第141話 積まない棚

 月五十組の受け方を決めた翌朝、黒瀬精機の入口には、まだ白いチョークの線が残っていた。


 北河受入。


 通常納品。


 クロフィックス移送待ち。


 三つに分けた仮線は、昨日の混雑をひとまず止める役には立った。だが、線を引いたからといって、工場が広くなったわけではない。むしろ、線を増やしたぶん、歩く場所の狭さがはっきり見えるようになっていた。


 宮田悟は、朝の掃除をしながら、その白線を避けるように箒を動かした。


「線を踏まんようにすると、動きにくいですね」


 森川修一が旋盤の準備をしながら言った。


「線は踏んでもええ。箱を越えるな、いう線や」


「でも、箱が来たら通れません」


「せやから困っとるんや」


 森川の返事は軽かったが、目は笑っていなかった。


 事務所では、美智子が台帳を開き、昨日決めた受入日を見直していた。佐野真紀はパソコンで予定表を整え、火曜と金曜にクロフィックス移送の印を入れている。五時まで勤務するようになっても、紙と電話の量が増えれば、余裕は簡単に消えていく。


 隆夫は入口に立ち、工場の中を見渡した。


「場所やな」


 短い一言だった。


 直人は頷いた。


「はい。人も紙も詰まってますけど、先に場所が詰まりました」


 美智子が赤鉛筆を置いた。


「場所は帳面では増えへんね」


「増やすなら、借りるしかないです」


 佐野の言葉に、事務所が少し静かになった。


 場所を借りる。


 言葉にすると簡単だ。田端商会裏の保管室を借りた時も、最初は六坪だけだった。クロフィックスの空箱や完成箱、補充札、説明紙を分けるためには、それで十分な効果があった。だが、今詰まっているのは、本体工場の入口である。北河の客先品、通常納品箱、外注戻り、出荷待ち。そこを外へ出せるかどうかは、別の問題だった。


 その時、田端商会の軽トラックが表に止まった。


 田端は荷を下ろす前に、入口の白線を見て苦笑した。


「昨日より線が増えてますな」


「増やしたら、余計狭く見えました」


 直人が答えると、田端は頷いた。


「場所の話なら、一つ聞いてます。うちの裏の長屋工場、奥の一部屋が空いたそうです。前の借り手が出ていったらしい。大家は、黒瀬さんなら声をかけてもええと言うてました」


 美智子の目が動いた。


「広さは?」


「八坪くらいです。ただ、奥です。荷を入れるには、うちの横を通ってさらに奥へ入る形になります」


「機械は?」


「置けんことはないでしょうけど、床はあまり良くないです。棚は残ってます。古いですけど」


 隆夫は直人を見た。


「見るだけ見に行くか」


 直人は少し迷ったが、頷いた。


「見ます。ただ、借りる前提ではなく、安全と動線の確認です」


 午前の納品を一段落させてから、直人、隆夫、美智子、田端の四人は田端商会の裏へ回った。前に借りたクロフィックス保管室のさらに奥、細い通路の先にその部屋はあった。


 シャッターを開けると、ほこりの匂いが出てきた。


 中は、たしかに今の保管室より少し広い。壁際には古い鉄棚が二本あり、奥には木の作業台が残っている。床は乾いていたが、ところどころ黒く染みており、入口付近には細いひびが走っていた。天井は低くない。だが、棚の上段はかなり高い位置にあり、背伸びをしなければ奥が見えない。


 隆夫は棚を軽く揺すった。


「使えんことはないな」


 美智子はすぐに言った。


「重いもんは置きたくない」


 田端も腕を組んだ。


「荷を入れるには、通路で一回切り返しが要ります。雨の日は、ちょっと面倒です」


 直人は部屋の中を歩いた。


 広さはある。


 だが、使いにくい広さだった。


 客先から預かった品物を置くには、入口から遠い。十組単位の北河部品を動かすには、通路が狭い。クロフィックスの完成箱なら置けるかもしれないが、それなら今の保管室で足りている。古い鉄棚へ高く積めば、見た目の収納量は増えるだろう。だが、棚の上段へ置いた箱は、取り出す時に危ない。地震で倒れれば、箱だけでは済まない。


 直人の頭に、震災後に見た工場の映像がよぎった。


 倒れた棚。


 散らばった部品。


 どの箱がどの工程のものか分からなくなった床。


 高く積めば、場所は増えたように見える。けれど、それは床の危険を上へ逃がしただけだ。


「ここは、今借りない方がいいです」


 直人は言った。


 隆夫が棚から手を離した。


「広いぞ」


「広いです。でも、黒瀬が今困っている場所とは違います。ここに北河の品物を置いたら、出す時にまた混ざります。倉田さんの納品箱も置けません。クロフィックスだけなら、今の保管室で足ります」


 田端が頷く。


「奥ですからね。荷の出し入れには向きません」


 美智子は台帳用のメモを閉じた。


「家賃が安くても、使えん場所なら固定費になるだけやね」


 隆夫は少し黙った。


 安い場所がある。


 工場は狭い。


 借りれば、いくらか楽になるように見える。


 その誘惑は、直人にも分かった。前の人生なら、とりあえず借りたかもしれない。置ける場所を増やせば、問題が先送りできる。だが、先送りした荷物は、いつかもっと悪い形で戻ってくる。


「棚も使いません」


 直人は続けた。


「あの高さに箱を置いたら、見えません。見えない箱は、探す箱になります。地震の時も危ないです」


 隆夫は天井近くの棚を見上げ、ゆっくり息を吐いた。


「積んだら勝ち、ではないか」


「はい。積んだら、下ろす日が来ます」


 田端は、少し笑った。


「運送屋にも耳が痛い話ですわ」


 その場で借りる話は流れた。


 大家には、田端から「今は使い方が合わない」と伝えてもらうことにした。断る理由を曖昧にしない。広さではなく、動線と安全が合わない。それを残しておけば、次に別の場所を見る時の基準になる。


 黒瀬精機へ戻ると、宮田がすぐに聞いた。


「借りるんですか」


「借りない」


 隆夫が答えた。


「広かったんですよね」


「広かった。でも、使いにくい広さや」


 宮田は、少し意外そうな顔をした。


 森川が手を拭きながら近づいてくる。


「置けるけど、出されへん場所やったんですか」


「そうです」


 直人は答えた。


「それと、棚が高すぎました」


「高い棚は、場所が増えた気になるんですけどな」


「気になるだけです」


 美智子が事務所から言った。


「地震で倒れたら、全部終わりや」


 その一言で、場が少し静かになった。


 震災は、もう過ぎた出来事ではある。だが、黒瀬精機の中では、まだ判断の奥に残っている。倒れた棚、崩れた道、止まった工場。高く積むことの怖さを、誰も完全には忘れていない。


 直人は白線の前に立った。


「場所を借りない代わりに、今ある場所の使い方を変えます」


 佐野がパソコンの前で顔を上げた。


「予定表ですか」


「予定表だけでは足りません。床の予約表を作ります」


 宮田が聞き返した。


「床の予約表?」


「はい。入口横の白線内を、時間で予約します。午前は北河受入、昼前は通常納品、午後はクロフィックス移送。田端さんの便も、ここへ合わせてもらう。空いている場所を見て置くのではなく、その時間に置いてよいものだけを置く」


 佐野は少し考えてから、すぐに画面を開いた。


「曜日と時間で区切ります。場所名も入れますか」


「入れてください。入口白線内、検査台前、保管室前。本体工場へ持ち込む前に、どこで待つかを決めます」


 美智子が赤鉛筆を持つ。


「肩より上に箱を置かない、も入れよ」


 森川が笑った。


「棚の高さまで決めますか」


「決めます」


 美智子は即答した。


「見えへん箱は、ないのと同じや」


 直人は頷いた。


「積まない、というより、見えない高さへ逃がさない棚にします。肩より上には、空箱か軽いものだけ。客先品は置かない。北河、倉田、外注戻りは床か腰の高さまで。棚に入れるなら、誰が見ても札が読める高さです」


 宮田が、入口の白線を見た。


「場所を増やさずに、置いている時間を減らすんですね」


「そう」


 直人は答えた。


「同じ床でも、置く時間を分けたら混ざりにくくなる」


 佐野の指がキーボードを叩き始めた。


 床予約表。


 入口白線内。


 月曜午前、北河受入。


 火曜午前、通常納品優先。


 火曜午後、クロフィックス移送。


 水曜午前、北河確認。


 金曜午後、クロフィックス出荷。


 臨時持込は事前電話。


 肩より上、客先品禁止。


 仮置きは当日中に解消。


 印刷された紙を、美智子が赤鉛筆で直す。言葉を少し短くし、現場で読めるようにする。佐野が打ち直し、もう一度印刷する。その紙を入口横へ貼ると、ただの白線が、少しだけ意味を持った場所に見えた。


 午後、田端商会へ電話した。


「床の予約表?」


 田端は受話器の向こうで笑った。


「運送屋みたいに時間割りし始めましたな」


「田端さんの便に合わせたいんです。北河の受入とクロフィックス移送を同じ時間にしたくありません」


「それは助かります。うちも、荷が重なると表で待つことになりますから」


「火曜と金曜の午後、クロフィックス。北河は月曜と水曜の午前を基本にします。ずれる時は前日までに電話します」


「分かりました。ただ、急ぎを全部前日に言うてくるのは勘弁してくださいよ」


「そこも決めます。急ぎは、理由を聞いてからです」


 電話を切ると、森川が低く言った。


「場所の話が、時間の話になりましたな」


「場所だけでは足りません」


 直人は答えた。


「同じ床に同じ時間で集めるから、混ざるんです」


 その言葉を聞いて、宮田が入口の白線をもう一度見た。


 夕方前、北河からの十組が予定どおり確認を終えた。倉田精密の納品箱は昼前に出ており、クロフィックスの部材は午後の便で保管室へ移した。入口横の白線内には、久しぶりに何も置かれていない時間ができた。


 美智子は、その空いた床を見て言った。


「何もない床って、ええね」


 隆夫が頷いた。


「何も置いてないだけで、安心するな」


「置けるから置く、ではあかんのやね」


 宮田がそう言うと、森川が少し笑った。


「ようやく分かってきたやん」


 直人は、床予約表を見た。


 新しい工場を借りたわけではない。


 隣の町工場が都合よく空いたわけでもない。


 棚を高く積み上げて、見かけの収納量を増やしたわけでもない。


 ただ、今ある床に、置いてよい時間と、置いてはいけない高さを決めた。それだけで、入口の空気は少し変わった。


 場所は、まだ足りない。


 人も、まだ足りない。


 それでも、足りないものを力任せに増やす前に、今あるものを危なくしない使い方へ変えることはできる。


 直人は、白線の内側に何もない床を見た。


 空いている場所ではない。


 次に安全に受けるための、余白だった。


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