第136話 戻さない箱
北河電機で一個が止まった翌朝、黒瀬精機の事務所には、前日の控え紙がまだ机の上に広げられていた。
現場確認台R1。
使用者四名確認済み。
保管場所、組立工程の検査棚、上から二段目。
実箱より一個、使用対象外疑いで停止。
元箱へ戻さず、品質管理へ戻す。
美智子の赤鉛筆で書かれたその行を、佐野真紀はパソコンの文書へ移していた。五時まで勤務するようになってから、前日の外出結果を翌日の文書へつなげる仕事が、その日のうちに途切れにくくなっている。手書きの台帳と、印刷した原本。どちらか一方ではなく、二つを合わせて仕事を残す形が、黒瀬精機の中に少しずつ馴染んできていた。
始業から間もなく、黒電話が鳴った。
「はい、黒瀬精機です。……北河電機の長沢さんですね。お世話になっております」
佐野はすぐに直人へ目を向け、受話器を差し出した。
「昨日止まった一個の件です」
直人は手を拭いてから受話器を受け取った。
「黒瀬です。昨日はありがとうございました」
電話の向こうの長沢は、いつもより少し声が低かった。
「こちらこそ。昨日の一個、品質管理で確認しました。北河の品質管理の確認結果としては、今回の組立工程で使う対象品ではありませんでした」
直人は、返事を急がなかった。
対象品ではなかった。
その結果だけを聞けば、確認台が何かを見つけたように聞こえる。だが、そこを間違えると、昨日決めた仕事の線が崩れる。黒瀬の台は、不良を判定したのではない。使用位置まで自然に座らなかった一個を、使用対象外疑いとして流れから外した。確認したのは北河の品質管理である。
「不良判定ではなく、今回の使用対象ではなかった、という確認ですね」
「はい。品質管理にも、そこは記録へそう書くよう言われました。品物そのものが悪いというより、今回の使用場所へ来ていたらあかんものです」
「箱の方はどうなりましたか」
「一時保留にして、同じ箱の残りも品質管理で確認しています。今のところ、他には出ていません。ただ、昨日あの一個を元箱へ戻していたら、たぶん誰にも分からなくなっていました」
長沢はそこで、短く息を吐いた。
「黒瀬さん、これがないと、あとで仕事の辻褄が合わんようになりますね」
「辻褄、ですか」
「ええ。どの箱から来た一個が、どこで止まって、誰が確認したか。そこが残らんと、後で何かあった時に説明できません。台そのものより、止まった後の道が要るんやと分かりました」
直人は、受話器を持つ手に力を入れた。
十一万円の一台目は、昨日ようやく北河の現場で働き始めた。だが、台が働いただけでは足りない。止まった一個を、どこへ戻すか。誰が受け取るか。元の箱に戻さない理由をどう残すか。そこまで決まって、初めて現場の手順になる。
「そこで相談なんですが」
長沢の声が、少し現場の顔に戻った。
「昨日は透明のトレーに置きましたけど、あれは仮です。使用対象外疑いの品物を、毎回どこへ入れるか決めておきたい。品質管理へ戻すための箱を作った方がええんちゃうか、という話になっています」
「戻すための箱ですね」
「はい。保留箱でもええんですが、それだけやと何の保留か分からん時があります。昨日の若いのが、『戻さない箱』と言いましてね。言い方は乱暴ですが、現場では分かりやすい」
直人は、少しだけ笑った。
「現場の言葉ですね」
「品質管理の係長は渋い顔をしてました。でも意味は通じました。これがないと、止めた一個を手に持ったまま人が迷う。迷ったら、元箱へ戻す者が出ます」
「黒瀬で箱を作る話ですか」
「そこも含めて相談です。坂上さんは、すぐ追加発注にするなと言っています。品質管理は、まず北河の中にある赤い箱を使えばいいと言っています」
直人は少し考えた。
箱を売ることはできる。クロフィックスを作っている黒瀬精機なら、札と仕切りを付けた箱を用意するのも難しくない。けれど、ここで急いで商品にすると、昨日の現場確認台の仕事が少しずれる。
今必要なのは、箱そのものを売ることではない。
止まった一個を元の流れへ戻さないために、北河の現場が迷わず動けることだ。
「まずは、北河さんにある箱で始めた方がいいと思います」
直人は言った。
「ただし、赤い箱なら何でもいい、では危ないです。置き場所、札、戻し先、誰が空にするかを決めてください。使用場所に置きっぱなしにする箱ではなく、品質管理へ渡すための箱にした方がいいです」
「使用場所に置きっぱなしは、あかんですか」
「はい。止まった品物が使用場所に残り続けると、いつか戻ります。戻さない箱は、現場に溜める箱ではありません」
電話の向こうで、長沢が低く唸った。
「溜めたら、別の元箱になるだけか」
「そうです。止まった一個を入れたら、品質管理へ渡す。持っていけない時は班長か長沢さんを呼ぶ。終業まで現場に残さない。そこまで決めた方がいいです」
「分かりました。品質管理に話します。黒瀬さん、運用の紙を一枚作れますか。長い説明ではなく、現場で見られる紙です」
「作ります。初回導入の補足として、今日中に案を出します」
電話を切ると、佐野はすでに白紙を一枚出していた。
「止まった時の流れですね」
「はい。説明紙とは別に、現場用の一枚を作ってください」
美智子が赤鉛筆を持った。
「題名はどうする?」
直人は少し考えた。
「使用対象外疑い品の扱い、やと硬いですね」
「現場に貼るなら、戻さない箱の使い方でええんちゃう?」
美智子の言葉に、佐野が少しだけ眉を上げた。
「正式名としては乱れますが、見出しなら分かりやすいです。下に『使用対象外疑い品の一時移送手順』と入れます」
「それでいきましょう」
佐野はパソコンに向かい、見出しを打ち始めた。
戻さない箱の使い方。
一、確認台で使用位置まで自然に座らない。
二、押し込まない。
三、不良と決めない。
四、使用対象外疑い札を書く。
五、元箱へ戻さない。
六、戻さない箱へ入れる。
七、品質管理へ渡す。
八、元箱は一時保留し、確認済みまで使用場所へ置かない。
佐野は打ち終えてから、画面を見たまま少し黙った。
「八つだと多いです。現場で読むなら、動作を四つにまとめた方がいいと思います」
美智子が頷く。
「止める、札を書く、箱へ入れる、品質管理へ渡す。まずはそれやね」
「ただ、元箱へ戻さないことと、元箱を一時保留にすることは消せません」
佐野は、もう一度打ち直した。
止める。
札を書く。
戻さない箱へ入れる。
品質管理へ渡す。
元箱は一時保留。
その下に、注意書きを入れる。
不良判定ではありません。
発見者名は責任追及ではなく、状況確認のために記入します。
検査前、確認前の箱を使用場所へ置かないでください。
宮田悟は、作業場からその紙を覗いた。
「戻さない箱って、名前だけ聞くと子どもでも分かりますね」
「分かる名前は強いです」
佐野は答えた。
「ただ、分かりやすい名前ほど、勝手に使われやすい。だから正式な用途も書きます」
森川修一が旋盤の前から声をかけた。
「赤い箱やったら、何でも放り込まれるで。現場は赤い箱を見ると、とりあえず困ったもんを入れたがる」
「それも書きます」
佐野はすぐに追記した。
この箱に入れるものは、現場確認台で止まった使用対象外疑い品のみ。
別の不具合品、工具、伝票、空袋を入れない。
宮田が苦笑した。
「空袋まで書くんですか」
「入れる人がいます」
佐野は即答した。
森川が声を出して笑った。
「佐野さん、だんだん現場を信用してへん言い方になってきましたな」
「人を疑っているのではありません」
佐野は画面から目を離さずに言った。
「箱の口が開いていると、何かを入れたくなるだけです」
その言葉に、直人は頷いた。
人は、空いている場所を見つけると使う。通路も、棚も、箱も同じだ。使ってよい場所と、使ってはいけない場所を決めなければ、便利な隙間はいつか事故の入口になる。
午前中のうちに、戻さない箱の使い方案は印刷された。佐野が原本を作り、美智子が赤鉛筆で言葉を整える。直人は北河へ電話し、長沢と品質管理の係長に読み上げながら確認した。
北河側は、品質管理の赤い小箱を一つ使うことにした。
使用場所には常設しない。止まった品物と札を入れる時だけ作業台の端に出し、作業者が品質管理へ渡す。すぐ持っていけない時は、長沢または班長を呼ぶ。終業まで現場に残さない。
元箱には、使用対象外疑い発生の札を付け、一時保留として品質管理の棚へ移す。確認が終わるまで、使用場所へ戻さない。
途中から佐伯も電話に入り、静かな声で尋ねた。
「黒瀬さん、これは追加費用ですか」
直人は受話器を握ったまま、少し間を置いた。
「今回は、現場確認台R1の初回導入補足として扱います。紙一枚の追加なので、別請求にはしません。ただし、戻さない箱そのものを黒瀬で製作する場合や、別工程へ展開する場合は別見積です」
「分かりました。そこを記録しておきます」
無料で何でも飲むわけではない。だが、最初の一台が現場で働くために必要な補足なら、初回導入の範囲で整える。その線を引かなければ、黒瀬精機はまた、説明と手直しを無償で抱える会社に戻ってしまう。
午後になると、村井健太が黒瀬精機へ来た。
機械には触らない。勝手に箱も開けない。その約束は変わっていない。健太は入口で美智子に挨拶し、手を洗ってから、宮田の横へ立った。
作業台には、クロフィックスの保留札と、北河向けに印刷した戻さない箱の使い方案が並んでいた。
「これ、何ですか」
健太が聞いた。
宮田は紙を一枚持ち上げた。
「北河さんの現場で、確認台に座らなかった部品を入れる箱の使い方や」
「部品を戻さない箱ですか」
「そう。元の箱へ戻すと、また誰かが取るからな」
健太は少し考えた。
「でも、間違って取っただけなら、戻したら元通りじゃないんですか」
その言葉に、宮田はすぐには答えなかった。昨日までの自分なら、同じことを思ったかもしれない。
森川が横から口を挟んだ。
「元通りに見えるだけや。戻したら、次に取る人には、それが一度止まった一個やったことが分からん」
健太は紙を見つめた。
「止まったことが消えるんですね」
「そうや」
宮田が答えた。
「昨日、北河さんで一個止まった。でも、それを元の箱へ戻したら、誰が、いつ、どこで止めたか分からなくなる。次に同じことが起きても、初めてみたいな顔をすることになる」
健太は、少し嫌そうな顔をした。
「それ、怖いですね」
「怖い」
宮田は素直に頷いた。
「だから戻さない」
健太は、もう一度紙を見た。
「箱って、物を入れるだけじゃないんですね」
美智子が事務所から声をかけた。
「探さないためにもあるで」
佐野も画面を見たまま続けた。
「勝手に混ぜないためにもあります」
森川が手を拭きながら言った。
「通路をふさがんためにもありますな」
健太は、次々に出てくる答えに目を丸くした。
「箱って、そんなに仕事してるんですか」
「してへん箱もある」
隆夫が奥から出てきて言った。
「ただ置いてあるだけの箱は、だいたい仕事の邪魔をする。役目を決めた箱だけが仕事をするんや」
その言葉に、事務所が少し静かになった。
直人は、北河向けの紙をもう一度見た。
戻さない箱。
名前だけなら簡単だ。けれど、その中には昨日から今日までに決めたことが詰まっている。止まった一個を元箱へ戻さない。品質管理へ渡す。箱を一時保留にする。使用場所に確認前の箱を置かない。発見者名を責任追及に使わない。
どれか一つが欠けると、現場はまた元に戻る。
夕方前、北河電機から再び電話が入った。
長沢だった。
「黒瀬さん、戻さない箱、置きました。赤い小箱に札を付けて、使用場所には溜めないことにしました。品質管理の係長も確認済みです」
「使い方案はどうでしたか」
「現場では、見出しが一番効きました。戻さない箱。あれなら覚えます」
長沢はそこで少し笑った。
「ただ、品質管理の係長が、正式名も残せと言うてました」
「両方必要ですね」
「ええ。それで、昨日の一個の記録も、今日からこの流れに合わせて整理し直しました。箱番号、時刻、発見者、確認者。ようやく説明できる形になりました」
直人は、ゆっくり頷いた。
「よかったです」
「黒瀬さん」
「はい」
「これ、台だけやったら足りませんでした。止めた後の箱まで決めて、初めて現場が動きますね」
「はい。止めたものの置き場がないと、人は戻します」
「ほんまにそうです」
電話を切ったあと、直人は佐野へ結果を伝えた。佐野はパソコンの文書に日付を入れ、R1補足として原本を保存し、印刷した控えを台帳へ綴じる。
宮田は、余った印刷紙を揃えながら言った。
「戻さない箱って、止めた一個の帰り道みたいですね」
美智子が顔を上げる。
「元の箱へ帰らせへんための帰り道やね」
工場の中では、森川が旋盤を止め、健太が床の掃き残しを見つけて箒を取りに行っている。佐野は五時までに文書を整え、宮田はクロフィックスの保留札を棚へ戻した。隆夫は作業場の入口から、通路に箱がはみ出していないかを見ている。
昨日、北河で止まった一個は、黒瀬の工場にはない。
それでも、その一個はここにも影響を残していた。紙の言葉を変え、箱の名前を変え、健太に箱の役目を考えさせ、宮田に止めた後の手順を見せた。
仕事は、最後に帳尻だけ合わせればいいものではない。
手を止めた瞬間に、どこへ置くかを決める。誰へ戻すかを決める。元へ戻してはいけない理由を残す。そこまで決めて初めて、後から説明できる仕事になる。
直人は、台帳に綴じられた一枚を見た。
戻さない箱の使い方。
それは、派手な設備でも、新しい機械でもない。けれど、止まった一個をなかったことにしないための、小さな仕組みだった。
町工場が未来を作るなら、進める力だけでは足りない。
戻してはいけないものを、戻さない場所へ置けること。
その小さな箱が、次の仕事を守っていく。
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