第143話 折り返します

 求人票を職安へ出してから五日目の朝、黒瀬精機に一本の電話が入った。


 その日は、北河向けの受入がない日だった。入口横の白線内には、倉田精密へ出す納品箱が二つだけ置かれている。床予約表の通りなら、午前中に田端商会が来て、その二つを載せていく。その後は、午後まで白線内を空ける予定だった。


 作業場の流れは、以前より少し落ち着いている。


 だが、事務所はまだ落ち着いていなかった。


 佐野真紀の机には、昨日より低くなったとはいえ、北河、東和、通常納品、保管室、未判断の五つのトレーが並んでいる。紙が山にならなくなった代わりに、黒電話が鳴るたび、佐野の手は作業を止められた。


 その黒電話を、今日は美智子が取った。


「はい、黒瀬精機です。……はい、職安さん。お世話になっております」


 直人は、予定表を見ていた手を止めた。


 美智子は相手の話を聞きながら、赤鉛筆で電話メモに丸をつけていく。


「はい。事務補助の件ですね。午前九時から午後二時、週三日から。……ええ、納期回答や金額回答はしない仕事です。はい。面接でしたら、今日の午後二時半なら社長もおります」


 受話器を置くと、美智子はメモを隆夫へ渡した。


「一人、紹介してくれるって。谷口佳代さん、三十九歳。前は包装資材の会社で事務をしてたらしいわ」


 隆夫はメモを見た。


「包装資材か。電話は多そうやな」


「ただ、パソコンはほとんど触ってないって」


 佐野が顔を上げた。


「一次受けなら、最初からパソコンに触れなくても大丈夫です。むしろ、電話メモを正しく残せるかの方が先です」


「そこを見る面接やね」


 美智子が言うと、佐野は少しだけ頷いた。


 直人は、壁際の折りたたみ机を見た。脚に木片を噛ませた小さな席には、電話メモと五つの書類トレーが置かれている。まだ誰の席でもない。けれど、今日の午後には、そこへ座るかもしれない人が来る。


 人を増やすという話が、紙の上から、玄関を開けて入ってくる話に変わった。


 午後二時半の少し前、表の引き戸が控えめに鳴った。


「失礼します。職安から紹介いただきました、谷口です」


 入ってきた女性は、濃紺の上着に薄い灰色のスカートを合わせていた。新品ではないが、きちんと手入れされている。髪は後ろでまとめられ、手には茶色い封筒と小さな手帳を持っていた。


 隆夫が事務所の椅子を勧める。


「黒瀬です。今日はありがとうございます。こちらが家内で、こっちは佐野さん。実際に事務を見てもらってます」


 谷口は丁寧に頭を下げた後、直人へ目を向けた。


「息子さんも、ご同席ですか」


 その問いに、隆夫はすぐ答えた。


「息子ですが、見てるだけではありません。北河向けやクロフィックスの実務確認を見ている者です」


 谷口は、少し驚いたように直人を見たが、すぐに表情を整えた。


「失礼しました。谷口佳代と申します」


「黒瀬直人です。今日はよろしくお願いします」


 直人が頭を下げると、谷口ももう一度頭を下げた。妙に持ち上げるでもなく、子供扱いするでもない。その反応を見て、直人は少し安心した。


 面接は、隆夫が雇用条件を説明するところから始まった。


 勤務は午前九時から午後二時。まずは週三日。忙しい日を見ながら曜日を固定する。最初の一か月は試用で、電話と書類の一次受けを覚えてもらう。納期の約束、金額の返事、技術的な判断、原本の改訂はしない。


 谷口は手帳を開き、要点を書いていった。


「求人票にも、納期回答や金額回答は行わないとありました。少し珍しい書き方だと思いました」


 美智子が苦笑した。


「珍しいでしょうね。けど、ここを曖昧にすると、頼む方も頼まれる方もしんどくなるんです」


「前の会社では、電話を取った人がだいたい何でも聞かれていました。答えられない時は、担当が戻るまで伝票の束を抱えたままになることもありました」


 佐野の眉が、わずかに動いた。


「それは、かなり負担ですね」


「はい。慣れればできるんですけど、慣れてしまうと、今度は休めなくなります」


 谷口は、そこで少しだけ笑った。


 その笑い方には、苦いものが混じっていた。


 直人は、佐野の机を思い出した。種類の違う紙が重なり、電話のたびに手が止まる机。慣れればできる。そう言ってしまえば、いくらでも一人へ寄せられる。黒瀬精機が今止めなければならないのは、そこだった。


 隆夫が履歴書へ目を落とした。


「包装資材の会社は、いつまで?」


「震災の後、しばらくして辞めました。会社は続いたんですが、家の方が少し落ち着かなくて。今は子供も大きくなりましたので、昼過ぎまでなら働けます」


「午後二時までという条件は大丈夫ですか」


「はい。逆に、最初はそこまでの方が助かります。急に長く入ると、家の段取りも崩れますので」


 美智子は、その答えに頷いた。


「それでええと思います。うちも、いきなり長く入ってもらうと教える方が持ちません」


 佐野が、電話メモを一枚取り出した。


「差し支えなければ、簡単に試させてもらってもよろしいですか。電話を受けた時に、何を聞いて、何を答えないかです」


「はい」


 谷口は背筋を伸ばした。


 佐野は受話器を持たず、紙を見ながらゆっくり話した。


「たとえば、田端商会さんから電話です。『今日の午後便、十五分ほど遅れます。クロフィックスの部材は保管室へ直接でいいですか』と聞かれました。どう返しますか」


 谷口は少し考えた。


「まず、田端商会さん、お電話ありがとうございます、と受けます。午後便が十五分遅れること、クロフィックスの部材の行き先を確認したいことをメモします。その場で、保管室でいいですとは答えません。担当に確認して折り返します、とお伝えします」


 佐野は頷いた。


「折り返し先は?」


「田端商会さんの電話番号、担当の方のお名前を確認します。いつまでに返事が必要かも聞きます」


「いいと思います」


 佐野の声が少し柔らかくなった。


 直人は、もう一枚メモを出した。


「では、小池製作所さんから、『前にお願いした応急品の正式品を急いでほしい。いつできるか』と聞かれた場合はどうしますか」


 谷口は、今度は少し眉を寄せた。


「いつできるかは答えません。急いでいる理由を聞いて、機械が止まっているのか、予備品なのか、補修用なのかを確認します。それから担当から折り返します、とお伝えします」


「使用場所は聞きますか」


「はい。正式品なら、使う場所も必要だと思います。前の応急品と同じ場所かどうかも、分かれば聞きます」


 隆夫が小さく息を吐いた。


「ええな」


 谷口は、そこで少し不安そうに言った。


「ただ、機械の名前や部品の言葉は分からないと思います。聞き間違えるかもしれません」


「聞き返してください」


 直人はすぐに答えた。


「分からない言葉を、分かったふりで書かれる方が困ります。カタカナでも漢字でも、相手にゆっくり言ってもらってください」


 谷口は手帳に「聞き返す」と書いた。


「それをしても、怒られませんか」


 その問いに、事務所が一瞬だけ静かになった。


 隆夫が、低い声で答える。


「怒らせません。うちの電話ですから」


 美智子も続けた。


「分からんものを分からんと言える席にしたいんです。全部答える席ではなくて、止めて戻す席です」


 谷口は、手帳から顔を上げた。


「それなら、私にもできるかもしれません」


 その言い方は、強くはない。けれど、逃げてもいなかった。


 面接の途中で、黒電話が本当に鳴った。


 佐野が取ろうとしたが、隆夫が目で合図した。今は、実際の動きを見るにはちょうどいい。


「谷口さん、横で聞いていてください。今日は佐野さんが取ります」


「はい」


 佐野が受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……お世話になっております、布施機材商会さん。……田島研磨さんの金属トレーの件ですね。細かな仕様は担当から確認します。はい、折り返します」


 佐野は余計な説明をせず、用件だけを短く受けて受話器を置いた。それからメモを書き、赤い未判断トレーへ入れる。


 谷口がそれを見て、少し首を傾げた。


「布施機材商会さんなのに、東和のトレーではないんですね」


 佐野は、すぐに説明した。


「販売店としての布施さんなら東和ですが、今回は田島研磨さんの個別相談です。金属トレーの仕様に関わるので、まだ未判断に入れます」


「なるほど。相手先だけでは分けないんですね」


「はい。用件で分けます」


 谷口は、その場でメモに一行足した。


 相手先ではなく、用件で分ける。


 直人は、その文字を横から見た。


 きれいな字ではあるが、急いで書いた線には迷いがない。少なくとも、聞いたことを自分の言葉へ直して残す力はある。パソコンが使えるかどうかより、今の一次受け席にはそちらが必要だった。


 面接が終わる頃には、事務所の空気が少し変わっていた。


 谷口は、封筒から職安の紹介状を出した。


「採用いただけるかは別として、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 隆夫が言うと、谷口は折りたたみ机を見た。


「あちらの席が、私の席になるのでしょうか」


「最初はあそこです。狭いです」


「狭いのは構いません。ただ、佐野さんの後ろですよね。電話を取ると、声が邪魔になりませんか」


 佐野が少し目を丸くした。


 直人も、そこまでは見ていなかった。


 折りたたみ机は、佐野の斜め後ろにある。人が座るだけなら収まる。だが、電話を受ける席としては、佐野の集中を切る位置でもある。


 森川が作業場から顔を出した。


「声の置き場まで考えなあきませんのか」


「電話の席なら、必要です」


 谷口は遠慮がちに言った。


「前の会社で、後ろから電話の声が重なると、伝票を間違えやすかったので」


 佐野は、すぐに立ち上がった。


「机の向きを変えましょう。壁を背にして、電話は入口側。私の後ろではなく、横に声が流れる位置にします」


 美智子が椅子をどかし、直人と宮田が折りたたみ机を少し動かした。脚の木片を噛ませ直すと、机は壁際に斜めを向いて収まった。


 黒電話も、佐野の机の端から一次受け席の右端へ移した。線が届く範囲で置き場所を変え、受話器を取った時の声が佐野の背中へ直接当たらないか、実際に座って確かめる。


「これなら、だいぶ違います」


 佐野が言った。


 広くなったわけではない。それでも、電話を取る人と、原本を見る人の場所は、少しだけ分かれた。


 谷口は、それを見て小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 隆夫は腕を組んだ。


「谷口さん、来週の月曜から来られますか」


「はい。月曜、水曜、金曜でよろしければ」


「まず一か月、試用でお願いします。九時から二時。最初の二週間は電話を横で聞いて、メモと仕分けを中心に。慣れてきたら、一次受けをお願いします」


「承知しました」


 谷口は、はっきり答えた。


 採用が決まると、美智子はすぐに台帳の端へ勤務予定を書いた。佐野は予定表に「谷口さん 月水金 九時―二時」と入力し、印刷する。隆夫は職安へ返す書類を封筒へ入れた。


 直人は、名前の入った予定表を見た。


 黒瀬精機に、新しい人が来る。


 それは、人手が一つ増えるというだけではない。教える時間が増え、間違える可能性も増える。机の位置ひとつで、佐野の集中を邪魔することもある。人を迎えるとは、会社の中に新しい動線を一本引くことだった。


 夕方、谷口が帰った後、事務所には少しだけ緊張が残っていた。


 佐野は、一次受け席の電話メモを整えながら言った。


「少し、怖いですね」


 美智子が聞き返す。


「人が増えるのが?」


「はい。楽になるはずなんですけど、最初は仕事が増えます」


「増えるやろね」


 隆夫が答えた。


「でも、このまま佐野さん一人に寄せる方が怖い」


 佐野は、何も言わずに頷いた。


 黒電話が鳴った。


 今度は一次受け席の右端で鳴った。


 佐野は一瞬だけそちらを見てから、立ち上がって受話器を取った。いつもと同じ電話なのに、取る場所が少し違うだけで、事務所の音の流れも違って聞こえる。


 来週から、その一拍を分ける相手がいる。


 まだ仕事は減っていない。


 けれど、机の上に置かれた新しい予定表には、確かに一人分の名前が増えていた。


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