第137話 判子の場所

 北河電機向けの現場確認台R1に関する書類は、黒瀬精機の事務机の上で、思った以上の厚みになっていた。


 台そのものは一台である。大きな機械でもなければ、何十枚もの図面が必要な設備でもない。それなのに、管理票、使用者名簿、保管場所登録、戻さない箱の使い方、使用対象外疑い品の記録控え、確認済み札の貼り替え手順まで、紙は少しずつ増えている。


 佐野真紀は、パソコンで管理票の原本を開いたまま、画面と印刷済みの紙を見比べていた。五時まで勤務するようになってから、午後に動いた仕事の記録を翌日へ持ち越さず、自分の手で整えられることが増えている。美智子はその横で赤鉛筆を持ち、紙の余白に細い線を引いていた。


「ここ、社長確認だけやと重いね」


 美智子が言った。


 直人は、机の上の管理票を覗き込んだ。下段には、承認欄が一つだけある。黒瀬隆夫。社長の名前が入る場所だ。


「重い?」


「隆夫が判子を押したら、会社として受けたことになる。それは必要やけど、現場確認台の中身を誰が見たのかまでは、この欄だけやと残らへん」


 佐野が頷いた。


「金額や取引条件の確認と、対象品、表示、保管場所、使用者、旧版停止の確認は分けた方がいいです。社長印に全部を背負わせると、後で何を承認したのか分からなくなります」


 隆夫は事務所の入口で腕を組んだまま、しばらく黙っていた。工場の奥では森川修一が旋盤の準備をしており、宮田悟は納品箱の札を見直している。朝の黒瀬精機は、いつも通りに動いていた。けれど、机の上の一枚だけは、いつもの納品書とは違う空気を持っている。


「つまり、俺の判子の前に、現物を見た人間の判子が要るんやな」


 隆夫が言った。


「はい」


 佐野は管理票の下段へ、新しい欄を書き込んだ。


 実務確認。


 その横に、まだ名前の入っていない空欄ができる。


 直人は、自分の胸の奥がわずかに沈むのを感じた。たかが空欄ではない。そこに名前を入れれば、現場確認台R1の対象品、表示、保管場所、使用者、戻さない箱の補足運用を自分が見たことになる。


 学校帰りに工場を覗いていた頃なら、判子は大人のものだった。父が押し、母が台帳に残し、職人たちがその後ろで仕事をしている。前の人生を抱えて戻ってきてからも、直人はどこかで父の背中を使っていた。未来を知っていることと、今の会社で責任を持つことは違う。その違いが、赤い朱肉の前に置かれている。


「実務確認は、俺が押します」


 直人が言うと、事務所の空気が少し止まった。


 隆夫はすぐには頷かなかった。


「意味は分かっとるな」


「分かってる。金額と契約はオトンの判子。現場確認台の中身と運用は、俺の判子で残す」


「向こうから何かあった時、まずお前に話が来るぞ」


「来るようにした方がいい。全部オトンに戻る形やと、北河の現場で何が起きたか、俺が後追いになる」


 美智子は赤鉛筆の先を止めたまま、直人を見た。責める目ではない。心配している目でもある。だが、止める目ではなかった。


「ほな、実務確認は直人。社長確認は隆夫。事務控えは私と佐野さんで見る。これで分けよう」


 佐野はパソコンの管理票を直し、印刷する前にもう一度だけ直人へ確認した。


「名前、入れます」


「お願いします」


 プリンターが動き、紙がゆっくり吐き出される。その音を聞きながら、直人は机の隅に置いた自分の認印を見た。


 黒瀬直人。


 小さな判子だった。会社の代表印ではない。銀行印でもない。けれど、今日からその小さな判子に、ただの息子の名前ではない重みが乗る。


 午前十時を少し過ぎた頃、北河電機の佐伯と坂上がやって来た。


 長沢は現場を離れられず、必要があれば電話で加わることになっている。佐伯の手には、前日に整理された使用対象外疑い品の記録控えがあり、坂上はいつものように書類挟みを持っていた。


「昨日の戻さない箱の件、現場では分かりやすかったようです」


 佐伯はそう言いながら、控えを机に置いた。


「ただ、品質管理から、黒瀬さん側の管理番号と改訂責任者を明確にしてほしいと言われています。北河の記録とつなぐためです」


 直人は、刷り上がったばかりの管理票を差し出した。


「こちらでも欄を分けました。実務確認は、こちらで受けます。名前は私の判子で残します。取引条件と会社としての確認は、社長の隆夫です」


 坂上は管理票を見て、少し目を上げた。


「息子さんが、もう実務確認まで見ておられるんですね」


 その確認は、当然だった。黒瀬精機は小さな町工場であり、直人は隆夫の息子である。外から見れば、手伝いなのか、後継ぎなのか、実務者なのか、はっきりさせたい場面が出てくる。昨日まで読者に向けて説明する必要があったことも、取引先にとってはそのまま仕事の線になる。


 隆夫が、静かに答えた。


「見てるだけやないです。もう、こいつの判子が要る仕事もあります」


 坂上は、隆夫と直人を交互に見た。


「では、北河としては、現場確認台R1の改訂や補足運用の窓口は直人さん。金額、追加発注、取引条件は社長である隆夫さん。そういう理解でよろしいですか」


「はい」


 直人は答えた。


「ただし、私が窓口でも、会社として勝手に受けるわけではありません。別部署への展開、別対象品への転用、追加製作、費用が発生する変更は、社長確認を通します」


 坂上は少し安心したように頷いた。


「そこが聞きたかったんです。現場で話が早いのは助かりますが、購買としては、誰の返事が会社の返事なのかを残しておきたい」


 佐伯が書類挟みから一枚の紙を出した。


「その流れで、もう一つ相談があります。別の組立班から、戻さない箱の使い方案だけ欲しいと言われています。元箱へ戻してしまう問題は、他にもあるので」


 直人は、その紙をすぐには受け取らなかった。


 良い話に聞こえる。北河の別の現場でも役に立つなら、黒瀬の考え方が広がる。使い方案一枚なら、コピーすれば済む。そう考えるのは簡単だった。


 けれど、簡単に広がるものほど、危ない。


「そのまま配るのは避けてください」


 直人は言った。


 佐伯の表情に、少し意外そうな色が浮かぶ。


「紙だけでも、ですか」


「はい。戻さない箱という言葉は分かりやすいですが、何を入れる箱なのか、どこへ戻すのか、誰が受け取るのかは部署ごとに違います。そこを決めないまま紙だけ貼ると、赤い箱がただの困りもの入れになります」


 坂上は、すぐに言葉を継いだ。


「では、雛形としてならどうですか」


「雛形なら出せます。ただし、部署名、対象品、戻し先、責任者、箱の置き場所を埋めて、北河さんの品質管理が承認してから使ってください。黒瀬が作った組立工程R1の補足紙を、そのまま他部署へ貼るのは避けてほしいです」


 佐野がパソコンの横から口を挟んだ。


「原本にも、組立工程R1専用と入れています。展開用の雛形は、文書番号を分けた方がいいです」


 坂上は佐野を見た。


「文書番号も分けますか」


「分けないと、どの紙を見ているのか分からなくなります。黒瀬側では、北河組立工程用をR1、展開用雛形をT1として分けます。北河さんの中では、品質管理の番号に合わせてください」


 佐伯が感心したように言った。


「佐野さん、そこまで見ているんですね」


「文書が混ざると、現場も混ざります」


 佐野の返事は短かったが、坂上はすぐに控えへ書き込んだ。


 その時、黒電話が鳴った。美智子が受話器を取り、相手の名を確認してから直人へ渡す。


「長沢さん」


 受話器の向こうからは、北河の現場の音が聞こえていた。台車の音、作業者の声、工具を置く金属音。その中で、長沢の声だけが少し大きい。


「黒瀬さん、坂上さんと佐伯さん、そちらにいますか」


「はい。今、管理票と展開の話をしています」


「ちょうどええ。現場からも一つだけ言わせてください。戻さない箱、別の班にも欲しいという声は出ています。でも、うちの班の紙をそのまま持っていかれたら困ります。戻す先が違うんで」


 坂上は苦笑した。


「今、まさにその話をしていました」


「ほな、よかった。現場は便利なものを見つけたら、すぐ真似します。でも、真似したらあかんところまで真似する。黒瀬さんからも、そこは止めてください」


「分かりました」


 長沢は続けた。


「それと、昨日止めた箱は品質管理の確認が終わりました。箱自体は戻せます。ただ、使用場所へ戻す前に、確認済み札を新しくします。古い札のままやと、一度止まった箱が確認後に戻ったものだと分からんので」


 直人は、佐野へ目で合図した。佐野はすぐにメモを取る。


「確認済み札の貼り替えですね」


「はい。止める時の札だけやなくて、戻す時の札も要りますね」


「止めるより、戻す方が難しい時があります」


 長沢は電話の向こうで、少し笑ったようだった。


「ほんまにそうです。昨日は一個を止めただけやと思ってましたけど、箱を戻すにも手順が要りましたわ」


 電話を切ったあと、直人は内容を佐伯たちへ伝えた。


「箱自体は品質管理確認後に戻せる。ただし、確認済み札を新しくしてから使用場所へ戻すそうです」


 坂上は控えに書き込みながら言った。


「北河側の運用に入れます。止めた箱を戻す時の札、ですね」


「はい。止めた一個だけではなく、止めた箱の戻し方も記録に残してください」


 佐伯が小さく息を吐いた。


「一個から、箱に広がりましたね」


「広げたくて広げたわけではありません」


 直人は答えた。


「一個を元に戻さないと決めたら、箱をどう戻すかも決めないといけなくなっただけです」


 隆夫が横で頷いた。


「仕事はそういうもんです。一個の置き場所を決めたら、箱の置き場所も決まる。箱の置き場所を決めたら、棚の使い方も決まる」


 坂上は管理票の下段へ目を落とした。


「では、このR1管理票で進めます。北河側の控えにも、実務窓口は直人さん、会社承認は隆夫さんと入れます」


「お願いします」


 直人は、自分の認印を手に取った。


 朱肉の蓋を開ける。赤い面に判子を軽く押し当てるだけの動作なのに、指先に余計な力が入った。まっすぐ下ろさなければ、名前が曲がる。強く押しすぎれば、にじむ。弱ければ、かすれる。


 管理票の実務確認欄は、思ったより小さい。


 直人は息を整え、判子を下ろした。


 紙の上で、かすかな音がした。


 持ち上げると、黒瀬直人の四文字が朱色で残っている。小さな名前だった。だが、その下には対象品、保管場所、使用者、戻さない箱、展開禁止、確認済み札の貼り替えがつながっている。


 隆夫は、その横の社長確認欄に判を押した。


 二つの判子は、大きさも役目も違う。けれど、同じ紙の上に並んだ。


 坂上はそれを見て、静かに言った。


「これで、こちらも説明しやすくなります」


 北河の二人が帰ったあと、事務所の中には判を押した管理票の控えが残った。佐野は原本と控えを照合し、展開用雛形の表紙へ「部署別確認前の使用不可」と入れた。美智子は、直人の判子が入った欄をしばらく見てから、台帳へ今日の日付を書いた。


 午後になると、村井健太が来た。


 健太は機械には触らず、入口の白線内に置かれた納品箱の札を確認する手伝いをしていた。クロフィックスの出荷可と保留の札を見分けるだけでも、最初は迷う。宮田が横に付き、札を持つ前に箱番号を見るよう教えている。


 事務所の机に置かれた管理票を見つけた健太は、少し首を傾げた。


「直人さんの判子もあるんですね」


「ある」


 宮田が答えた。


「これは社長の判子とは違う。直人さんが中身を見た、いう判子や」


「偉い人だけが押すものやと思ってました」


 森川が作業場から聞いていて、少し笑った。


「偉いから押すんやない。逃げたらあかんところに押すんや」


 健太は、その言葉に真面目な顔で頷いた。


「じゃあ、押すの怖いですね」


「怖いくらいで、ちょうどええ」


 森川はそれだけ言って、旋盤へ戻った。


 直人は、自分の判子を引き出しへ戻した。


 もう、誰かの横に立って感心しているだけでは済まない。前の人生で見てきた失敗を、今の黒瀬精機の紙と台と箱に変えるなら、そのどこかに自分の名前が残る。父の背中に隠れたまま、未来だけを語ることはできない。


 夕方、佐野は五時前にR1管理票の控えをまとめた。展開用雛形はT1として別にし、北河の品質管理確認前には使えないことを表紙に入れてある。宮田は納品箱の位置を白線の内側へ直し、健太はその動きを見て、箱を持つ前に札を確認するようになっていた。


 外では、田端商会の軽トラックが通り過ぎていく。


 工場の中では、森川が機械を止める音がした。


 直人は、判を押した管理票をもう一度見た。


 現場確認台R1。


 戻さない箱。


 確認済み札の貼り替え。


 展開用雛形。


 どれも大きな機械ではない。高価な材料でもない。それでも、名前があり、戻る場所があり、見た人間の判子がある。


 判子を押すとは、紙を終わらせることではない。


 あとでその紙に戻れるようにすることだ。


 直人は引き出しを閉めた。


 中で、小さな認印がころりと音を立てた。


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