第144話 聞き返す席

 月曜日の朝、谷口佳代は八時五十分に黒瀬精機へ来た。


 始業の十分前だった。早すぎるわけではない。遅いわけでもない。表の引き戸を開けた時、入口横の白線内には何も置かれておらず、床予約表には、午前中が北河向け受入の日だと書かれていた。


「おはようございます。本日からお世話になります」


 谷口は、事務所の入口で丁寧に頭を下げた。


 美智子が赤鉛筆を置き、笑って迎えた。


「おはようございます。あんまり固くならんでええですよ。最初は座る場所と、電話の音に慣れるところからです」


 佐野真紀は、一次受け席の上に電話メモを並べていた。黒電話は、前に動かした通り、一次受け席の右端に置かれている。佐野の机とは近いが、受話器を取る声が背中へ直接当たる位置ではない。


 谷口は、席へ座る前に、机の上を見た。


 電話メモ。


 鉛筆。


 消しゴム。


 五つの書類トレー。


 北河、東和、通常納品、保管室、未判断。


 それから、電話の前に小さく貼られた紙。


 納期を約束しない。


 金額を答えない。


 分からない言葉は聞き返す。


 担当から折り返します。


 谷口は、その紙を一度読んでから、椅子へ腰を下ろした。


「電話に出るのは、すぐですか」


 佐野が答えた。


「最初の一時間は、私が取ります。谷口さんは横で聞いて、同じメモを書いてください。あとで見比べます」


「はい」


「ただし、電話が続いた時は、受けてもらうかもしれません。その時は、無理に答えず、用件を聞いて折り返しにしてください」


「承知しました」


 谷口の返事ははっきりしていたが、手は少し硬い。直人は、それを見て少し安心した。緊張している人は、止まれる。自分が何でもできると思っている人の方が、最初の電話で勝手に走る。


 九時を少し過ぎると、黒電話が鳴った。


 谷口の肩が小さく動く。


 佐野が受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……田端商会さん、お世話になっております」


 谷口は、すぐに鉛筆を持った。


 田端商会。


 午前便。


 北河向け十組。


 到着、九時四十分ごろ。


 保管室へ回す荷物なし。


 佐野が受話器を置くと、谷口は自分のメモを差し出した。


「どうでしょうか」


 佐野は、自分のメモと見比べた。


「ほぼ大丈夫です。ただ、田端さんの電話は、到着時間だけでなく、何を持ってくるかが大事です。今日は北河向け十組。保管室へ回す荷物なし。そこが書けているので、使えます」


 谷口は、ほっとしたように息を吐いた。


「使える、でいいんですね」


「はい。きれいなメモより、あとで使えるメモが必要です」


 美智子が横から言った。


「字は読めたらええです。読めんのは困るけど」


 谷口は小さく笑った。


 その笑いが消えきらないうちに、また電話が鳴った。


 今度は佐野が谷口を見た。


「取ってみますか」


「はい」


 谷口は一拍置いてから、受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……はい、お世話になっております。東和工具商会さんですね」


 声は少し高いが、震えてはいない。


「……来月の説明会候補日の件ですね。はい。恐れ入ります、担当から折り返しますので、ご希望の日を二つ教えていただけますか」


 谷口は、相手の言葉を聞きながらメモを取った。


 東和工具商会。


 説明会候補日。


 来月第二火曜、第三木曜。


 新規二店まで。


 折り返し希望、本日中。


 受話器を置くと、谷口は、すぐに東和のトレーへ入れようとした。


「待ってください」


 佐野が止めた。


 谷口の手が止まる。


「これは東和さんからの電話ですが、説明会の日程は、直人さんと社長の予定も関わります。東和の原本へ入れる前に、未判断です」


「相手先ではなく、用件で分ける、ですね」


「そうです」


 谷口は赤い未判断トレーへ入れ直した。


「すみません」


「謝るところではありません。今止まったので大丈夫です」


 直人は、事務所の隅で予定表を見ながら、そのやり取りを聞いていた。


 いい。


 間違えなかったのではない。間違えかけて、止まった。新しい席が最初に覚えるべきなのは、正しい答えを出すことではなく、止まれることだった。


 九時四十分、田端商会の軽トラックが来た。


 北河向けの十組箱が、入口横の白線内へ置かれる。床予約表どおりの時間だった。宮田悟が札を確認し、森川修一が外から箱の向きを見た。


「今日は入口、きれいに空いとりますな」


 田端が言うと、隆夫が答えた。


「今だけかもしれん」


「今だけでも、ないよりましですわ」


 荷下ろしが終わると、宮田は箱を検査台へ流した。北河向けの確認表は佐野の机へ渡り、その控えだけが一次受け席へ回ってくる。谷口は、控えの番号を見ながら、通常納品ではなく北河のトレーへ入れた。


 そこまでは、順調だった。


 十時半を過ぎた頃、黒電話が続けて鳴った。


 一本目は、河内工業用品からのクロフィックス追加相談だった。佐野が受け、谷口は横で同じメモを書く。保全棚向けの追加希望、前回と同じ説明者、納品希望は来週中。佐野はその場で数量だけを確認し、正式な返事は折り返しにした。


 受話器を置いてメモを確認した直後、また黒電話が鳴った。


「今度は、取ってみます」


 谷口はそう言って、受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……倉田精密さん、お世話になっております」


 谷口は、相手の声を聞きながら、少し眉を寄せた。


「納品書の控えですね。はい。番号を確認いたします。……すみません、もう一度、番号をお願いいたします」


 相手が早口になったらしい。


 谷口は鉛筆を止め、受話器を持ち直した。


「申し訳ありません。聞き間違えるといけませんので、下三桁をもう一度お願いいたします」


 佐野が自分のメモを書き終え、谷口の方を見る。


 谷口は、番号を書き直した。


「はい、確認して折り返します。担当からご連絡いたします」


 受話器を置くと、谷口は肩を落とした。


「一回、聞き逃しました」


「聞き返せています」


 佐野はすぐに言った。


「番号は、聞き逃すより、聞き返せない方が危ないです」


 谷口は頷いたが、顔にはまだ緊張が残っていた。


 美智子が、湯呑みにお茶を注いで机へ置いた。


「電話は、相手の速さで来るからね。こっちの手の速さとは合わへんことが多いです」


「はい」


「合わん時は、合わせてもらう。それでええです」


 谷口は湯呑みに手を添えた。


 その直後、三本目の電話が鳴った。


 谷口はお茶から手を離し、受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……小池製作所さん。お世話になっております」


 直人は、予定表から顔を上げた。


 小池製作所。


 応急品から正式品へ移す話が残っている相手だった。前に応急で出したものがあるが、正式品は使用場所と現物の条件を確認してから進めることにしている。


 谷口の鉛筆が動く。


「正式品の件ですね。……はい、お急ぎとのことですね」


 受話器の向こうの声が少し大きくなった。谷口の表情が硬くなる。


「いつできるか、ですか。申し訳ありません、私は納期のお約束ができませんので、担当から……」


 そこで、相手がかぶせて話した。


 谷口の言葉が一度止まる。


 佐野が立ち上がりかけた。


 だが、谷口は受話器を置かなかった。目の前の紙を見て、もう一度口を開く。


「申し訳ありません。ここで間違えるといけませんので、先に確認させてください。機械は今、止まっていますか。それとも予備品でしょうか」


 事務所の空気が細く張った。


 谷口は、相手の声を聞きながら、ゆっくり書いた。


 小池製作所。


 正式品希望。


 急ぎ。


 機械停止中。


 前回応急品とは別のライン。


 使用場所、第二加工機横。


 現物あり。


 希望、本日中に返事。


 谷口は最後に、はっきり言った。


「担当から折り返します。お急ぎのところ恐れ入りますが、納期はその折り返しで確認させてください」


 受話器を置いた後、谷口はしばらく動かなかった。


「……すみません。途中で、折り返しますを入れるタイミングを逃しました」


 佐野は、メモを見た。


 そして、直人へ渡す。


「でも、必要なことは聞けています」


 直人はメモを受け取り、すぐに一点を見た。


 前回応急品とは別のライン。


 使用場所、第二加工機横。


 危ないところだった。


 小池は「前の応急品の正式品」と言った。だが、使う場所は前と同じではない。ここを聞かずに急ぎだけで進めれば、応急品の情報をもとに正式品を作ってしまう可能性があった。


「谷口さん、これ、かなり大事なところを止めてます」


 直人が言うと、谷口は驚いたように顔を上げた。


「そうなんですか」


「はい。前回と同じ場所だと思い込むところでした。第二加工機横なら、現物と周辺を見ないと正式品にはできません」


 隆夫がメモを覗き込んだ。


「機械停止中か」


「はい。ただ、納期はまだ返してません」


「返してなくて正解や」


 隆夫はすぐに小池製作所へ折り返した。声は低く、しかし柔らかい。


「黒瀬です。先ほどは一次受けで止めさせてもらいました。……はい、納期を勝手に返させないようにしてます。正式品の件ですが、前の応急品とは別のラインと聞いてます。第二加工機横ですね。……はい、そこなら現物を見ます。今日の夕方に品物だけ預かって、明日の朝に使用場所を確認させてください。機械停止中なら、応急で動かす範囲と正式品を分けます」


 受話器の向こうで、小池側の声が少し落ち着いたらしい。


 隆夫は何度か頷き、電話を切った。


「田端さんに夕方便で小池へ寄れるか聞く。無理なら、わしが取りに行く」


「俺も行きます」


 直人が言うと、隆夫は少しだけ考えてから頷いた。


「明日の朝の現場確認は、お前も来い。正式品にするなら、場所を見て決める」


 谷口は、自分のメモを見つめていた。


「怒らせてしまったかと思いました」


「急いでる相手は、最初から少し怒ってるように聞こえることがあります」


 美智子が言った。


「でも、怒られるのが怖くて約束したら、あとでもっと大きく怒られるんです」


 谷口は、小さく頷いた。


「分かります。前の会社で、それを何度か見ました」


 佐野は、未判断トレーから小池のメモを取り出し、赤鉛筆で「直人・隆夫確認」と書いた紙を付けた。


「これは未判断から、小池正式品の仮フォルダへ分けます。まだ通常納品ではありません」


「はい」


「それと、谷口さん。さっきの電話、怖かったと思いますが、次も同じで大丈夫です。納期は答えない。使用場所を聞く。機械停止中か予備品かを聞く。分からない言葉は聞き返す」


 谷口は、ゆっくり息を吐いた。


「はい。次は、もう少し早く折り返しますと言えるようにします」


「早さより、止めることです」


 佐野の声は静かだった。


 その一言で、谷口の肩が少し下がった。


 昼前、佐野は北河向けの確認表を処理し終えた。いつもなら電話で何度も手を止められる時間帯だが、今日は谷口が電話を受け、未判断へ戻す流れもできている。佐野の机にはまだ紙がある。それでも、原本を開いたまま電話へ飛びつく回数は減っていた。


「佐野さん、昼、先に行ってください」


 美智子が言った。


 佐野は一瞬、机を見た。


 北河。


 東和。


 通常納品。


 保管室。


 未判断。


 五つのトレーに紙は残っている。


 けれど、どれも机の上に崩れてはいなかった。


「では、十五分だけ先にいただきます」


「十五分やなくて、ちゃんと休んでき」


 美智子が少し強く言うと、佐野は苦笑した。


「はい。ちゃんと行ってきます」


 佐野が席を立つ。


 谷口は、一次受け席で電話メモを整えながら、その背中を見送った。


 直人は、その光景を見ていた。


 人を増やしたから、すぐ楽になるわけではない。今日は教える時間が増え、電話のたびに全員が耳を澄ませた。谷口も、まだ一人前に受けているわけではない。聞き逃すし、タイミングも逃す。トレーも一度は間違えかけた。


 それでも、佐野が昼に席を立てた。


 それは小さな変化だったが、黒瀬精機にとっては大きかった。


 午後二時前、谷口は帰り支度を始めた。初日の勤務はそこで終わる。机の上には、彼女が書いた電話メモが五枚残っていた。


 田端商会。


 東和工具商会。


 河内工業用品。


 倉田精密。


 小池製作所。


 そのうち二枚には、佐野の赤字が入っている。ひとつは用件で分けること。もうひとつは、機械停止中、予備品、補修用の聞き分けだった。


「今日は、ありがとうございました」


 谷口は頭を下げた。


「こちらこそ」


 隆夫が答えた。


「小池の電話、助かった」


「いえ、私は聞いただけです」


「聞けたから助かったんです」


 直人が言うと、谷口は少し困ったように笑った。


「水曜日も、よろしくお願いします」


 谷口が帰った後、事務所の中に、初日の疲れが残った。電話を教えるのは、機械を教えるのとは違う。音が見えないぶん、どこで危ないか分かりにくい。


 それでも、一次受け席には、谷口の鉛筆の跡が残っていた。


 黒電話は、以前より少しだけ違う場所にある。


 佐野の机から離れたその席で、聞き返す人が一人増えた。


 夕方、田端商会から連絡が入り、小池製作所の現物は夕方便で預かれることになった。明日の朝、直人と隆夫が第二加工機横を見に行く。


 電話で止まった仕事が、現場確認へつながった。


 直人は、小池のメモを小さな仮フォルダへ入れた。


 折り返す。


 聞き返す。


 約束しない。


 その三つだけで、今日の黒瀬精機は、一つ大きな思い込みを避けた。


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