第131話 一式の中身
北河電機から戻った翌朝、黒瀬精機の事務所には、持ち帰った確認台が置かれていた。
合板に固定された取付レールには、端子台の位置を写した線が引かれている。金具を入れる向きを示す矢印、当たってはいけない場所を示す赤い線、そして昨日、北河の現場で何度も鳴った「かちり」という音の記憶が、その板の上にまだ残っているように見えた。
宮田悟は朝の掃除を終えてから、確認台の前で足を止めた。
「これ、昨日までは黒瀬の中で見るための台でしたけど、北河さんに見せたら、別のものになった気がします」
森川修一が旋盤の準備をしながら笑う。
「板が出世したんか」
「出世というか……長沢さんの若い人が見てた時、ただ確認してるだけじゃなかったです。あれは教えてました」
宮田の言葉を聞いて、直人は頷いた。昨日の北河の現場で、確認台は金具の合否を見る道具であると同時に、押し込んではいけない感覚を若い作業者へ伝える道具になっていた。黒瀬精機が売ろうとしているのは、合板でもレールでもない。現場で手を止めるための形と、その形を使えるようにする説明だった。
九時になると、佐野真紀が出勤してきた。机の上の確認台を見ると、鞄を置くより先に言った。
「これ、見積名を間違えると板代になります」
美智子の赤鉛筆が止まった。
「板代にしたらあかんね」
「はい。材料費だけで見ると、合板と押さえ金と表示の代金に見えます。でも実際には、現物確認、合格基準、現場説明、改訂管理まで含めて初めて意味があります」
佐野は椅子に座り、昨日の納品控えを開いた。北河現場用確認台、別途見積。作成費。現場説明費。改訂時更新管理。美智子が書いたその文字の横へ、佐野は細い字で「初回作成一式」と書き足した。
「一式って便利な言葉ですが、雑に使うと中身が消えます。中身が消えると、購買では高く見えます」
隆夫が腕を組んだ。
「ほな、分けるか」
「分けます。ただし、分けすぎても伝わりません」
佐野は白紙を一枚出し、北河現場確認台 初回作成一式、と書いた。その下へ、材料費、現物合わせ加工、合格位置表示、使用説明、初回現場立会い、改訂時管理の項目を並べ、さらに黒瀬内確認台とは別管理と明記する。
宮田が横から覗き込んだ。
「板代って、どこに入るんですか」
「材料費です。けれど、見積の主役ではありません」
佐野は、そこで少し声を強めた。
「主役は、どこで止めるかを決めることです」
事務所に、旋盤の音が低く響いた。直人はその言葉を胸の中で転がした。どこで止めるかを決めること。前の人生の黒瀬精機ができなかったことは、まさにそれだった。曖昧なまま受け、曖昧なまま作り、曖昧なまま客先へ渡し、現場で押し込まれ、あとから直しに呼ばれる。部品代だけで受けた仕事が、夜と休日を食っていく。
今回は、その逆をやる。
午前十時前、北河電機の佐伯から電話が入った。
「昨日の確認台の件で、長沢から正式に見積依頼が来ています。ただ、黒瀬さんに先にお伝えしておくと、社内では『確認用の板なら、うちで作れるのでは』という話が出ると思います」
直人は受話器を握り直した。
「板そのものは作れる、ということですね」
「はい。北河にも保全がありますし、合板にレールを固定するだけなら現場でもできます。私は中身を分けて通すつもりですが、金額だけを見る人には、そこが引っかかります」
佐伯は敵ではない。むしろ、どこで引っかかるかを先に知らせてくれている。
「分かりました。北河現場確認台、初回作成一式。材料費と作業費だけではなく、現物合わせ、合格位置表示、現場説明、改訂時管理まで分けて出します。それに、正本と副本の扱いも入れます」
「正本と副本、ですか」
「黒瀬の確認台が正で、北河さんの確認台が副になるのか。それとも、北河さんに渡したものを北河現場用の正にするのか。そこを決めないと、あとで二つの台が違うことを言い始めます」
電話の向こうで、佐伯が一瞬黙った。
「それは、購買より品質管理に響きそうですね。午後、長沢と品質の者も同席させます」
「お願いします。今日持っていくのは黒瀬の確認台です。北河用は、見積後に別作成します」
「そこも伝えてあります」
電話を切ったあと、美智子は台帳に「佐伯、社内製作案と正副管理の懸念を事前連絡」と書いた。
「この人、ちゃんと間に入ってくれてるね」
「はい」
直人は頷いた。
「通すために、こっちが言葉を間違えないよう教えてくれてます」
午後、直人と宮田は黒瀬の軽ワゴンで北河電機へ向かった。確認台は布で包み、後部の荷室に寝かせてある。昨日と違って納品箱はない。今日は、部品を運ぶ日ではなく、確認台という新しい仕事の中身を説明する日だった。
北河電機の会議室には、長沢と佐伯のほかに、品質管理の係長が同席していた。現場の作業台ではなく会議室から始まったことに、宮田は少し緊張した顔をする。直人も気を引き締めた。現場で良いと言われたものが、会議室で通るとは限らない。
長沢は最初から味方の顔をしていたが、品質管理の係長は確認台を見るなり、率直に言った。
「これは、北河の保全で作ることもできるように見えます」
来た。
直人は、そう思いながら頷いた。
「板としてなら作れます。合板にレールを固定し、線を引くだけなら、北河さんの保全でもできると思います」
「なら、なぜ黒瀬さんに頼む必要がありますか」
その言い方は厳しかったが、嫌味ではなかった。品質管理の人間として、そこを聞かないわけにはいかないのだろう。
直人は確認台の布を外し、赤い線を指した。
「この台の値段は、板を作る値段ではありません。どこを合格にするか、どこで止めるか、誰が使い、変更が出た時に古い基準をどう止めるか。その決め方の値段です」
品質管理の係長は、腕を組んだまま黙って聞いていた。
直人は続ける。
「もし北河さんの現場で一台作り、あとから少し直したものがもう一台できた場合、どちらが正しい台なのかを決めなければなりません。古い台が現場に残れば、金具は合格しているのに、古い基準では不合格になるかもしれません。逆に、本来止めるべきものを通すかもしれません」
佐伯が控えに目を落とした。
「正本と副本の問題ですね」
「はい。黒瀬内確認台、北河現場用確認台、改訂番号、使用者、廃棄または返却の扱い。そこまで決めないと、確認台が増えた分だけ危なくなります」
長沢が品質管理の係長へ言った。
「昨日、現場で若いのが音を聞いて止まれました。けど、台が二つあって音が違ったら、逆に迷います」
品質管理の係長は、そこで初めて確認台へ手を伸ばした。黒い金具を一つ取り、レールに合わせる。少し角度がずれたため、金具は浅く入って止まった。
直人は何も言わなかった。
宮田も黙っていた。
係長は自分で角度を直し、赤い線に合わせてもう一度入れる。
かちり、と音がした。
その人は、少しだけ目を細めた。
「なるほど。これは、入ったかどうかではなく、座ったかどうかを見る台ですか」
「はい」
宮田が思わず答えた。
直人が視線を向けると、宮田は少し緊張しながらも続けた。
「昨日、北河さんの現場で教えてもらいました。黒瀬では、合っているかどうかの音でした。でも北河さんでは、あとで困らないかどうかの音になりました」
長沢が軽く笑った。
「宮田さん、それ昨日の帰りに言うてたやつですか」
宮田は顔を赤くしたが、引っ込まなかった。
品質管理の係長は、もう一度金具を座らせた。
「現場で使うなら、使用者を決める必要がありますね。誰でも触れる場所に置くと、仮置き台にされる」
「それも見積の中に入れます」
直人は答えた。
「使用説明と、保管場所の指定。それから、改訂が出た時に旧台を止める手順です」
佐伯が顔を上げた。
「見積項目に、旧版回収または使用停止確認を入れてください。購買ではそこまで細かいと言われるかもしれませんが、品質管理が必要と言えば通しやすくなります」
品質管理の係長も頷いた。
「入れてください。社内で作れるかどうかの話ではなく、基準を誰が管理するかの話なら、品質管理としても確認できます」
長沢が少しほっとした顔をした。
「ほな、板代ではなくなりましたね」
佐伯がすぐに釘を刺す。
「まだ見積を見てからです」
「分かってます」
長沢は笑ったが、その笑いには現場の安心が混じっていた。
会議の後、確認台は現場へ運ばれた。昨日見ていた若い作業者が一人、作業台の前で待っている。長沢は彼に金具を渡し、「昨日の音、覚えてるか」と聞いた。
「はい。座った音です」
若い作業者は金具を確認台へ当てた。最初は少し浅かったが、すぐに自分で止まり、向きを直す。かちり、と音が鳴った。
宮田は、その音を聞いて小さく息を吐いた。今日は止める声を出さなくて済んだ。だが、それは何もしなかったということではない。昨日の説明が、もう相手の手の中に少し残っているということだった。
長沢が言う。
「これを北河用に作るなら、うちでも保管場所を決めます。工具棚の上とか、検査台の横とか、適当に置いたらあかん」
品質管理の係長がその場で付け加えた。
「改訂番号も表示しましょう。黒瀬さんから新しい基準が出たら、旧版は使用停止。現場に残さない」
佐伯は控えに書きながら、直人へ言った。
「黒瀬さん、見積と一緒に、運用案も一枚ください。長い説明ではなく、北河側で承認に回せる短い紙で」
「分かりました」
直人は頷いた。
黒瀬精機へ戻ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。佐野はもう帰ったあとだったが、机の上には午前中に作った見積の下書きが置かれている。美智子はその下書きを読み、直人が持ち帰った要望を赤鉛筆で加えていった。
北河現場確認台 初回作成一式。
材料費。
現物合わせ加工。
合格位置表示。
初回現場説明。
使用者指定。
保管場所指定。
改訂時更新管理。
旧版回収または使用停止確認。
黒瀬内確認台とは別管理。
美智子は最後に、別枠で「板のみの販売不可」と書いた。
森川がそれを見て、作業場から口を出す。
「北河さん、自分とこで作るって言いませんでしたか」
「言われた」
直人は答えた。
「でも、板は作れても、基準の親子が増える危なさは別です。そこを品質管理の人が分かってくれました」
森川は確認台を眺めた。
「子どもが勝手に増えたら困る板ですな」
「そうです」
佐野がいれば、その言い方を嫌がったかもしれない。けれど、意味は合っている。確認台が勝手に増えれば、基準も勝手に増える。基準が増えれば、どれが正しいかを探す時間が発生する。その時間は、必ず現場のどこかを削っていく。
宮田は確認台を元の場所へ戻しながら言った。
「今日、北河さんの若い人、自分で止まってました」
森川が静かに聞く。
「押さんかったんか」
「はい。最初は浅かったんですけど、押さずに向きを直して、座らせました」
「ほな、昨日の音が残ったんやな」
森川はそれだけ言って、旋盤へ戻った。
直人は、その言葉を胸にしまった。音が残る。確認台の上にではなく、人の手に残る。それを残すためには、道具だけでは足りない。説明が要り、保管場所が要り、改訂の止め方が要る。面倒だが、その面倒を抜いた瞬間に、確認台はただの板へ戻ってしまう。
夜、美智子は台帳の最後に一行を書いた。
一式の中身を消さない。
直人はその文字を見た。
大きな機械を売ったわけではない。高価な専用治具を作ったわけでもない。けれど、北河の現場で若い手が押し込む前に止まり、品質管理の人間が旧版停止の必要を認めた。その瞬間に値段を付けなければ、黒瀬精機はまた部品だけを売る会社に戻ってしまう。
町工場が未来を作るなら、削ったものだけでなく、止めた手にも、残す基準にも値段を付けなければならない。
直人は確認台の赤い線を見た。
その線は、金具の当たりを見るためだけのものではない。黒瀬精機がどこまでを仕事として受け、どこからを無料で飲み込まないかを示す線でもあった。
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