第149話 初めての主任

 翌月最初の月曜日、黒瀬精機の朝礼は、いつもより少しだけ長くなった。


 隆夫が作業場の入口へ一枚の紙を貼り、その端を画鋲で押さえる。派手な辞令ではなく、佐野真紀が一太郎で作った簡素な役割表だった。


 製造主任 森川修一。


 日々の加工順序、作業台と測定器の使用調整、宮田への段取り指示、異常時の一次停止を担当する。ただし、納期変更、価格変更、図面変更、出荷判断については、社長または直人へ確認する。


 森川は腕を組み、壁の紙を見上げた。


「ほんまに貼るんですか」


「貼らんと、周りが分からんやろ」


 隆夫は画鋲が浮いていないか指で確かめた。


「森川が決めてええことと、勝手に決めたらあかんことを分けた。肩書だけ付けて、今まで通り何でも曖昧に抱えられても困る」


「一週間くらい、みんな見ますよ」


「そのうち見んようになるわ」


 美智子が台帳を抱えたまま笑った。


「でも、迷った時には見る。そういう紙なんやろ」


 宮田は壁と森川を交互に見た。


「今日から、段取りは森川さんに聞けばいいんですか」


「何でも聞くなよ」


 森川はすぐに返した。


「図面に書いてあることは図面を見ろ。今日どれから加工するか、作業台をいつまで使ってええか、ほかの仕事とぶつかった時は俺に聞け」


「今までとあんまり変わらんような気もしますけど」


「変わる。俺が決めた順番で詰まったら、俺の名前で社長に言いに行く」


 宮田は少し考えた後、納得したように頷いた。


 直人は作業台の横で、そのやり取りを聞いていた。


 肩書が付いたからといって、森川の手が急に速くなるわけではない。宮田への口調も、作業前に材料を指で確かめる癖も、先週までと変わらなかった。


 ただ、これまで森川が自然に背負っていた仕事へ、会社が名前と範囲を付けた。


 その日の予定表には、北河向け既定品の加工前工程、倉田製作所の小口部品、クロフィックスの補充品、それから小池製作所向け正式品の受け入れ準備が並んでいた。


 小池の正式品は、すでに南田板金へ曲げ加工を依頼している。完成予定は水曜日で、黒瀬に戻った後、寸法と取付位置を確認し、第二加工機横専用の表示を入れてから現場へ持ち込む段取りだった。


 森川は予定表の前で鉛筆を持った。


「午前は倉田さんの小口を先に終わらせる。宮田は穴あけから。俺は小池の正式品が戻った後に使う確認紙と、取付用の小物が揃ってるか見てから北河へ入る。クロフィックスは今日の最後で足りる」


 直人が予定表を見た。


「北河を午後に回す理由は?」


「午前から北河で機械を押さえたら、倉田さんの小口が後ろへずれます。今日中に出せる量やし、北河は午後から始めても明日の集荷に間に合います」


「クロフィックスは、田端さんが明日の朝ですね」


「はい。補充品は数が決まっとるから、夕方からでも終わります」


 隆夫は口を挟まず、森川の説明が終わるまで聞いた。


「分かった。それでやってみ」


 森川は予定表へ線を引き、宮田へ穴あけの順番を伝えた。


 午前の作業は、大きく崩れずに進んだ。


 宮田が倉田向けの部品を加工している間に、森川は小池正式品の控えを確認する。南田へ渡した図面番号、戻り予定日、現場で使うボルト、正式品へ入れる表示内容を一つずつ見ていった。


「第二加工機横専用、切替日記入欄あり。赤札は正式品に替えた時に回収ですね」


 森川が言うと、佐野が小池のフォルダを開いた。


「仮品の控えと一緒に残します。正式品の取付確認が終わるまでは、仮品の記録も閉じません」


「分かりました。戻ってきた品を置く場所だけ、先に空けときます」


 森川は作業台の端へ小さな区画を取り、紙札を置いた。南田板金から戻る小池正式品の場所である。まだ現物はないが、到着した時に北河や倉田の品へ混ざらないよう、先に場所だけを決めた。


 昼前、その日の予定が一つ崩れた。


 倉田製作所から電話が入り、注文している小口部品のうち、四個だけ先に欲しいという。相手先の組み立てが止まりかけており、午後一番に届けば作業をつなげられるらしい。


 電話を取った谷口佳代は、その場で出荷を約束しなかった。注文番号、必要数、希望時刻、残りの品は元の納期でよいかを確認し、佐野へメモを渡した。


「倉田さんから、四個だけ先行できないかとの相談です。残りは元の納期で構わないそうです」


 佐野の報告を受け、森川はすぐに返事をせず、宮田の作業台へ向かった。


「今、どこまで終わっとる」


「六個まで穴あけが終わってます。面取りはこれからです」


「測定は?」


「まだです」


 四個だけ先に仕上げることはできる。ただし、検査と梱包を途中へ差し込めば、午後から始める予定だった北河の加工が遅れる。倉田の残りをいつ終わらせるかも組み直さなければならない。


 森川は予定表を見てから、佐野へ言った。


「倉田さんには、四個を今日の午後一番に出せるか確認中と伝えてください。残りは元の納期のまま。ただし、確定の返事はまだです」


「分かりました」


 森川は直人のところへ来た。


「四個だけなら先に出せます。ただ、その分、北河の開始が一時間ほど遅れます」


「北河は明日の集荷に間に合いますか」


「何も出なければ間に合います。確認待ちが出たら、残りを明日の朝へ回すことになります」


「倉田の残りは?」


「元の納期は明日の午後です。明日の朝から続ければ遅れません」


「クロフィックスはどうします?」


「北河より先に今日中にまとめます。田端さんの朝便は動かしません」


 直人は予定表と注文書を見比べた。


「四個を先に出すなら、別梱包と先行分の確認が増えますね」


「そうです」


 森川は答えかけ、少しだけ言葉を止めた。


「倉田さんは付き合いも長いし、組み立てが止まりかけとるなら、今回くらいは――」


 そこまで言ってから、壁へ貼られた役割表を見た。


「いや。注文通りの一括出荷を分けるんやから、手間は増えます。先行対応費を出した方がええと思います。ただ、金額は俺の範囲やないです」


 隆夫は倉田の注文書を受け取り、数量と納期を確認した。


「四個の先行確認、別梱包、控えの追加で千五百円。今回はそれで出そ」


 美智子が台帳から顔を上げる。


「品代に足すんやなくて、先行対応費で分けるんやね」


「そうする。何で金額が増えたか分からん請求にはせん」


 佐野は見積書へ「先行対応費 一式 千五百円」と入力し、倉田製作所へ折り返した。


 相手の担当者は一度だけ金額を聞き返したが、組み立てを止めるよりは安いと了承した。佐野は電話受注控えへ、了承した担当者名と時刻を書き込んだ。


 森川は予定表を書き直した。


 倉田向け四個を先行し、クロフィックス補充品を午後二時までに揃える。北河は午後二時半から始め、倉田の残りは翌朝へ回す。無理に全部を今日へ詰め込まず、それぞれの約束に間に合う位置へ移した。


 宮田が予定表を見た。


「倉田の残り、今日やらないんですか」


「やった方が早く終わった気にはなるやろな」


 森川は答えた。


「でも、今日入れたら北河かクロフィックスが押される。明日の朝で間に合うものを、残業して今日へ入れる必要はない」


「今日終わらせた方が気は楽ですけど」


「その気楽さの代わりに、誰かが毎回遅うまで残ることになる。明日の仕事として予定へ書いたんやから、忘れてるわけやない」


 宮田はまだ少し納得していない顔をしていたが、倉田向け四個の仕上げへ戻った。


 森川は加工の順番を整え、測定記録を揃える。四個が確認できる状態になると、直人が現物と記録を照らし合わせた。


 寸法、穴位置、数量、注文番号に問題はない。


 直人が実務確認欄へ印を入れ、佐野が先行出荷の控えを作る。最後に隆夫が注文内容と先行対応費を確認し、社長確認欄へ判子を押した。


 午後一時前、四個は残りの注文分とは別の小箱へ収まった。


 昼便で寄った田端は事情を聞き、箱を荷台の手前へ置いた。


「倉田さん、これでつながるんですか」


「四個あれば、組み立てを先へ進められるそうです」


 森川が答えた。


「残りは明日です。全部出したことにはせんといてください」


「分かりました。先にこの箱だけ降ろします」


 田端の軽トラックが出ていくと、森川は予定表の「倉田四個先行」へ一本線を引いた。


 午後二時までに、クロフィックスの補充品も揃った。


 北河向け既定品の加工が始まったのは、予定より十分早い午後二時二十分だった。森川が加工順と測定器を使う時間を先に決め、確認品を置く台も確保していたため、前回のように宮田の加工と実務確認がぶつかることはなかった。


 それでも、午後四時半を過ぎた時点で、最後の三組が確認前に残った。


 宮田が時計を見る。


「あと三つなら、今日いけますよ」


 森川は確認待ちの品と測定記録を確かめた。


「加工は終わっとる。でも、今から十五分で見ると決めてかかるのはやめる」


「十五分もあれば足りると思いますけど」


「何も出えへん前提ならな。確認は、終わる時刻を先に決めてやるもんやない」


 森川は残り三組を確認待ちの区画へ移し、番号と翌朝確認の札を付けた。


「明日の朝一番に俺が見る」


「直人さんに回さなくていいんですか」


「現行図面、変更なし、手直しなし、記録も揃っとる。俺の確認範囲や」


 直人は少し離れた作業台で、その判断を聞いていた。


 口を挟む必要はなかった。


 森川は午後五時前に作業予定表へ翌朝の仕事を書き足した。北河の残り三組を確認し、倉田の残りを加工して検査へ回す。水曜日に南田板金から戻る予定の小池正式品については、受入場所と確認紙を準備済みと記した。


 翌朝、森川は始業より十分早く工場へ来たが、確認待ちの三組には触れず、始業時刻になるのを待って作業へ入った。


 前日に残した北河向け三組を順番に確認し、どの品にも問題がないことを記録する。隆夫の社長確認が終わったのは午前十時十分で、十一時の田端の集荷には十分間に合った。


 倉田向けの残りも午前中に揃った。森川が加工と記録をまとめ、直人が実務確認を行い、隆夫の社長確認を経て、元の納期通りに出荷される。


 昼前には倉田製作所から電話が入り、先行した四個で組み立てを止めずに済んだと連絡があった。先行対応費についての異議もない。


 谷口が内容を聞き取り、佐野は先行出荷の控えへ「先方使用確認」と追記した。


「よかったですね」


 宮田が作業場で森川へ言った。


「何が?」


「倉田さんも間に合ったし、北河も出たし、昨日三組を残して正解やったってことです」


 森川は測定器を布で拭きながら答えた。


「結果が良かったから正解になったんやない。昨日の時点で、朝に回しても集荷へ間に合うと分かっとったから残したんや」


「主任っぽいこと言いますね」


「うるさい」


 宮田が笑うと、森川も苦笑しながら測定器をケースへ戻した。


 事務所では、美智子が倉田の請求控えへ千五百円を書き足していた。その横には、佐野が記した担当者名と了承時刻が残っている。


 隆夫は二日分の作業予定表を壁から外さず、そのまま眺めた。


 前日から持ち越した仕事はあったが、隠れた残業はなかった。北河も倉田も、約束した時間に出ている。


 新しい役割表の下で、森川が引いた鉛筆の線だけが、何度も消して書き直した跡を残していた。


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