第138話 棚に立つ人

 北河電機向けの現場確認台R1に判子を押してから、数日が過ぎた。


 黒瀬精機の朝は、田端商会裏の保管室から運び戻した二箱で始まった。


 KFX-S-016。


 KFX-S-017。


 クロフィックス標準セットの箱には、まだ赤い仮札が付いている。出荷保留。説明者再確認待ち。販売店説明会で布施機材商会向けに用意していたが、店側の説明体制が整っていないとして、黒瀬へ戻した二箱だった。


 今日は、その二箱を再説明に合わせて本体工場へ戻している。箱の中身を作り直すためではない。売ってよい状態になったかを、店の人間と一緒に確認するためだった。


 宮田悟は、二箱を作業台に並べながら言った。


「この二箱、ようやく動くんですか」


「まだ分からん」


 直人は赤い仮札を見たまま答えた。


「今日、布施さんが若い人を連れてくる。棚に置けるかどうかは、その人が説明できるかを見てからや」


 宮田は少し苦笑した。


「箱はできてるのに、まだ出せないんですね」


「箱ができていることと、売っていいことは別や」


 森川修一が旋盤の前から低く言った。


「置く人間が分かってへん棚に置いたら、箱が悪者になりますからな」


 その通りだった。


 クロフィックス標準セットは、部品や札を分けるための道具である。だが、どこでも使える箱ではない。油槽の横、水洗い場、薬品がかかる場所、屋外、トラックの荷台、高温部の近く。そうした場所へ標準セットを置けば、札は汚れ、文字は読めなくなり、仕切りは役目を失う。


 使い方を間違えた評判は、使った人ではなく、箱に付く。


 だから二箱は、売れ残ったのではない。守った在庫として、赤い札を付けられていた。


 佐野真紀はパソコンで販売店確認票の原本を開き、今日の日付を入れた。勤務時間が五時までになってから、こうした再説明の記録も、途中で美智子へ預けずに最後まで整えられるようになっている。


「布施機材商会。若手同席で再説明。確認項目は、標準セットで売ってよい場所、止める場所、個別相談へ戻す場所。説明者名を入れる欄も作っています」


 美智子が赤鉛筆で印刷見本をなぞった。


「説明者名、要るね」


「要ります。店名だけだと、誰が棚に立つのか分かりません」


 隆夫は二箱を見ながら、静かに頷いた。


「売る箱にも、棚に立つ人間の名前が要るか」


「はい」


 佐野は答えた。


「棚が勝手に説明してくれるわけではありません」


 午前十時、東和工具商会の平井が、布施機材商会の店主である布施と、若い店員を連れて来た。


 若い店員は、大原と名乗った。年は宮田より少し上に見える。きちんと頭を下げるが、肩には力が入っている。布施機材商会の客層は、メッキ屋や研磨屋が多い。クロフィックス標準セットとの相性が難しい店であることは、前の説明会で分かっていた。


 布施は、以前より少し表情を改めていた。


「黒瀬さん、今日は大原を連れてきました。店で実際に棚に立つのは、私だけではありません。こいつにも分かってもらわないと置けないという話でしたので」


「ありがとうございます」


 直人は頭を下げた。


 平井が二箱を見て、少し笑った。


「この二箱、まだ赤札のままなんですね」


「はい。今日、白札に替えられるかどうかを見ます」


 大原は、その言葉に少し驚いたようだった。


「中身に問題があったわけではないんですか」


「中身は確認済みです」


 宮田が答えた。


「でも、売る店の準備がまだやったので、出荷保留になっています」


 大原は、箱ではなく赤い札を見た。そこに書かれた説明者再確認待ちという文字を読み、少しだけ顔を引き締める。


 直人は、クロフィックス標準セットを一つ開けた。標準札、白紙札、仕切り板、油紙、説明紙。どれも特別な材料ではない。だが、置く場所と使う人を間違えれば、すぐ役目を失う。


「まず、大原さんに聞きます」


 直人は、説明紙を渡す前に言った。


「メッキ屋さんから、部品と札が混ざるからこの箱が欲しいと言われました。どこで使うかは、まだ聞いていません。その場で売りますか」


 大原はすぐに答えようとして、口を閉じた。布施が横で見ている。平井も黙っている。宮田は少し離れた場所で、二箱の赤札を見ながら耳を傾けていた。


「……使う場所を聞きます」


 大原は言った。


「どこで使うか。薬品や水がかかるか。札を誰が見るか。そこを聞いてからです」


 直人は頷いた。


「では、相手が『前処理槽の横で使いたい』と言ったら」


「標準セットでは止めます」


「なぜですか」


「薬品や水がかかる場所では、札が読めなくなるかもしれません。仕切りも汚れて、部品を分ける意味がなくなると思います」


「では、同じメッキ屋さんでも、出荷前の検査棚で、乾いた部品と札を一緒に置きたいと言われた場合は」


 大原は少し考えた。


「現場を確認した方がいいとは思います。でも、薬品や水がかからず、札を読む人が決まっている棚なら、標準セットで使える可能性があります」


 森川が旋盤の前で小さく笑った。


「可能性、と来ましたな」


 直人も少しだけ笑った。


「その言い方でいいです。使えると決めつけない。止めるとも決めつけない。場所を聞いて判断する。危ないなら個別相談へ戻す」


 布施は、大原の横で息を吐いた。


「うちの店で、そこまで聞く必要があるわけですね」


「布施さんの店だから必要です」


 直人は答えた。


「メッキや研磨のお客さんは、混ざり止めを欲しがる場面が多いと思います。ただ、その分、標準セットでは合わない場所も多い。そこで説明できずに売ると、箱が悪いと言われます」


 布施は、以前なら少し反発したかもしれない。だが今日は、腕を組んだまま黙って聞いていた。


 平井が大原へ紙を一枚渡した。


「これは、布施さんの店で想定されるお客さんを三つに分けたものです。黒瀬さんに作ってもらったんやなくて、うちで布施さんに聞いて書きました」


 紙には、三つの例があった。


 光栄メッキ。出荷前検査棚で、乾燥後の部品と札を分けたい。


 田島研磨。研磨機のすぐ横で、加工前後の小物を分けたい。


 丸石製作所。保全棚で、分解した部品と札を一緒に置きたい。


 直人は、その紙を大原へ向けた。


「一つずつ、どう扱いますか」


 大原は、光栄メッキの行を指した。


「出荷前検査棚なら、まず棚の場所を聞きます。乾いた部品で、薬品や水がかからないなら、標準セットで使える可能性があります。ただ、棚に油や水が回るなら止めます」


「次は」


「田島研磨は、研磨機のすぐ横なので標準では止めます。粉じんと油で札が読めなくなると思います。必要なら個別相談です」


「最後は」


「丸石製作所の保全棚は、使える可能性があります。分解した部品と札を一緒に置くなら、標準セットの使い方に近いです。ただ、油まみれの部品をそのまま入れるなら、拭く手順が要ります」


 大原は、言い終えてから少し不安そうに直人を見た。


「これで合っていますか」


「合っています」


 直人は言った。


「ただし、最後に一つ足してください。迷ったら、黒瀬へ戻す。店で無理に決めない」


 大原は頷いた。


「迷ったら黒瀬へ戻す」


 その言葉を、布施が隣で繰り返した。


「うちの店としても、それなら若い者に持たせられます。全部判断しろではなく、聞くことと戻すことを決めるわけですね」


「はい。棚に立つ人に、全部を背負わせる必要はありません。ただ、聞かずに売ることは避けてほしいです」


 佐野は確認票へ、大原の名前を書き込んだ。説明者確認済み。標準可、標準セットでは止める、個別相談の三分類を説明。迷った場合は黒瀬へ戻す。そこまで打ち込んでから印刷し、美智子が赤鉛筆で一か所だけ丸を付けた。


「ここ、ええね。『標準セットでは止める』やと、別の形なら受ける余地が残る」


 直人は頷いた。


 売らないのではない。相手の困りごとを否定するのでもない。ただ、今の標準箱では受けない。必要なら、別の形として相談に戻す。


 布施は、作業台の上の二箱を見た。


「では、この二箱は」


 直人は大原を見た。


「大原さん。店に戻ったら、どこへ置きますか」


 大原は少し考えた。


「工具の棚の端ではなく、相談できる場所に置きます。客が勝手に取っていく場所ではなく、店員が声をかけられる棚です」


 布施が、その答えに目を細めた。


「そうやな。入口脇の特価棚に置いたらあかんな」


「はい」


 大原は答えた。


「『どこで使いますか』と聞ける場所に置きます」


 平井が、そこで初めて大きく頷いた。


「これなら、東和としても回せます」


 直人は宮田へ目を向けた。


「赤札を外して、白札に替えてください」


 宮田は少し緊張した手つきで、KFX-S-016とKFX-S-017の赤い仮札を外した。代わりに、出荷可の白札を付ける。たったそれだけの動作だが、二箱の意味は変わった。


 出荷保留。


 説明者再確認待ち。


 その文字は消えた。


 布施機材商会向け。


 東和工具扱い。


 説明者、大原確認済み。


 宮田は白札を付け終えると、小さく息を吐いた。


「売れ残りが、出荷品になりましたね」


「売れ残りやない」


 森川がすぐに言った。


「守った在庫が、出せる在庫になったんや」


 美智子が台帳へ出荷可と書き、時刻を入れた。佐野は販売店確認票の原本を保存し、印刷した控えを東和工具用、布施機材商会用、黒瀬控えに分ける。パソコンで作った文字はきれいだが、最後の出荷可の丸だけは、美智子の赤鉛筆で強く囲まれた。


 午後、田端商会の便に二箱を載せることになった。


 平井は、箱を受け取る前に大原へ言った。


「店に戻ったら、まず布施さんと棚を決める。棚が決まるまで箱を開けるな」


「はい」


「説明紙だけ読んで分かった気になるな。客には最初に、どこで使うかを聞け」


「はい」


 布施も、大原の肩へ軽く手を置いた。


「うちの店で売るんや。黒瀬さんに戻す判断も、うちの仕事や」


 その言葉を聞いて、直人は少しだけ安心した。


 前に保留した時、布施はどこか納得しきれていなかった。だが今日は、売らなかった理由が、売るための条件に変わっている。二箱を止めた時間は、無駄ではなかった。


 夕方前、村井健太が正則に連れられて黒瀬へ来た。機械には触らない約束のまま、入口の白線内に置かれた出荷控えを見ている。


「あれ、赤い札が付いてた箱ですよね」


 健太が言った。


 宮田は、田端商会へ渡す控えを揃えながら答えた。


「そう。今日、白札に替わった」


「中身を直したんですか」


「中身は最初から合ってた。売る店の人が、説明できるようになったんや」


 健太は二箱を見つめた。


「じゃあ、赤い札って、失敗の札じゃないんですね」


「そうやな」


 宮田は少し笑った。


「まだ出したらあかん理由を書く札や」


 田端商会の軽トラックが表に止まった。


 KFX-S-016とKFX-S-017は、二つ並んで荷台へ載せられる。宮田が控えを渡し、田端が宛先を読み上げた。


「東和工具商会扱い、布施機材商会向け。二箱」


「お願いします」


 軽トラックが動き出すと、健太は荷台の方を見送った。それ以上は聞かなかったが、赤い札と白い札の違いは、目の奥に残ったようだった。


 直人は、その横顔を見ながら思った。


 商品は、作業台の上で完成するわけではない。


 使う場所を聞ける人がいて、止める場所を分かる店があり、迷った時に戻す道がある。そこまでそろって初めて、箱は棚に置ける。


 クロフィックス標準セットは、小さな商品だ。


 だが、その小さな箱を雑に広げれば、黒瀬精機の名前はすぐに傷む。逆に、売っていい棚を一つずつ選べるなら、商品はただの箱ではなく、現場の入口になる。


 夕方、保管室から戻ってきた台帳の控えに、佐野が出荷済みの印を付けた。美智子は赤い仮札を捨てず、黒瀬控えの封筒に入れる。


「これ、残すんですか」


 宮田が聞いた。


「残す」


 美智子は答えた。


「出せなかった理由も、出せるようになった理由も、両方いる」


 直人は、空になった作業台を見た。


 朝まで赤い札を付けていた二箱は、もうここにはない。


 ただ売れたのではない。


 棚に立つ人が決まったから、箱はようやく商品になった。


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