第135話 止まった一個

 北河電機へ現場確認台を持ち込む日の朝、黒瀬精機の事務所には、いつもの油と鉄の匂いに混じって、印刷したばかりの紙の匂いがあった。


 パソコンを入れてから、佐野真紀の仕事は少し変わった。手書きの台帳が消えたわけではない。美智子の赤鉛筆も、相変わらず机の上にある。けれど、同じ説明を何度も書き直す仕事は、少しずつ画面の中へ移っている。


 佐野は、北河電機向けの説明紙を一枚ずつ机に並べた。


「現場確認台R1、初回説明用。使用者四名、保管場所は組立工程の検査棚、上から二段目。対象品二種類、対象外品一種類。押込禁止。使用対象外疑い時は品質管理へ戻す。ここまで入れています」


 美智子が赤鉛筆を持ち、紙面を追った。


「ここ、『入らない場合』やと少し強いね。入る、入らんだけやと、押したら入ったと言い出すかもしれん」


 直人は頷いた。


「『使用位置まで自然に座らない場合』にしましょう」


 佐野はすぐにパソコンへ向き直り、文言を直した。キーボードを打つ音が、工場の音の間に短く挟まる。


 隆夫は木箱の中を確認していた。昨日、宮田と森川が収めた現場確認台と、三つの見本が入っている。二つは北河で検査済みの使用対象品。もう一つは、似た形をした対象外品である。


 確認台の上面には、二本の低い受けと案内があり、部品が自然に奥へ進むと、深い刻線のところで止まる。刻線の横には「使用位置」と文字を入れてある。緑色の塗りも入っているが、それは補助にすぎない。油で色がくすんでも、照明が悪くても、指でなぞれば線が分かるようにした。


 上面の端には、はっきりと三つの文字がある。


 R1。


 指定場所外使用禁止。


 押込禁止。


 森川修一は、その文字を見て低く笑った。


「板にここまで書かれたら、もう物置にはしにくいですな」


「物置にされたら負けです」


 佐野が真顔で言う。


「現場確認台は、確認する場所に戻らないと意味がありません」


 宮田悟は、木箱の横で持参品を確認していた。掃除用の布、説明紙、対象品二つ、対象外品一つ、納品控え、管理票。昨日までは自分の手で削った案内を何度も見ていたが、今日はそれを使う人の手を見る日だった。


「宮田」


 隆夫が声をかける。


「はい」


「向こうで、うまくいった顔だけするなよ。使いにくそうにしてたら、それも見て帰るんや」


「はい。黒瀬で座ったから終わり、ではないです」


 宮田の返事に、森川が少し目を細めた。


「分かっとるやん」


 直人は説明紙の最後を確認した。


 この台は検査具ではありません。


 検査済みの使用対象品を、指定された向きと位置で使用するための現場確認台です。


 使用位置まで自然に座らない場合は、不良と判断せず、使用対象外疑いとして止め、品質管理へ戻してください。


 その一文は、今回の仕事の芯だった。


 北河が十一万円で買ったのは、ただの台ではない。だが、検査具でもない。黒瀬精機が良品と不良品を判定する道具を納めるわけではない。検査済みとして現場へ来た部品を、正しい向きと位置で使うために、迷った一個を止める台である。


 そこを間違えれば、すべてが違う仕事になってしまう。


 午後、黒瀬の軽ワゴンは北河電機へ向かった。木箱は後部に寝かせ、毛布で包んである。大きな荷物ではないが、隆夫は段差のたびに荷室の音を聞いていた。


「オトン、そこまで揺れてない」


「分かっとる」


 隆夫は前を見たまま答えた。


「けど、一台目や。気になるもんは気になる」


 直人は少し笑った。対外的な場では「うちの父」と呼ぶ。けれど車の中では、昔からの呼び方が戻る。そういう切り替えが自然にできる年になっていた。


 北河電機の組立工程に着いたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。昼勤の終わりと夜勤の始まりが重なる時間に合わせ、長沢、品質管理の係長、購買の坂上、佐伯、そして使用者として登録された四人が集まっていた。


 作業台の上には、北河側が用意した確認済み扱いの箱が一つ置かれている。今日の説明用ではなく、実際に組立工程で使う予定の箱だった。箱の横には、未確認の箱を置かないための仮の線が、黄色いテープで引かれている。


 長沢が直人を見る。


「まずは説明用の三つで見ますか」


「はい。そのあと、実際の箱からも普段通りに取ってもらいたいです」


 坂上が控えの紙を手にしたまま眉を上げた。


「実際の箱も使うんですか」


「見本だけでは、手順が現場に残りません。実際の箱で止まるかどうかを見るのではなく、普段の取り方で台を使えるかを見たいです」


 品質管理の係長が頷いた。


「分かりました。ただし、そこで合わないものが出ても、この場で不良判定はしません」


「はい。使用対象外疑いとして止めます」


 その確認をしてから、直人は木箱を開けた。


 現場確認台を作業台に置くと、四人の作業者が自然に近づいた。台そのものは派手ではない。合板ではなく、きちんと加工した本体と受け、案内、刻線、文字。昨日まで黒瀬の作業台にあったものが、北河の現場の照明の下に置かれると、少し違う顔に見えた。


 直人は、最初に説明紙を配らず、台の前に立った。


「この台は、部品の良し悪しを決める検査具ではありません。北河さんで検査済みとなった使用対象品を、現場で正しい向き、正しい位置に置いて使うための現場確認台です」


 作業者の一人が、台の刻線を覗き込む。


「ここまで行けば、使ってええということですか」


「指定された対象品で、自然に使用位置まで座った場合です。押して入れるものではありません」


 宮田が対象品の一つを取り、長沢へ渡した。長沢は作業者の前で、手前から部品を滑らせる。部品は二本の受けの上を進み、奥で小さく止まった。


 かちり。


 音は大きくない。けれど、周りの人間には届いた。


「これが、自然に座った状態です」


 直人は刻線を指した。


「色は見やすくするために入れていますが、色だけで判断しないでください。刻線と文字を見てください。掃除の時も、この線が見える状態にしてください」


 二つ目の対象品も、同じように座った。仕上がりに少し差があるはずだが、案内はそれを無理に縛らない。正しい位置に来れば、同じ場所で止まる。


 次に、対象外品を宮田が置いた。


 途中までは似たように進む。だが、深い刻線より明らかに手前で止まった。宮田はそこで手を離した。


「ここで止めます」


 直人が言った。


「これは対象外品と分かっている見本なので、説明として使えます。ただ、実際の箱から出たものがここで止まった場合、その場で対象外だとも、不良だとも決めません。使用対象外疑いとして止め、品質管理へ戻します」


 品質管理の係長が、持っていた保留札を見せた。


 佐野が作った原本をもとに、北河側で印刷したものだった。


 使用対象外疑い。


 元箱へ戻さない。


 品質管理へ戻す。


 箱番号、発見場所、時刻、発見者、確認者。


 下には、小さくこう書いてある。


 これは不良判定票ではありません。


 坂上がその一文を見て言った。


「ここ、入れておいて正解ですね。現場で不良と言われると、話が別になります」


「止めるための札です」


 直人は答えた。


「責めるための札ではありません」


 説明が一通り終わると、長沢が作業者の一人へ声をかけた。


「普段通りに、箱から取ってみてくれ」


 作業者は、確認済み扱いの箱へ手を伸ばした。箱は組立工程の使用場所に置かれていたものだ。中には同じように見える部品が並んでいる。油紙の端が少し折れ、手が入った跡もある。


 一個目。


 作業者は部品を取り、台へ置いた。かちりと座る。


 二個目も同じだった。


 三個目は、少し向きがずれた。作業者は一度手を止め、向きを直してから置き直す。今度は座った。


 宮田は、その手つきをじっと見ていた。黒瀬の作業台で何度も試した時とは違う。現場の人間は、部品を持つ速さも、目を移す順番も違う。そこに確認台が耐えられるかを見るために、今日ここへ来ている。


 四個目で、作業者の指がわずかに止まった。


 見た目は似ていた。箱の中で並んでいれば、同じ部品に見える。作業者はいつもの調子で確認台へ滑らせた。


 部品は、使用位置の刻線より手前で止まった。


 ほんの一瞬、作業者の親指が動いた。もう少し押せば奥へ行くかもしれない。その手の癖は、責められるものではない。現場では、少し引っかかったものを整えるために押すことがある。忙しい時ほど、手は先に動く。


「止めてください」


 直人の声が、作業台の上で切れた。


 作業者の親指が止まる。


 長沢も、品質管理の係長も、部品を見た。誰もすぐには口を開かなかった。機械の音や台車の音が、少し遠くで鳴っている。


 直人は、声を落として続けた。


「この場では、不良とは言いません。使用対象外疑いで止めます」


 品質管理の係長が、保留札を一枚取った。


「元箱には戻さない」


 長沢がすぐに言った。


「戻したら、次の者がまた取ります」


 作業者は、少し青い顔をした。


「これ、自分の取り方が悪かったんですか」


「違う」


 長沢は即座に答えた。


「名前を書くのは責任を押しつけるためやない。後で、どの箱の、どの時刻の、どの場所で止まったかを確認するためや」


 品質管理の係長も頷いた。


「この一個は、品質管理で対象品か、対象外品か、箱単位で確認します。ここでは判定しません」


 部品は透明の小さなトレーへ移された。保留札が添えられ、箱番号と発見場所、時刻が書き込まれていく。


 坂上は、作業台の横に置かれた箱を見た。


「この箱はどうしますか」


 直人が答える前に、品質管理の係長が言った。


「この箱も一時保留にします。確認が終わるまで使用場所へは置きません」


 長沢が作業者へ向き直る。


「検査前の箱、確認前の箱は、使用場所へ置かない。置いてあると、忙しい時に使う。今日からここを分ける」


 作業者の一人が、作業台の下を見た。そこには、まだ使っていない箱が二つ置かれている。


「これも、ここに置いたらあかんやつですか」


「確認済みで、使用してよい箱だけや」


 長沢の声は厳しかったが、怒鳴ってはいない。


「検査前、確認前の箱は、品質管理の棚へ戻す。使用場所には置かない。今決める」


 宮田はその場面を、黙って見ていた。


 止まったのは一個だった。


 だが、その一個が戻る場所を変えた。箱の置き場を変えた。名前を書く意味を変えた。押し込まずに止めたことで、現場の手順が目の前で組み替わっていく。


 直人は、前の人生で何度も見た失敗を思い出していた。


 一個だけ違うものが混じる。誰かが少し押す。なんとなく入る。次の工程へ流れる。後で合わない。全数を見直す。誰がやったのか探す。作業者は疑われ、係長は詰められ、外注先は呼ばれる。


 最初の一個を止められなかったために、何人もの時間が削られていく。


 今日は、そこまで行く前に止まった。


 それは、不良を見つけたという話ではない。使用対象外かもしれない一個を、流れから外したという話だった。


 品質管理の係長は、保留札付きのトレーを持ち、坂上へ確認した。


「この一個は品質管理で確認。元箱へ戻さない。箱は一時保留。使用場所には確認済みの箱だけ。よろしいですね」


「購買としても、その記録で構いません」


 坂上は控えに書き込みながら答えた。


「ただし、これは黒瀬さんが不良を発見した記録ではありません。現場確認台で使用対象外疑いとして止めた記録です」


「そこは明記します」


 直人は、その言葉を聞いて少しだけ肩の力を抜いた。


 言葉が間違っていない。


 それだけで、仕事は守られる。


 次に、四人の使用者が順番に確認台を使った。対象品二つは座る。対象外品は手前で止まる。途中で向きがずれた時は、押さずに戻してやり直す。確認台の横には掃除用の布を置き、使用後に刻線が見えるかも確かめた。


 最後に、保管場所を確認する。


 組立工程の検査棚、上から二段目。そこに「北河現場確認台R1」と書いた札が付けられた。台の置き方も決める。対象外品の見本は使用場所には置かず、品質管理が説明用として保管する。見本が現場に残れば、いつか実物と混ざる恐れがあるからだ。


 長沢が、確認台を棚へ収めた。


「板一枚を置くのに、えらい手間やな」


 そう言いながら、表情は悪くなかった。


 直人は答えた。


「手間をかけないと、ただの板になります」


 坂上が控えの紙を揃えた。


「十一万円の一台目としては、今日の一個が説明になりましたね」


「はい。ただ、止まった後の扱いまで決まったことが大きいです」


 品質管理の係長も頷いた。


「台だけなら、現場で止まって終わりです。戻し方が決まっていないと、結局、元箱へ戻ります」


 その言葉に、宮田が小さく反応した。


 黒瀬へ戻る車の中で、宮田はしばらく黙っていた。隆夫が運転し、直人は助手席に座っている。木箱は空に近い。確認台は北河の棚に残った。持ち帰るのは控え紙と、使い終わった説明用の布だけだった。


「宮田、どうやった」


 直人が聞くと、宮田は窓の外を見たまま答えた。


「黒瀬で作ってる時は、座るか止まるかばっかり見てました。でも今日、止まった後にみんなが一瞬迷ったのを見て、そこまで決めておかないとあかんのやと思いました」


「そこまでが仕事やな」


「はい。止めた一個を、どこへ置くか。誰へ戻すか。元の箱に戻さないって決めておくか。そこがなかったら、押し込まなくても戻してしまう気がします」


 隆夫が前を見たまま言った。


「ええとこ見たな」


 宮田は少し驚いた顔をしたが、すぐに黙って頭を下げた。


 黒瀬精機へ戻ると、佐野はまだ事務所にいた。五時まで勤務するようになってから、午後の外出結果をその日のうちに記録できるようになっている。美智子は台帳を開き、北河の欄に赤鉛筆で線を引いて待っていた。


「どうでした」


 佐野が聞く。


 直人は控え紙を机に置いた。


「初回説明は完了。使用者四名、確認済み。保管場所も登録通り。実際の使用箱から一個、使用対象外疑いで止まりました」


 佐野の表情が一瞬固まる。


「対象外と判定されたんですか」


「そこまでは言っていません。品質管理へ戻して確認です。元箱には戻していません。箱も一時保留。確認前の箱は使用場所へ置かないことも決まりました」


 佐野はすぐにメモを取り、パソコンへ向かった。


「説明紙の記録欄に、『止まった現物は元箱へ戻さない』を太字にします。それと、『不良判定票ではありません』は残します」


「お願いします」


 美智子は台帳へ書き込んだ。


 北河現場確認台R1。


 初回説明完了。


 使用者四名確認。


 保管場所確認。


 実箱より一個、使用対象外疑いで停止。


 元箱へ戻さず、品質管理へ戻す。


 箱は一時保留。


 検査前、確認前の箱は使用場所へ置かない。


 森川が作業場から出てきて、その文字を覗いた。


「ほんまに止まりましたか」


「止まりました」


 宮田が答えた。


「押し込む前に止まりました」


 森川は少し笑った。


「それはええ。押し込んでからでは、確認台が泣きますわ」


 隆夫は手を洗いながら、事務所の時計を見た。五時が近い。


「今日はここまでやな。北河の続きは明日、記録を見てからや」


 直人は頷いた。


 勢いで次の見積や改訂の話へ進みたくなる。けれど、今日決まったことをその日のうちに記録し、明日もう一度見る。それも止める仕事の一つだった。


 佐野が印刷した改訂後の説明紙を、美智子が台帳に綴じる。赤鉛筆の線と、パソコンの文字が同じ紙の上に並んでいた。黒瀬精機は、古いやり方を捨てたわけではない。必要なものを残し、新しい道具で支え直している。


 直人は、北河へ置いてきた確認台を思い浮かべた。


 深い刻線。


 使用位置の文字。


 押込禁止。


 そして、使用位置まで行かなかった一個。


 たった一個である。売上伝票に大きく出るものではない。新聞にも載らない。誰かが拍手するわけでもない。


 それでも、その一個は元箱へ戻らなかった。


 品質管理へ戻り、箱を止め、使用場所から確認前の箱を外した。人を責める前に、流れを止めた。


 未来を変える仕事は、いつも大きな機械の音から始まるわけではない。


 かちりと鳴らない一個を、押し込まずに止める。


 その一個の戻り先を決める。


 黒瀬精機が作った十一万円の一台目は、北河の現場で、ようやくただの台ではなくなった。

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