第140話 月五十の音
それから一か月ほどで、黒瀬精機の音は変わった。
旋盤の唸りやボール盤の短い音が、別の機械になったわけではない。森川修一の手つきも、隆夫の声も、宮田悟が箱の札を確認する姿も、見た目には大きく違わない。それでも、工場の中を流れる音の重なり方が、以前とは明らかに違っていた。
朝一番に田端商会の軽トラックが止まる。
北河電機向けの十組単位の箱が下ろされる。
倉田精密へ出す通常納品箱が入口横で待つ。
保管室から出荷便へ回すクロフィックス完成箱が、田端の都合に合わせて本体工場の前へ一時的に寄せられる。
事務所では佐野真紀のパソコンが動き、プリンターが短く鳴る。美智子の赤鉛筆が台帳を叩き、黒電話がそれを遮る。
ひとつひとつは、小さな音だった。
だが、小さな音が重なると、工場全体の息が浅くなる。
北河電機の初回二十組は、残りの十組も大きな手戻りなく納まった。そこから月五十組が正式に動き始めている。十組ずつに分け、南田板金、吉岡メッキ、田端商会の便を合わせる。現場確認台R1の運用も続いており、使用対象外疑いで止まったものは、元箱へ戻さず品質管理へ回す流れになった。
クロフィックスの方も、少しずつ外へ出始めていた。
西田工具店から追加が来た。河内工業用品からも、保全棚向けに一箱戻しの注文が入った。布施機材商会では、田島研磨へ一箱が出て、研磨機横の金属トレーの相談が黒瀬へ戻ってきている。
売れている。
戻ってきている。
相談が増えている。
どれも悪い話ではない。むしろ、黒瀬精機が望んできた動きだった。だが、望んだ動きがいっせいに来ると、工場は簡単に喜べない。
その朝、宮田は入口横の白線内で足を止めた。
田端商会から下ろされた北河向けの箱。
倉田精密へ出す通常納品箱。
保管室へ移す前のクロフィックス用の説明紙と仕切り板の束。
三つが、白線の内側でぎりぎり並んでいた。
「……すみません、これ、もう入りません」
宮田の声に、森川が旋盤を止めた。
「何がや」
「箱と部材です。北河の十組と、倉田さんの納品箱と、クロフィックスの部材が同じ線の中に入ってます。札は分かれてますけど、手を伸ばす場所が近すぎます」
森川は作業場を横切り、箱の前でしゃがんだ。札は間違っていない。北河、倉田、クロフィックス。それぞれに札が付いている。だが、箱の角と紙束の端が触れそうなほど近い。
「札は合ってる。せやけど、置き方があかんな」
宮田の顔が少し青くなる。
「僕が置きました」
「責めとらん。場所が足らんのや」
森川はそう言い、事務所へ顔を向けた。
「直坊。これ、一日だけの混み方やないですわ」
直人はすぐに作業場へ出た。
見た瞬間、胸の奥が冷えた。
事故は起きていない。取り違えも起きていない。だが、起きる形になっている。昨日までの仕組みは、昨日までの量に対しては働いていた。今日の量になると、同じ仕組みが狭くなる。
仕事が増えた。
人は増えていない。
置き場も増えていない。
手順だけが増える。
最初は札で防げる。次に線で防ぐ。やがて、線の内側に置くものが増えすぎて、線そのものが意味を失う。
「北河の箱を、いったん検査台側へ」
宮田が動きかけると、佐野が事務所から声を上げた。
「待ってください。検査台側は、倉田精密の最終確認が残っています」
宮田の足が止まる。
美智子が台帳を閉じ、作業場へ出てきた。
「北河、倉田、クロフィックス。今日は三つが同じ入口に来てるんやね」
「はい」
直人は答えた。
「今までは順番がずれていたから回っていました。でも月五十が始まると、こういう日が増えます」
奥から隆夫が出てきた。手には、北河向けの加工確認表を持っている。声はいつも通りだったが、目の下に少し疲れが残っていた。最近の隆夫は、朝の段取りと外注先への電話を抱え込みすぎている。
「箱を動かす前に、今日の入口を分けるぞ」
隆夫は白いチョークを取り、床へ新しい線を引いた。
北河受入。
通常納品。
クロフィックス移送待ち。
三つの仮線を引くと、通路はさらに狭くなった。
森川が腕を組む。
「線を増やしたら、歩く場所が減りますな」
「せやな」
隆夫は短く答えた。
「線で解決する段階を過ぎとる」
その一言で、場の空気が変わった。
線を引けばいい。札を付ければいい。箱を分ければいい。そうやって黒瀬精機は、ここまで仕事を増やしてきた。だが、増えた仕事に対して、まだ同じ工場の同じ入口で受けようとしている。
直人は、白線を見た。
「今日は仮で分けます。ただ、今月中に受け方を変えないと危ないです」
「受け方?」
宮田が聞いた。
「いつでも何でも受けるのをやめる。北河は十組単位で受入日を固定。クロフィックスは火曜と金曜だけ本体工場と保管室の間を動かす。通常納品箱は入口横の白線内を優先。急ぎの相談は、現物を持ち込む前に電話で内容を聞く」
美智子がすぐに台帳へ書き始めた。
佐野は眉を寄せる。
「それでも、電話と紙は減りません。五時までいても、毎日この量だと原本管理が追いつきません」
佐野が弱音を吐くのは珍しかった。
直人は、そこに一番重い意味を感じた。佐野は無理な時でも、すぐに無理とは言わない。自分で整理し、文書を分け、台帳へ戻す道を作る。その佐野が追いつかないと言うなら、黒瀬精機の処理能力は本当に詰まり始めている。
隆夫が低い声で言った。
「佐野さんを増やすわけにはいかん」
「人を増やす前に、仕事の入り口を絞ります」
直人は答えた。
「来たものを全部中へ入れてから分けるのではなく、来る前に日と場所を決めます」
美智子が顔を上げた。
「北河と東和へ、こっちから条件を出すんやね」
「はい。増えた仕事を受けるために、受けない日を決めます」
森川が小さく笑った。
「変な言い方やけど、まあ、そうせな死にますわ」
その「死にますわ」という言葉に、直人の胸がわずかに跳ねた。
前の人生で、父は五十四で倒れた。
今の隆夫は、まだそこへ向かっていない。そう信じたい。だが、忙しさを理由に、朝から晩まで段取りを抱え込ませれば、未来は簡単に同じ形へ戻る。工場を残すとは、売上を増やすことだけではない。父が倒れない仕事の形を作ることでもある。
直人は、その場で電話を二本入れることにした。
まず北河電機の佐伯である。
「黒瀬です。月五十組の受入について、条件を固定させてください」
佐伯は、少し驚いたようだった。
「何か問題が出ましたか」
「問題が出る前に止めたいです。十組単位の分納は継続します。ただし、受入日と出荷日を固定します。外注戻りがずれた場合でも、黒瀬側の確認日を飛ばして次へ進めることはしません。仕様変更、確認台の改訂、戻さない箱の運用変更は、月末締めで別扱いにしてください」
「急ぎは」
「本当に止まる急ぎなら相談してください。ただ、通常の前倒しは受けません。受けると、他の仕事と混ざります」
佐伯は電話の向こうで黙った。
購買としては、柔らかい返事が欲しい場面だろう。だが、ここで曖昧にすれば、月五十の仕事は黒瀬の中で暴れる。
「分かりました。長沢とも確認します。黒瀬さんがそう言うなら、現場にもその方がいいのでしょう」
「ありがとうございます。こちらも、受けられないと言いたいわけではありません。月五十を続けるための条件です」
電話を切ると、すぐに東和工具商会の平井へかけた。
「黒瀬です。クロフィックスの販売店追加について、今月は止めます」
平井は、開口一番で笑った。
「売れてきたところで止めるんですか」
「販売店を増やすのを止めます。既存の西田さん、河内さん、布施さんの追加と相談は受けます。ただ、新しい店へ広げるのは、来月以降にしてください」
「理由は」
「説明者確認と戻り先の処理が追いつきません。今広げると、聞かずに売る店が出ます」
平井は、しばらく黙った。
「正直、もう二店ほど声をかけようと思ってました」
「声をかける前でよかったです」
「黒瀬さん、商売が下手ですな」
「そうかもしれません」
直人は苦笑した。
「でも、ここで雑に広げたら、来月にはもっと下手になります」
電話の向こうで、平井が笑った。
「分かりました。今月は三店で見ます。その代わり、来月に向けて説明会の日を一つ押さえてください」
「それはお願いします。新しい店を増やすなら、一度に二店まででお願いします」
「二店まで。厳しいなあ」
「今の黒瀬では、それ以上は見られません」
「分かりました。そう言えるうちは信用します」
電話を切ると、事務所の中が少し静かになった。
仕事を断ったわけではない。
だが、増える速度を止めた。
美智子は台帳へ、北河受入日固定、東和新規店追加停止、来月説明会予定と書いた。佐野はその横でパソコンの予定表を開き、火曜と金曜にクロフィックス移送の印を入れていく。
「これで紙は減りません」
佐野が言った。
「でも、突然増える紙は減ります」
「それで十分です」
直人は答えた。
午後になっても、工場の忙しさは消えなかった。北河の十組を確認し、倉田精密の納品箱を出し、クロフィックスの部材は保管室へ移した。田島研磨の金属トレー相談は、現物確認を来週へ回すことにした。すぐやらない。そう決めるだけで、作業場の呼吸は少し深くなった。
夕方、田端商会の軽トラックが来た。
田端は、入口の新しい仮線を見て、すぐに言った。
「増えましたな」
「増えました」
直人は答えた。
「でも、今月はこれ以上増やしません」
田端は荷台の紐を締めながら、ちらりと隆夫を見た。
「それがええです。荷が増えた時に、最初に詰まるのは入口ですから」
隆夫は笑わなかった。
「入口が詰まったら、全部詰まるな」
「はい」
田端は頷いた。
「運ぶ方も同じです」
軽トラックが出ていった後、隆夫はしばらく入口に立っていた。直人はその背中を見た。大きな背中ではない。前の人生で見た、倒れる前の父の背中よりは、まだ張りがある。だが、仕事が増えれば、人は簡単に自分の限界を見誤る。
「オトン」
直人が声をかけると、隆夫は振り返った。
「何や」
「今月は、これ以上広げへん」
「さっき決めたやろ」
「うん。けど、もう一回言うとく。広げへん。北河も、東和も、田島も、今ある分を回す」
隆夫は少しだけ目を細めた。
「わしを心配しとるんか」
「会社を心配してる」
「同じことやろ」
隆夫はそう言って、少し笑った。
直人は否定しなかった。
工場の中では、森川が機械の電源を落とし、宮田が北河の確認表を棚へ戻している。佐野は五時前に予定表を印刷し、美智子は明日の台帳へ先に赤線を引いた。
直人は、予定表に並んだ赤い線を見た。
北河。
東和。
田島。
どれも止めたわけではない。
ただ、鳴る順番を決めた。
工場の音は、まだ続いていた。
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