第134話 二つの合格品
翌朝、北河電機の連絡便が、正式な注文書と一緒に小さな木箱を運んできた。
注文金額は十一万円、数量は一台。納期、初回説明、試験導入一か月という条件も、黒瀬精機が出した見積どおりに記されている。
木箱の中には、北河の品質管理が用意した部品が三つ入っていた。二つには「北河検査済・使用対象品」と書いた白い札が付き、残る一つには、太い斜線とともに「対象外品・別仕様」と記されている。現場で使っていた黒瀬の試作確認台も、返却品として分けられていた。
佐野真紀は注文書だけを先に台帳へ入れず、同封された紙を机の上に並べた。
「使用者は昼勤二名、夜勤二名。保管場所は組立工程の検査棚、上から二段目。既存の類似治具は三点あり、すべて使用停止札を付けて別棚へ移した、とあります」
「一覧と番号は合ってますか」
「はい。返却された試作品にも、北河さんの使用停止札が付いています」
直人は木箱の中身を一つずつ確認した。注文書、対象部品、使用者、保管場所の四つが揃い、北河側が受け持つと決めた類似治具の使用停止記録もある。
「製作へ回してください」
佐野は見積控えに挟んでいた黄色い札を外し、代わりに製作札を付けた。注文が来ただけでは作らない。作り始めてよい条件が揃ったため、ようやく作業場へ回せる。
森川修一は三つの部品を作業台へ並べた。
「使用対象品が二つ、ですか」
「違う製造日のものらしいです。同じ仕様でも、端の仕上がりに少し差があると書いてあります」
「一個だけ見て作るな、いうことですな」
この確認台は、部品の寸法合否を判定する検査具ではない。北河の検査を通った対象部品を、形の似た別仕様品と取り違えず、正しい向きで使うための道具である。対象品そのものの良否まで黒瀬精機が保証すれば、検査具としての精度や校正まで必要になり、仕事の範囲が変わってしまう。
森川は返却された試作確認台に、一つ目の使用対象品を載せた。
部品は手前から滑り、奥の当て金へ触れたところで、かちりと小さな音を立てた。北河の現場で坂上が確かめた時と同じ感触である。
続いて、二つ目の使用対象品を載せる。
今度は、所定の位置よりわずかに手前で止まった。
森川は無理に押さず、部品を抜いた。向きを確かめてもう一度入れても、結果は変わらない。
「こっちは鳴りませんな」
宮田悟が横から覗き込んだ。
「でも、北河さんの検査には通ってるんですよね」
「せや。確認台の方が、正しい部品を止めてしもうてる」
直人は二つの対象品を手に取った。形も穴の位置も、目で見た程度では変わらない。しかし、指で外周をなぞると、一つ目は角が立っているのに対し、二つ目は端がわずかに丸められていた。
試作確認台の案内面は、その外周を受けている。
試作品を作った時、直人は北河から預かった一つの部品に合わせ、最も触れやすい外側の面を案内に使った。その部品では気持ちよく収まったが、同じ仕様として認められている別の部品までは見ていなかった。
「少し広げたら入りませんか」
宮田が尋ねる。
「広げるだけなら入る。けど、先にこっちを試せ」
森川は「対象外品・別仕様」と書かれた札の部品を、宮田へ渡した。
対象外品も、試作確認台の途中までは入った。案内面を広げれば、二つ目の対象品だけでなく、形の似た別仕様品まで奥へ近づく可能性がある。
宮田は部品を抜き、作業台へ戻した。
「正しい方が入れば、それでええわけやないんですね」
「別仕様まで通したら、確認台を置く意味がない」
直人が答えると、森川は青い当たり塗料を案内面へ薄く塗り、二つ目の対象品をもう一度滑らせた。部品を抜くと、外周の丸みに近い部分へ塗料が付いている。
「ここを基準にしたんが間違いやな」
森川の指先が、青く付いた場所を示した。
「図面で位置を決めてる面やない。仕上げ方で少しくらい変わるところですわ」
直人も北河から預かっていた図面を広げた。試作確認台が触れていた外周は、部品を扱いやすくするための形であり、組み付け位置を決める基準ではない。二つの穴と、その奥にある削り面が、北河の工程で位置を決めるために使われている。
見つけやすい場所と、基準にしてよい場所は違う。
「穴と奥の削り面で案内を作り直します」
直人が言うと、森川は図面を見ながら首を傾けた。
「穴を二つともきつく使ったら、現場で載せにくくなります。少し傾けただけで入らんようになって、また押し込まれますで」
「片方の穴を丸い案内で決めて、もう片方は横ずれだけ止める形ならどうですか」
「片方に逃げを作るんですか」
「はい。向きは決めますが、対象品ごとの小さな差までは縛らないようにします。そのうえで、奥の削り面が所定位置まで来た時だけ当て金へ触れるようにします」
森川は図面の二つの穴を指で結び、対象外品の形も確かめた。
「丸い案内を一本、もう片方は平らな当てで向きだけ止める。その方が載せやすいな」
「最初から本体へ穴を開けず、別板で試しましょう」
「それがええ。正式品を試し削りにしたら、また原価が逃げます」
宮田が材料棚から、必要な厚みに近い端材を持ってきた。棚の札と残材表を確認し、森川へ材質を告げてから作業台へ置く。
「一般構造用の鋼材です。必要な厚みより一ミリあります」
「試しには使える。端材でもただやないから、切る前に残す場所を決めろ」
「はい」
宮田は端材へ罫書き針を当てた。丸い案内を立てる場所、向きを止める当て、奥の削り面を受ける位置を順に記す。森川は横で見ていたが、線が決まるまでは手を出さなかった。
最初の試し板は、二時間ほどで形になった。
一つ目の対象品は、力を加えなくても所定位置まで入った。二つ目も、向きを合わせれば同じ場所まで進む。ところが、別仕様品を載せると奥までは入らなかったものの、平らな当てへ乗り上げて斜めに浮いた。
宮田が目の高さを変える。
「入ってないのに、横から見たら所定位置の線と重なって見えます」
「ほんまやな」
森川の声が低くなった。
部品の基準面は手前で止まっているが、斜めに浮いた反対側が表示線へ重なっている。急いでいる作業者なら、正しい位置まで入ったと見誤る可能性があった。
「部品が最後まで座った時だけ見える窓を作るのはどうですか」
宮田が提案した。
「窓を増やすと、切粉や油が詰まる。北河の置き場が、いつもきれいとは限らんで」
森川の指摘に、直人も頷いた。
表示を増やせば分かりやすくなるとは限らない。最初は鮮やかでも、油で黒ずみ、溝にごみが詰まれば、やがて誰も信用しなくなる。
隆夫が、離れた旋盤の前から声をかけた。
「座ってへん物が、座ったように見えるんやろ。ほな、斜めにならんように下から受けたらどうや」
直人と森川は、もう一度試し板を見た。
別仕様品が斜めになったのは、向きを止める当てが短く、部品の端だけを支えているからだ。部品の下面を二本の受けで支え、案内を入口近くまで延ばせば、途中で乗り上げても姿勢を変えにくくなる。
「二本の受けの間は空けましょう。切粉が入っても、下へ逃がせます」
「それなら掃除もしやすい。表示を見る前に、部品の姿勢そのものが崩れんようにできるな」
森川が頷いた。
二枚目の試し板には、部品の下面を支える二本の低い受けを付け、その間に切粉を逃がす溝を残した。平らな案内も入口近くまで延ばしている。
二つの対象品は、受けの上を滑って所定位置まで進んだ。別仕様品は傾かず、姿勢を保ったまま、確認位置より明らかに手前で止まる。
宮田は三つの部品を何度も載せ替えた。
「今度は横から見ても間違いません。別仕様品は、刻線より手前で止まってます」
「同じ向きばかりで試すな。右手でも左手でもやれ」
森川に言われ、宮田は確認台の反対側へ回った。利き手を変え、部品を少し急いで置き、入口へ油を一滴付けた状態でも試す。それでも二つの対象品だけが奥まで進み、別仕様品は手前で止まった。
確認位置には色だけを塗らず、爪先でも分かる深い一本の刻線を入れ、その横へ「使用位置」と文字を打った。緑色は見やすくするための補助に留める。色の違いが分かりにくい人や、油で色がくすんだ状態でも、刻線と文字で確認できるようにした。
その日のうちに完成品へ移ることはせず、試し板を一晩置いて、翌朝もう一度三つの部品で確かめた。案内や受けに緩みがないことを確認してから、本体の加工へ入る。
森川が案内面を仕上げ、宮田が角を落とした。直人は北河の保管棚を描いた紙と照らし合わせ、正面から読める向きへ刻線と文字を入れる。上面には「R1」「指定場所外使用禁止」「押込禁止」と記した。
三日目の午後、北河へ納める現場確認台が組み上がった。
二つの対象品は、どちらも無理なく使用位置まで入った。別仕様品は、深い刻線より手前で止まる。宮田と森川だけでなく、事情を詳しく知らない美智子にも試してもらった。
美智子は札を裏返し、表示を見ないまま三つの部品を載せ替えた。
「これは手前で止まる。こっちと、こっちは最後まで行くな」
対象品と別仕様品を、迷わず分けた。
「これなら、色が見えにくくても文字と溝で分かるわ」
「掃除する時も、溝を布で拭けば確認できます」
直人は製作札へ「社内確認済」と書いた。北河の現場で四人の使用者が試すまでは、出荷完了にはしない。
午後四時を過ぎても、佐野は事務所で原価表をまとめていた。勤務時間を延ばしたことで、途中から美智子へ数字を渡さず、自分で製作札と作業時間を照合できるようになっている。
「直人さん。最初の試し板と、二枚目の案内を作った時間を入れると、予定より二時間四十分増えています。端材にも購入原価はありますし、加工時間はそのまま残ります」
「今回の十一万円に追加はできません。最初の試作品を一つの対象品だけに合わせたために出た作り直しです」
「では、初回の習得分として記録します。ただ、次も違う対象品が来て、同じことになったら、二台目六万二千円では足りません」
「二台目の値段を使えるのは、同じ対象部品、同じ基準面、同じ設置条件の時だけです。形が似ていても条件が違えば、新しい一台目として見積もります」
佐野はその条件を、原価表だけでなく見積条件の控えにも書き加えた。
「同じ形ではなく、同じ条件ですね」
「はい。そこを間違えると、台数が増えるほど赤字になります」
午後五時前、佐野は北河の製作記録を台帳へ綴じ、翌日の予定表を直人へ渡した。
「北河さんの初回説明は、午後三時半です。昼勤と夜勤の四人が揃います」
「分かりました。宮田も同行させます」
作業場で片づけをしていた宮田が、驚いて振り返った。
「僕も行くんですか」
「お前が削った受けと案内を、使う人がどう触るか見てこい。黒瀬で入ったから終わりやない」
「はい。何を持っていけばいいですか」
「確認台と三つの見本、図面の控え、掃除用の布。それから、案内を調整する道具や」
宮田は森川と一緒に持参品を確認し、完成した確認台と三つの見本を木箱へ収めた。最後に製作札を蓋の内側へ挟み、左右の留め金を順に掛ける。
事務所の時計が五時を指す少し前、木箱の蓋が閉まり、二つの留め金が続けて鳴った。
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