第142話 もう一つの席

 床の予約表を貼った翌日、入口横の白線内には、朝のうちだけ北河向けの十組箱が置かれた。


 昨日までなら、そこへ倉田精密の納品箱やクロフィックスの部材が寄ってきて、どの箱も札は合っているのに手が迷う状態になっていた。今日は違う。北河向けの箱を受け、確認表を付け、検査台へ流した後、白線内は一度空いた。


 宮田悟は、その空いた床を見て、少しだけ得意そうな顔をした。


「床予約表、効いてますね」


 森川修一は旋盤の前で刃物を替えながら、ちらりと入口を見る。


「今日はな。三日続いたら、本物や」


「厳しいですね」


「一日だけ片づく工場は、ようある」


 宮田は言い返せず、納品箱の札をもう一度確認した。


 直人は、そのやり取りを聞きながら事務所へ戻った。入口の床は確かに空いた。だが、机の上は空いていなかった。


 佐野真紀の机には、北河の受入予定表、東和工具商会の販売店説明会候補日、田島研磨の個別相談票、倉田精密の納品控え、クロフィックス保管室の出入り記録が重なっている。パソコンの画面には予定表が開かれているが、横には手書きの電話メモが三枚あり、プリンターの上には印刷待ちの紙が伏せてあった。


 佐野は、いつものように背筋を伸ばして座っていた。


 けれど、右手は止まっている。


「佐野さん?」


 直人が声をかけると、佐野は画面から目を離さずに答えた。


「少し、順番を間違えそうになりました」


 事務所の空気が変わった。


 美智子が赤鉛筆を置く。


「何を?」


「東和工具さんの販売店説明会候補日を、北河さんの受入固定表に入れかけました。まだ入力前です。気づいたので止めています」


 佐野は淡々と言ったが、その声は少し硬かった。


 直人は机の上を見た。北河、東和、田島、倉田。紙の色も、札の形も分けてある。けれど、机の面積には限りがある。現場の床と同じことが、事務所の机の上でも起きていた。


 美智子が、ゆっくり椅子を引いた。


「紙の入口も詰まったね」


「はい」


 佐野は短く答えた。


「五時まで勤務にしていただいてから、午後の結果をその日のうちに処理できるようにはなりました。ただ、電話を受けながら原本を直し、外注の戻りを台帳へ入れ、販売店の控えも作るとなると、途中で紙の種類を入れ替える時間がありません」


「休憩は取れてる?」


 美智子の声は、少し低かった。


 佐野は一瞬だけ黙った。


「昼は取っています」


「昼は、やね」


 佐野は答えなかった。


 直人は、胸の奥に重いものを感じた。床の予約表を作り、入口の混雑を少し解いたつもりでいた。だが、場所を空けた分だけ、紙が前へ進む。紙が前へ進めば、それを受ける人の手が詰まる。


 黒瀬精機には、佐野がいる。


 それは大きい。


 だが、佐野がいるから大丈夫、ではない。有能な人ほど、危ないところまで黙って持ってしまう。


 奥から隆夫が事務所へ入ってきた。手には北河の確認表を持っている。


「どうした」


 美智子が先に答えた。


「佐野さんの机が詰まった。床の次は机や」


 隆夫は佐野の机を見て、すぐに顔をしかめた。


「これ、一人で見る量か」


「昨日より増えたわけではありません」


 佐野は言った。


「ただ、種類が増えています。北河は固定表、東和は販売店、田島は個別相談、倉田は通常納品、クロフィックスは保管室。紙の枚数より、切り替えが多いです」


 森川が作業場から声をかけた。


「機械でも段取り替えが多い日は、品物の数より疲れますわ」


 佐野は、少しだけ目を伏せた。


「事務も同じです」


 その一言は、事務所の中に重く残った。


 隆夫は椅子に座らず、腕を組んだ。


「人を増やすか」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 人を増やす。


 簡単に言えるが、簡単な話ではない。賃金が増える。教える時間がいる。机がいる。電話を取らせるなら、何を答えてよいか決める必要がある。帳面に触らせるなら、どこまで見せるかを決めなければならない。


 ただの人数ではない。


 もう一つの席を作る話だった。


 直人は、佐野の机の隣を見た。そこには、古い書類箱と、使っていない卓上カレンダー、過去の納品控えを入れた紙袋が置かれている。座ろうと思えば、小さな椅子は置ける。しかし、その椅子に座った人が何をするのかは、まだ決まっていない。


「人を募集する前に、席を作りましょう」


 直人が言うと、隆夫が眉を上げた。


「席?」


「はい。机と椅子だけではなく、任せる仕事の範囲です。電話の一次受け、納品控えの番号振り、保管室の出入り記録、コピーと配布。そこまで。原本の改訂、見積条件、北河や東和への返事は、佐野さんとオカンが見る」


 美智子が、直人の方を見た。


「うちは見るけど、佐野さんに返す前提やね」


「うん。オカンは赤鉛筆で止めるところを見る。佐野さんは原本と文書番号を見る。新しい人には、判断させない」


 佐野は、すぐに反応した。


「電話の一次受けは助かります。ただし、相手に答える内容を絞らないと危ないです。『担当から折り返します』で止める電話と、その場で受けてよい電話を分ける必要があります」


「分けましょう」


 直人は頷いた。


「北河、東和、外注先、通常客。相手によって、取っていい内容を決める。納期変更や金額の話は、受けない。用件を聞いて、誰へ渡すかを決めるだけです」


 美智子が赤鉛筆を取った。


「午前だけの人?」


「最初は午前から昼過ぎまでがいいと思う。朝の電話と受入が一番重い。午後は佐野さんが整理する。いきなり五時までの人を入れると、教える方が持たへん」


 佐野は少し考え、机の上の紙を四つに分け始めた。


「任せられる紙と、任せてはいけない紙を分けます」


 北河の原本は、佐野の手元へ残す。


 東和工具の販売店確認票も、原本は残す。


 倉田精密の納品控えは、番号振りと封筒分けまでなら渡せる。


 クロフィックス保管室の出入り記録は、転記ではなく、控えの綴じ込みまでなら渡せる。


 田島研磨の個別相談票は、まだ渡せない。


 佐野は、紙を分けながら首を振った。


「思ったより、渡せるものが少ないです」


「それでええ」


 隆夫が言った。


「最初から全部渡せる人間がおったら、佐野さんが要らん」


 佐野は少し困ったような顔をしたが、すぐに真面目な表情へ戻った。


「では、新しい席の仕事は、受けた紙を正しい場所へ置くことからですね」


 美智子は机の下から空の書類トレーを四つ出した。古いものだが、割れてはいない。佐野がすぐに白い紙を切り、トレーの前面へ貼る。


 北河。


 東和。


 通常納品。


 保管室。


 それから、赤い紙で一つ。


 未判断。


 入口から様子を見ていた宮田が、赤いトレーに目を止めた。


「分からない紙を入れる場所ですか」


 佐野が頷く。


「分からない紙を、勝手にどれかへ入れないためです」


 その言い方は、少しだけ疲れていたが、声には戻りつつある力があった。


 直人は、未判断の赤いトレーを見た。


 現場で戻さない箱を作った時と似ている。分からないものを、元の流れへ戻さない。決められないものを、勝手に決めない。その考え方は、部品でも箱でも紙でも同じだった。


 ただ、今日はそれを長く語らない。


 目の前の仕事が先だった。


 昼前、隆夫は古い折りたたみ机を倉庫から出してきた。脚の一本が少しがたついている。森川が木片を噛ませ、宮田が布で拭いた。事務所の壁際、佐野の机の斜め後ろに置くと、人が一人座れるだけの小さな席ができた。


「狭いな」


 隆夫が言った。


「狭いです」


 直人は答えた。


「でも、ここから始めます。広い席を用意できるまで待っていたら、佐野さんの机が先に潰れます」


 佐野は新しい席を見たあと、自分の机の上から電話メモの束を取った。


「この席の人に渡す電話メモは、これにします。用件、相手、折り返し先、急ぎかどうか。判断欄は空欄にしておきます」


「名前は?」


 美智子が聞いた。


 佐野は少し迷い、電話メモの上に鉛筆で書いた。


 一次受け。


「補助と言うと、何でも手伝う席になります。最初は、一次受けで止めた方がいいと思います」


 直人は、その言葉に頷いた。


 何でも手伝う人は、何でも抱える人になる。黒瀬精機が今作ろうとしているのは、便利な雑用席ではない。電話と紙の入口を整え、判断が必要なものを正しい人へ戻す席だった。


 午後、職安へ出す求人票の下書きを作った。


 職種は、事務補助。


 ただし、仕事内容の先頭には、電話の一次受けと書いた。


 勤務は午前九時から午後二時。


 週三日から相談。


 電話の一次受け、納品控えの整理、書類トレーへの仕分け、保管室出入り記録の綴じ込み。


 納期回答、金額回答、技術判断、原本改訂は行わない。


 佐野は、最後の一文を見て言った。


「ここまで書くと、応募する人が減るかもしれません」


「減ってええ」


 隆夫が即答した。


「何でもします、いう人が来たら、何でも頼んでしまう」


 美智子が求人票の余白に、赤鉛筆で「最初に範囲を説明」と書いた。


「人を雇う時も、押し込んだらあかんね」


 その言葉に、直人は少し笑った。


 佐野も、やっと小さく笑った。


 夕方前、仮の一次受け席に、電話メモと五つの書類トレーが置かれた。誰もまだ座っていない。だが、席の役目は決まり始めている。


 そこへ、黒電話が鳴った。


 佐野が取ろうとしたが、直人が手で止めた。


「試しに、俺が一次受けをします」


「直人さんが?」


「仕事の範囲が合ってるか見ます」


 直人は受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……小池製作所さん。お世話になっております。正式品の件ですね。担当から折り返しますので、現物の使用場所と、希望日だけ先に教えてください」


 技術判断はしない。


 納期も約束しない。


 聞くべきことだけを聞き、電話メモへ書く。


 相手が少し急いでいる声を出したが、直人は「確認して折り返します」と繰り返した。受話器を置くと、佐野がメモを覗き込む。


「使えます。ただ、希望日だけだと弱いです。止まっている機械か、予備品かの欄が要ります」


 美智子が赤鉛筆でメモへ線を入れる。


 機械停止中。


 予備品。


 補修用。


 隆夫が笑った。


「一回電話取っただけで増えたな」


「増えました」


 佐野は、今度は少し楽そうに答えた。


「でも、増やしてから渡せます」


 直人は、一次受け席の小さな机を見た。


 まだ誰も座っていない。


 古い折りたたみ机で、脚には木片が噛ませてある。立派な席ではない。だが、その上には電話メモがあり、書類トレーがあり、任せてよい仕事と、任せてはいけない仕事の線がある。


 人を増やすとは、ただ椅子を一つ置くことではない。


 その人が迷った時に止まれる場所を、先に作ることだ。


 五時前、佐野は今日の原本を整え、求人票の下書きを封筒へ入れた。明日、隆夫が職安へ持っていくことになった。


 帰り支度をする佐野の机には、まだ紙が残っている。


 けれど、朝のように重なってはいなかった。


 北河。


 東和。


 通常納品。


 保管室。


 未判断。


 五つのトレーに分かれた紙は、それぞれの場所で待っている。


 直人は、空の一次受け席を見た。


 黒瀬精機には、まだ人が足りない。


 だが、足りないからといって、誰でも座らせるわけにはいかない。


 座る前に、席の役目を決める。


 それができて初めて、人を増やす話が始まる。


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