認、基準品と判定方法の整理、図面番号と改訂時の運用、各社二十組までの初回試作確認。


 量産品の製作とは、内容も責任範囲も違う。


「黒瀬さんでは、最終的に何組を引き受けますか」


 購買担当者が尋ねた。


「現在の五十組に、追加十五組までです」


 隆夫が答えた。


「月六十五組を上限にします。残り六十五組は、北河さんが直接契約する会社へ分けてください」


「候補会社がうまく作れなかった場合は?」


「月百三十組の開始日を遅らせるか、導入工場を一つずつに分けてください」


 直人は数字を曖昧にしなかった。


「黒瀬が残りを被って、予定通りに見せることはしません」


 片岡と購買担当者は、小声で話し合った。


 やがて片岡が顔を上げる。


「候補会社を選ぶ前の条件作りからお願いしたいです。期間は、どのくらい見ればいいでしょうか」


「正式な注文書をいただいてから、一週間で選定条件を出します」


 直人は答えた。


「その条件で北河さんが候補二社を決め、設備一覧、担当者、処理先の資料が揃ってから、各社を半日ずつ確認します。最初の試作判定へ入れるのは、候補二社と資料が揃ってから最短で三週間です」


「三週間で量産開始、ではないんですね」


「違います。最初の試作品を判定できるところまでです。修正が出れば、その分だけ後ろへ延びます」


 森川も補足した。


「二回目以降の試作確認を最初から込みにはせん方がええです。何回で通るかは、候補会社の設備と作り方を見んと分かりません」


 片岡は条件を書き留めた。


「費用は、展開設計と試作確認をまとめてください。現場確認台の二台は、設置場所が決まってから別見積もりで構いません」


 会議が終わったのは、午後五時近くだった。


 北河の二人が帰ると、隆夫は椅子へ座り直した。


「月百三十組か。昔のわしなら、あの場で機械の値段を聞いとったかもしれんな」


「俺も前なら買ってたと思う」


 直人は正直に答えた。


「注文が増えると聞いたら、断る方が怖かったから」


「今も怖ないわけやないやろ」


「怖いよ。別の会社が安く作れたら、今の五十組まで持っていかれるかもしれん」


 森川は予定表を見ながら言った。


「せやけど、百三十組を抱えて全部遅れるよりましです。今の五十組を崩したら、値段の話より先に信用を失います」


 隆夫は頷き、佐野がまとめた項目を引き寄せた。


「ほな、見積もりを作ろ。機械を買う見積もりやない。ほかの会社でも、同じところで止められるようにする仕事や」


 翌日、佐野が見積書を印刷した。


 品名は「月産百三十組体制に向けた量産展開設計・初期確認支援」。


 作業範囲には、候補会社の選定条件作成、二社への現場確認、基準品と判定方法の作成、図面番号と改訂時の旧版停止方法、各社二十組までの初回試作確認が入っている。


 試作品そのものの製作費、遠方への交通費、二回目以降の試作確認、現場確認台二台の製作と設置説明は別見積もりとした。


 金額は四十八万円だった。


 隆夫は前回までの現場確認費と見比べたが、値下げしなかった。二社へ技術を渡せば、将来黒瀬へ来るはずだった加工量が減る可能性もある。それでも、判断と運用を外へ移す仕事を、量産受注のための無料奉仕にはしなかった。


 見積書を送った日の午後、北河の購買担当者から電話が入った。


 社内承認の資料へ添えたいので、候補会社の選定条件を先に送ってほしいという。


 隆夫は受話器を持ったまま、佐野が作った見積書を見た。


「見積もりの作業範囲が分かる項目表までは送れます。ただ、必要な設備や測定方法をまとめた選定条件そのものは、正式な注文書をいただいてから作ります」


 相手は少し黙ったが、やがて了承した。


 佐野は見積書と同じ範囲だけを示した項目表を送り、具体的な設備条件や判定値は書かなかった。


 翌週、北河から正式な注文書がファクスで届いた。


 品名欄には、「月産百三十組体制に向けた量産展開設計・初期確認支援」と印字されている。数量は一式、金額は四十八万円。


 備考には、量産品は北河が各製作会社と個別に契約し、継続生産と日常品質管理は北河と各製作会社の責任範囲とする、と明記されていた。


 佐野は注文書へ受付番号を付け、量産品の注文書とは別のファイルへ綴じた。


 森川も作業予定表を確認したが、月百三十組を書き込むことはなかった。黒瀬精機が追加で作るのは、自社分として増やす十五組と、展開に必要な基準品だけである。


 美智子は受注台帳へ四十八万円を書き、その横に「試作品製作費・確認台別」と赤鉛筆で添えた。


 月百三十組の計画は動き始めたが、黒瀬精機の機械は一台も増えていなかった。


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