第145話 別の横

 翌朝、一次受け席は空いていた。


 谷口佳代は月曜、水曜、金曜の勤務である。火曜日の事務所には、黒電話と五つの書類トレーだけが残っていた。だが、机の上には昨日の鉛筆の跡がまだある。小池製作所の電話メモには、佐野真紀の赤字で「直人・隆夫確認」と書かれ、仮フォルダの表には美智子の赤鉛筆で丸が付いていた。


 小池製作所。


 正式品希望。


 急ぎ。


 機械停止中。


 前回応急品とは別のライン。


 使用場所、第二加工機横。


 現物あり。


 その一行を見ただけで、直人は背筋の奥が重くなるのを感じた。


 前回と同じ応急品の正式化なら、黒瀬精機の中だけでも話はかなり進められる。寸法の控えがあり、使った材料も分かっている。どこで逃げを見たかも残っている。けれど、別のライン、別の使用場所となると、同じ名前の部品でも同じ仕事ではない。


 昨夕、田端商会が預かってきた現物は、油紙に包まれて小さな段ボールへ入っていた。中には、前に応急で使った受け金具と、第二加工機横で使いたいという古い曲げ板、それから小池側が手書きした簡単な寸法メモがある。寸法メモの数字だけ見れば、できない話ではなさそうだった。


 だが、数字だけで決めるには、嫌な余白が多すぎた。


 隆夫は作業着の上着を着ながら言った。


「九時に出るぞ」


「はい」


「現場を見るまでは、正式品の約束はせん。応急で機械を動かすか、正式で作るかも分けて見る」


「分かってます」


 美智子は仮フォルダを直人へ渡した。


「谷口さんのメモ、持っていき。聞いたことが消えたら意味ないから」


 直人は、昨夕預かった現物箱と仮フォルダを鞄に入れた。


 佐野は予定表を確認しながら言った。


「小池製作所さんから再度電話があった場合は、現場確認中として受けます。納期の返事は、戻ってからでよろしいですね」


「はい。俺かオトンから返します」


 入口横の白線内には、今日のクロフィックス移送用の箱が午後まで入らない予定になっている。床予約表の効果で、朝の入口は落ち着いていた。けれど、落ち着いた入口から出ていく仕事は、ひとつも軽くなっていない。


 小池製作所は、黒瀬精機から車で二十分ほどのところにあった。


 大通りから一本入った工業地帯の一角で、表には古い看板と、少し色の薄くなった社名が掲げられている。シャッターは半分開いており、中からは機械油の匂いと、断続的な加工音が外へ漏れていた。ただし、奥の一台だけは止まっている。音の抜けた場所は、工場の中で妙に目立つ。


 小池製作所の担当者、浜野が駆け寄ってきた。


「黒瀬さん、朝からすみません。急ぎになってしもて」


 隆夫は首を横に振る。


「急ぎなんは聞いてます。ただ、現場を見るまでは何も約束できません」


「はい。昨日の電話でも、そう言われました」


 浜野は少し苦笑した。


「最初は、前の応急品と同じもんを作ってもろたらええと思ってたんですけど」


 直人は鞄から谷口のメモを出した。


「電話で、前回とは別のラインだと聞いています。第二加工機横ですね」


「そうです。こっちです」


 案内された第二加工機は、工場の奥まった場所にあった。機械そのものは第一加工機と同じ系統に見える。だが、周囲はかなり違う。右側には材料を一時置きする台があり、左側には作業者が通る狭い通路がある。床には切削油が染みた跡があり、機械の足元には細かな切粉が溜まりやすそうな窪みがあった。


 浜野は機械の横を指差した。


「ここに、前と同じように受けを付けたいんです。今は古い曲げ板で誤魔化してたんですが、昨日とうとう曲がってしまって。押さえが逃げるんです」


 直人は古い曲げ板を手に取った。


 板厚は薄い。曲げの肩も甘い。無理に使えば、また同じように開く。前回の応急品と似た役目ではあるが、取り付け位置はかなり低い。しかも、すぐ横に作業者の膝が通る。


 隆夫はしゃがみ込み、機械の側面を見た。


「前の応急品、そのまま付けたら出っ張るな」


「ええ。少し出ますけど、まあ……」


 浜野が言いかけたところで、直人は通路側へ回った。


 作業者が材料を持って通る幅を、実際に歩いて確かめる。何も持たずに通るなら通れる。だが、材料箱を抱えると、肘が機械側へ寄る。そこへ前回と同じ高さの受け金具を付ければ、腕か箱が当たる。


「この高さだと、人が当てます」


 直人が言うと、浜野は少し驚いたように通路を見た。


「人ですか」


「はい。機械には付きます。でも作業者の動きと合っていません。前の応急品は、もう少し奥まった乾いた場所でしたよね」


 隆夫が頷く。


「第一加工機の横は、通路やなかった。ここは通路や」


 浜野は頭をかいた。


「同じ機械やから、同じもんでええと思ってました」


「機械は似ています。でも、横が違います」


 直人はそう言って、古い曲げ板を機械側へ当てた。曲げ板は穴位置だけなら合う。寸法メモに書かれた数字も、大きく外れてはいない。だが、取り付けた時に板の下側へ油が溜まりそうだった。さらに、切粉が入り込めば掃除しにくい。


 隆夫が指で板の下をなぞる。


「ここ、油と粉が噛むな」


「はい。正式品にするなら、下に逃げを作った方がいいです。あと、角は丸めないと通路側が危ないです」


 浜野の表情が変わった。


「そんなに変わりますか」


「変わります」


 直人は鞄から厚紙を出した。佐野が不要になった印刷紙の裏へ貼ってくれた、少し硬めの紙だった。機械横へ当て、鉛筆で穴位置と干渉しそうな線を写していく。浜野は黙ってそれを見ていた。


 隆夫は、作業者を呼んでもらった。


 実際に第二加工機を使っている若い作業者が来る。油の付いた手袋を外し、少し不安そうに立った。


「この横、普段どう通る?」


 隆夫が聞くと、作業者は材料箱を持ち上げて見せた。


「こうです。材料を持って、こっちへ置きます。急いでる時は、膝がここへ当たります」


 作業者の膝が、古い曲げ板のすぐ横を通った。


 直人は厚紙の下側へ線を一本足した。


「ここまで低くするか、通路側を逃がす必要があります」


「低くしたら、押さえが弱くなりませんか」


 浜野が聞く。


「そのまま薄板で低くしたら弱いです。だから応急品と正式品を分けます」


 隆夫が立ち上がった。


「今日中に機械を動かすための仮品は作る。ただし、前の応急品のコピーやない。高さを抑えて、当たりにくい形にする。正式品は、油と粉の逃げ、角の丸め、作業者の通り方まで見て別で作る。見積もりも別になる」


 浜野は、止まっている機械を見た。


「今日中に動きますか」


「仮品で動かす範囲なら、今日の夕方に持ってこられるかもしれん。けど、正式品として納めたことにはしません。仮品には仮の札を付けます」


「札ですか」


「仮品を正式品みたいに使い続けると、次にまた曲がります。黒瀬の控えにも、小池さんの現場にも、仮と残してください」


 隆夫の声は強くはないが、押し返されない硬さがあった。


 浜野は少し迷ったあと、頭を下げた。


「分かりました。機械を動かす方を先にお願いします。正式品は、別で見積もりください」


 直人は作業者に、もう一度材料箱を持って通ってもらった。厚紙を仮に当て、どこまでなら当たりにくいかを確かめる。完璧ではない。だが、机の上の寸法メモだけでは絶対に見えなかった線が、現場にはあった。


 小池製作所を出る頃には、厚紙には油の指跡と、何本もの鉛筆線が重なっていた。


 車に乗ると、隆夫はしばらく黙っていた。


 直人も、すぐには話さなかった。


 同じ機械。


 同じような役目。


 同じ応急品の正式化。


 それでも、横が違うだけで、作るものは変わる。昨日の電話で「前回と同じ場所ですか」と聞けていなければ、黒瀬精機は危うく違う横へ同じ形を送るところだった。


 隆夫がハンドルを握ったまま言った。


「谷口さんの聞き返し、効いたな」


「はい」


「電話で止まった仕事が、現場でよう分かった」


「前回と別ライン、って一行がなかったら、たぶん現物だけ見て進めてました」


「わしも、そうしたかもしれん」


 隆夫は正直に言った。


 直人は窓の外を見た。朝の工業地帯を、トラックと軽バンが何台も走っている。それぞれが急ぎ、それぞれが約束を抱えている。急ぎの中では、似ているものを同じものとして扱いたくなる。だが、似ているものほど、一か所違うだけで事故になる。


 黒瀬精機へ戻ると、森川と宮田が作業台の前で待っていた。


「どうでした」


 宮田が聞く。


 隆夫は厚紙を作業台へ置いた。


「前のコピーではあかん。機械は似とるけど、通路が違う」


 森川は厚紙を手に取り、油の付いた線を見た。


「現場の紙ですな」


「今日の仮品は、これで作ります。正式品は別で図を起こします」


 直人は、仮品の条件を書き出した。


 第二加工機横専用。


 仮品。


 通路側の角を丸める。


 高さを抑える。


 油と切粉が溜まる下側は塞がない。


 使用は正式品まで。


 現場確認後に正式品へ切替。


 宮田が材料棚から端材を出そうとしたところで、森川が止めた。


「それは薄すぎる。応急でも、また曲がったら意味ない」


 森川は、材質の控えが残っている端材を選び、隆夫へ見せた。


「これなら持ちます。ただ、正式な曲げ加工を南田さんへ回す時間はありません。今日の仮なら、万力と当て治具で逃げだけ作ります。量産の曲げやありません。持たせるための仮加工です」


「割れは?」


「曲げ肩を小さくしすぎると割れます。そこは逃げを大きめに取ります」


 直人は頷いた。


「黒処理もしません。仮品だと見えるように、赤い仮札を付けます」


 宮田は少し意外そうに言った。


「黒くしない方がいいんですか」


「正式品に見えると困る。今日は動かすための仮品です」


「見た目が悪くても?」


 森川が低く笑った。


「見た目が良すぎる仮品は、現場に居座るんや」


 隆夫は、すぐに小池製作所へ電話を入れた。


「黒瀬です。今戻りました。今日の夕方、仮品を一個持っていきます。正式品ではありません。赤札付きです。使用は第二加工機横だけ。明日の朝、動かした後の状態を見て正式品の形を決めます。……はい、見積もりは正式品で別に出します」


 電話を切ると、美智子が台帳へ「小池 第二加工機横 仮品」と書き込んだ。佐野はパソコンで仮品控えを作る。谷口のいない一次受け席の横には、昨日のメモが挟まれたまま置かれていた。


 森川が仮加工の準備に入り、宮田が穴位置の確認を手伝う。直人は厚紙の線を金属へ写した。鉛筆の線よりも、現場で作業者の膝が通った線を優先する。数字だけではない。油の跡、通路の幅、材料箱の持ち方。全部が、今日の形に入っていく。


 昼過ぎ、仮品はできた。


 仕上げは粗い。角は丸めてあるが、磨き込みはしていない。黒処理もない。表には赤い札が針金で付けられている。


 小池製作所 第二加工機横 仮品。


 正式品ではありません。


 使用後、現場確認。


 森川はそれを手に取り、軽く振った。


「仮にしては、ちゃんとしとる」


「ちゃんとしてない仮は怖いです」


 直人が答えると、森川は少しだけ口元を緩めた。


「それもそうやな」


 夕方便で田端商会が寄ることになった。仮品は田端の便に載せ、隆夫と直人も車で小池製作所へ向かう。取り付けだけなら小池側でもできるが、仮品の当たり方は見ておきたかった。


 出発前、直人は一次受け席の横を通った。


 谷口はいない。


 けれど、彼女が書いた「前回応急品とは別のライン」という一行は、仮フォルダの一番上に残っている。


 直人は仮品の箱を持ち直した。


 赤い札の下で、金具が小さく鳴った。


 その形は、昨日の電話がなければ作れなかった形だった。


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