第146話 赤札のまま

 夕方便の田端商会が小池製作所へ寄る頃、外は少し暗くなり始めていた。


 仮品を入れた小さな箱は、田端の荷台で揺れないよう、他の荷とは離して置かれている。赤い札が箱の上に見えるようにしてあり、田端も積み込む時にそれを指で軽く叩いた。


「これ、間違えて普通の納品に見えたらあきませんな」


「はい。今日は仮品です」


 直人が答えると、田端は頷いた。


「仮のものほど、よう分かるようにしとかんと怖いですわ」


 黒瀬精機の車には、隆夫と直人が乗った。田端の軽トラックが少し先を走り、二人はその後ろを追う。車内には、厚紙の型と仮フォルダ、そして小池製作所から預かった古い曲げ板が置かれていた。


 小池製作所の前では、浜野が待っていた。


 工場の中は夕方の熱が残っている。動いている機械の音はあるが、第二加工機だけは朝と同じように黙っていた。止まった機械の周りには、使う予定だった材料箱が二つ、控えめに寄せられている。


「すみません、待ってました」


 浜野は仮品の箱を見るなり、少し表情を緩めた。


 隆夫は箱を持ったまま言った。


「先に言うときます。これは正式品ではありません。今日、機械を動かすための仮品です。赤札は外さんでください」


「分かってます」


 浜野はそう答えたが、目は機械へ向いている。止まっていた一台が動くかどうかで、現場の空気は変わる。急いでいる相手の目が、どうしても品物を正式な答えのように見てしまうのは仕方がない。


 だからこそ、札が要る。


 第二加工機の横へ行くと、朝に見た若い作業者も来ていた。名前は大西だという。大西は油の付いた手袋を外し、仮品を見て少し不思議そうな顔をした。


「黒くないんですね」


「黒くしないようにしました」


 直人が答える。


「正式品に見えないようにです。使ってみて当たり方を見るためのものなので」


 大西は赤い札を見た。


「これ、付けたまま使うんですか」


「はい。ただ、作業の邪魔になる位置なら動かします。見えるけど、膝や箱に引っかからない場所にします」


 隆夫はまず、取り付け面を見た。


 朝よりも油が拭かれているが、ボルト穴の周りには細かな切粉が残っている。浜野が慌てて布を取ろうとしたところで、隆夫は手で止めた。


「締める前に、座る面だけきれいにしましょう。ここに粉を噛ませたまま締めたら、仮品が悪いんか、座面が悪いんか分からんようになります」


 浜野は黙って頷き、大西と一緒に機械側の面を拭いた。


 直人はその間に、厚紙の型をもう一度機械横へ当てた。朝に作業者の膝が通った線と、材料箱を抱えた時に肘が寄る線。仮品はそこを逃がす形にしてある。数字だけで見れば少し変な形だが、この横で使うなら、その変な形に意味がある。


 仮品を合わせる。


 穴位置は合った。


 ただし、下側に油と切粉を逃がすための隙間を残しているため、浜野が最初に見せた古い曲げ板より、収まり方は少し頼りなく見える。浜野の眉がわずかに動いた。


「ここ、塞がなくて大丈夫ですか」


「塞ぐと、油と粉が溜まります」


 隆夫が答えた。


「正式品では、逃げの形をもう少しきれいに作ります。今日は溜めないことを優先します」


 仮品をボルトで軽く止め、大西にいつもの動きをしてもらった。


 何も持たずに通る。材料箱を持って通る。急ぎの時に近い動きで、少し雑に足を運ぶ。大西の膝は仮品の角をかすめなかった。材料箱の角も当たらない。だが、赤札の針金が一度だけ箱の端に触れた。


「札の位置を変えます」


 直人はすぐに言った。


 札を見える場所に残すことと、札が作業を邪魔しないことは別の話だった。隆夫が針金を短くし、通路側ではなく、機械の固定面の上へ札を移す。可動部にも材料箱にも触れない位置を選び、大西にもう一度、実際の動きで確かめてもらった。


 赤い紙は少し見えにくくなったが、作業者の手元からは読める。


 正式品ではありません。


 使用後、現場確認。


 大西はそれを読んでから、もう一度材料箱を持って通った。


「これなら当たりません」


「ほな、少しだけ動かしてみましょう」


 隆夫の声で、第二加工機が動いた。


 最初は空運転。次に、材料を一つ。大西の手が慎重に動く。浜野は機械の横で息を詰め、直人は仮品の逃げ部分と通路側の角を見ていた。


 押さえは逃げない。


 古い曲げ板のように開く気配もない。


 ただ、動かして数分もしないうちに、仮品の下側に細かな切粉が寄ってきた。塞がなかったから溜まり切らずに落ちていくが、正式品ではもっと掃除しやすい形にする必要がある。油の流れも、朝に見た想定より少し通路側へ寄っていた。


「止めてください」


 直人が言うと、大西がすぐに機械を止めた。


 浜野の顔が強張る。


「何か悪いですか」


「悪いというより、正式品で直すところが見えました。油がこっちへ寄ります。下の逃げはもう少し広くした方がいいです」


 隆夫もしゃがんで見た。


「あと、ここやな。角は丸めとるけど、正式品ではもっと大きく逃がした方がええ」


「この仮品は、今日使っても大丈夫ですか」


 浜野が聞く。


「大西さんがこの使い方を守るなら、今日の分は動かせると思います。ただし、第二加工機横だけです。外して別の場所へ持っていくのは禁止です」


 隆夫はそう言い切った。


 浜野は大西を見た。


「分かったな。これ、第二だけや」


「はい」


 大西は赤札を見ながら答えた。


 機械はもう一度動いた。今度は、少量だけ実作業に近い形で通す。止まっていた音が戻ると、工場の奥にいた他の作業者がちらりとこちらを見た。小さな音だが、止まっていた一台が動き出す音は、現場ではよく響く。


 浜野は深く息を吐いた。


「助かりました」


 隆夫は首を横に振る。


「助かったかどうかは、明日の朝に見てからです。今日動いたから終わり、ではありません」


「はい。正式品の見積もり、お願いします」


「出します。ただ、仮品の加工と取り付け、今日の現場確認も、別で請求します」


 浜野は少し目を瞬かせた。


 付き合いのある町工場同士だと、こういう場面で言いにくい空気がある。急ぎだから、困っているから、前にも頼んだから。そういう言葉の後ろに、無料の確認や無理な応急が積み重なっていく。


 隆夫は、その空気を避けなかった。


「仮で済ませるために来たわけやありません。正式品にするために、仮で動かして確認してます。そこは仕事として分けさせてください」


 浜野はしばらく黙り、やがて頭を下げた。


「分かりました。社長にもそう伝えます」


 その時、奥から小池製作所の社長が出てきた。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた、背の低い男だった。音が戻った第二加工機を見て、安心したような顔をしている。


「黒瀬さん、動いたみたいやね」


「仮で動かしてます」


 隆夫はすぐに答えた。


「正式品ではありません」


 小池社長は赤札を覗き込んだ。


「赤い札が付いとるな」


「仮品の印です。外さんでください」


「なるほどな」


 小池社長は腕を組み、工場の中を見回した。


「うち、こういう仮のまま使ってるもん、他にもあるかもしれんな」


 浜野が気まずそうに目を逸らした。


 直人は、その反応を見逃さなかった。


 小池社長は苦笑した。


「いや、責めとるんやない。動いてる間は、見えんようになるんや。止まって初めて、あれは仮やったんかと思い出す」


 隆夫は少し考えてから言った。


「全部を今日見ることはできません。見るなら、機械名と場所と、仮で使っているものを先に書き出してください。止まっているもの、止まっていないけど危ないもの、予備で直せるものを分けます」


「それも仕事として頼めるか」


「頼めます。ただ、現場確認として別に見積もります。無料のついでにはしません」


 小池社長は、今度ははっきり頷いた。


「その方がええ。ついでで見てもろたら、こっちも後で言いにくくなる」


 直人は少し驚いた。


 相手が値切ってくると思っていたわけではない。だが、小池社長の言葉には、現場の弱さを知っている人間の重みがあった。無料の親切は、その場ではありがたい。けれど、後で責任の置き場を曖昧にする。正式な仕事にすることは、相手を突き放すことではなく、相手の中にも残る形を作ることだった。


 その日は、仮品を付けたまま小池製作所を出た。


 赤札は、機械の固定面の上で小さく揺れている。見栄えはよくない。けれど、誰が見ても、まだ終わっていない仕事だと分かる。


 翌朝、水曜日。


 谷口佳代は二度目の勤務に来ていた。


 一次受け席に座ると、最初に小池製作所の仮フォルダを見た。佐野が、昨日の外出中に増えたメモを一枚追加している。


 第二加工機横。


 仮品取付済み。


 赤札継続。


 翌朝、使用後確認。


 谷口はその文字を目で追い、電話メモの欄外に「赤札」と小さく書いた。


 九時過ぎ、黒電話が鳴った。


 佐野が谷口を見る。


「取れますか」


「はい」


 谷口は受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……小池製作所さん、お世話になっております」


 直人は、作業場へ出ようとしていた足を止めた。


 谷口は、昨日より少し落ち着いた声で続けた。


「第二加工機横の仮品の件ですね。……はい、昨日の夕方から少量動かした。……赤札は付いたままですか。……はい、ありがとうございます。正式品については担当から折り返します」


 受話器を置くと、谷口はメモを未判断トレーへ入れた。


「小池製作所さん、少量運転はできたそうです。赤札は付いたまま。今朝、油の付き方を見てほしいとのことです。正式品の見積もりも希望されています」


 佐野は頷いた。


「未判断で合っています。正式品の見積もりと現場確認が混ざっていますから」


 谷口は少しだけ息を吐いた。


「赤札が残っているか、聞いてよかったですか」


「よかったです」


 直人が答えた。


「そこが外れていたら、話が変わります」


 谷口は、安心したように鉛筆を置いた。


 隆夫はすぐに小池へ折り返し、午前中の終わりにもう一度第二加工機横を見ることにした。ただし、昨日のようにその場で形を決めるのではなく、使用後の油と切粉の付き方を確認し、正式品の図へ反映させるための確認である。


 小池社長からは、別の話も出た。


 工場内で仮のまま使っている金具や板を、一度洗い出したいという。黒瀬に全部持ち込むのではなく、まず小池側で機械名、場所、止まっているかどうかを書き出す。その一覧を見て、黒瀬が現場確認日を決める。


 電話を切った隆夫は、事務所で少し黙った。


 美智子が台帳を開く。


「小池さん、広がるね」


「広がる。でも、今日すぐ全部は受けん」


 隆夫は言った。


「まず第二加工機の正式品。それから、小池さんの仮品洗い出しは別見積もりや。半日で見られる範囲を決める」


 佐野がパソコンを立ち上げた。


「では、小池製作所さんのフォルダを、正式品と現場確認で分けます。仮品控えは残します」


「請求も分けよ」


 美智子が赤鉛筆を持った。


「仮品加工、仮品取付と現場確認、使用後確認、正式品製作。ごちゃっと一式にしたら、後で何にお金がかかったか分からんようになる」


 隆夫は頷いた。


「そうする」


 その返事を聞いて、直人は少しだけ胸の奥が熱くなった。


 以前の隆夫なら、付き合いを優先して、応急の現場確認をサービスにしたかもしれない。相手が困っているなら仕方ないと、自分の時間を削ったかもしれない。だが、それを続ければ、黒瀬精機の仕事は便利な穴埋めになってしまう。


 相手を助ける。


 ただし、仕事の形を崩さない。


 その線を、隆夫自身が引き始めていた。


 昼前、隆夫と直人はもう一度小池製作所へ向かった。第二加工機横の仮品には、赤札が残っていた。油は昨日見た通り、通路側へ少し流れている。切粉は下側へ逃げていたが、角の近くに細かい粉が引っかかっている。


 直人は厚紙の型へ、新しい線を足した。


「正式品は、ここをもう少し落とします。角は大きく丸めて、下は掃除しやすくします。赤札は外します。ただ、正式品に切り替えた日と、第二加工機横専用だと分かる印は別に残します」


 浜野が聞いた。


「正式品にも印を残すんですか」


「はい。別の機械へ持っていかないためです」


 小池社長も横で頷いた。


「うちの中で勝手に動かさんようにする印やな」


「はい」


 隆夫は小池社長へ言った。


「正式品は、南田板金で曲げてもらいます。仮加工ではなく、正式な曲げです。黒処理をするかどうかは、使う場所を考えて決めます。見た目より、油と掃除の方を優先します」


「任せます」


「任せる、だけやと困ります。使用場所は第二加工機横。作業者は大西さん。そこは小池さん側でも決めてください」


 小池社長は、大西を呼んだ。


「お前が使う場所や。正式品の時も、使い方を確認せえ」


「はい」


 大西は少し緊張した顔で答えた。


 黒瀬へ戻ると、佐野が正式品用の控えを作り始めた。谷口は一次受け席で、電話メモの新しい欄を見ている。佐野が追加した欄だった。


 仮品の札は残っていますか。


 使用場所は変わっていませんか。


 止まっている機械ですか、予備の相談ですか。


 谷口は、その欄を指でなぞった。


「聞くことが増えましたね」


「増えました」


 佐野は答えた。


「でも、何を聞けばいいか分からないよりは楽です」


 谷口は頷いた。


「はい。聞き返す場所がある方が、電話は怖くないです」


 直人はその会話を聞きながら、作業台の上の仮品控えを見た。


 赤札の付いた仮品は、小池製作所でまだ動いている。だが、赤札を外す日が決まっていないわけではない。正式品の図が起こされ、南田板金へ回す準備が始まり、現場確認の費用も分けられた。


 仮のものを仮のまま終わらせない。


 そのためには、赤札を隠さず、値段も隠さず、使う場所を最後まで見なければならない。


 夕方、佐野が印刷した小池製作所の見積下書きを隆夫へ渡した。


 仮品加工。


 仮品取付・現場確認。


 使用後確認。


 正式品製作。


 四つに分かれた紙を、隆夫は黙って見た。しばらくして、社長確認欄へ判子を押す。


「これで出す」


 美智子が赤鉛筆を置いた。


「安売りやないね」


「安売りやない」


 隆夫は答えた。


「困ってる時ほど、ちゃんと仕事にせなあかん」


 直人は、一次受け席の横に残る赤札の控えを見た。


 小さな赤い紙は、工場の中でよく目立つ。


 それは失敗の印ではない。


 終わっていない仕事を、終わったことにしないための印だった。


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