第132話 先に守る仕事
北河電機の現場確認台の見積をまとめる朝、黒瀬精機の事務所には、いつもより早く紙が並んでいた。
佐野真紀が作った下書きには、北河現場確認台 初回作成一式、と打たれている。材料費、現物合わせ加工、合格位置表示、初回現場説明、使用者指定、保管場所指定、改訂時更新管理、旧版回収または使用停止確認。昨日、北河の品質管理まで巻き込んで決めた項目が、見積の形に収まり始めていた。
見た目は少し地味だが、中身は重い。黒瀬精機が、ただの部品屋から一歩外へ出るための紙だった。
直人はその下書きを見ながら、胸の奥に小さな熱を感じていた。北河の現場で鳴った音に、値段を付ける。押し込む前に止める仕組みを、仕事として認めてもらう。前の人生ではなかなか届かなかった場所へ、今の黒瀬精機は少しずつ手を伸ばしている。
けれど、その熱に引っ張られすぎると、足元を踏み外す。
美智子が台帳をめくり、赤鉛筆で一つの行を叩いた。そこには、倉田精密の名があった。
「直人。北河も大事やけど、今日の午前は倉田精密」
その一言で、事務所の空気が変わった。
洗浄治具用の小さな押さえ部品と、保管札の追加分。納品は今日の午前中である。金額だけを見れば、北河の確認台ほど大きくはない。だが、毎月きちんと戻ってくる仕事であり、洗浄前と洗浄後を分ける運用の中に黒瀬の部品が入っている。ここを落とせば、黒瀬式を外へ広げる話そのものが軽くなる。
佐野もすぐに顔を上げた。
「倉田精密さんの納品箱、昨日の夕方に最終確認予定でしたよね」
宮田悟の表情が強張った。彼は作業場の方を見てから、はっきりしない声で答える。
「確認台の仮置きがあったので、箱を検査台の下に移しました。最終確認は、まだです」
森川修一の手が止まった。怒鳴りはしない。ただ、旋盤の前からゆっくり顔を上げる。
「検査台の下は、置き場やない」
「すみません」
宮田は即座に頭を下げた。
直人は、宮田を責めるより先に作業場へ向かった。検査台の下には、倉田精密の納品箱が二つ並んでいる。汚れてはいない。箱も潰れていない。だが、見えにくい場所へ入った時点で、仕事は少し危なくなっていた。北河の確認台を置くために、通常仕事が影へ押し込まれたのだ。
前の人生でも、似たことは何度もあった。大きな客の仕事、新しい案件、利益が見えそうな話に目を奪われ、昔からの小さな納品が後回しになる。そうして納期ぎりぎりに慌て、現場に負担をかけ、結局はどちらの信用も削る。会社は派手な失敗だけで傾くのではない。黙って戻ってきていた仕事を、黙って失っていくことでも弱っていく。
直人は箱を持ち上げ、検査台の上へ戻した。
「先に倉田を終わらせます」
美智子が事務所から言う。
「北河の見積は」
「佐野さんに下書きを進めてもらいます。俺は午前中、現場に入ります」
佐野はすぐに頷いた。
「分かりました。ただし、見積の金額判断は直人さんと社長の確認後です。私は項目と文言を整えます」
隆夫が作業場の入口で腕を組んだ。
「それでええ。伸びる仕事に目が行くのは分かる。けど、食わせてくれてる仕事を遅らせたら、伸びる前に倒れる」
その声は静かだったが、工場の奥まで届いた。
倉田精密の部品は、小さかった。洗浄治具に使う押さえ金具が二十個あり、角の面取りは指で触った時に引っかかりがあってはいけない。保管札は洗浄前と洗浄後で分ける追加分があり、札そのものは難しくないが、倉田精密の現場で使う言葉に合わせて印を変えている。標準品に見えて、完全な標準ではない。だから、最後の確認を飛ばせなかった。
宮田が一つずつ部品を並べ、森川が指で角をなぞる。
「ここ、もう一回」
「はい」
宮田は小さな部品を受け取り、砥石へ向かった。焦って押し当てれば、寸法が逃げる。だから力を抜き、角だけを落とす。直人はその横で、保管札の束を確認した。洗浄前。洗浄後。検査待ち。出荷前保管。言葉は似ているが、倉田精密で意味が通るように並んでいる。
そこへ電話が鳴った。
佐野が受話器を取り、短く応対してから、手で受話口を押さえた。
「小池製作所さんです。保全用の小物部品が割れたそうです。できれば今日中に見てほしい、と」
小池製作所は、小物加工の客だ。
こういう電話は断りにくい。困っている相手の顔が見えるうえ、急ぎ仕事には金も乗せやすい。前の人生の直人なら、ここで「持ってきてください」と言い、現場へまた一つ火種を増やしていたかもしれない。
だが、今は倉田精密の納品が検査台の上にある。北河の見積も動いているし、クロフィックスの補充札出荷も、午後には確認が必要だ。
直人は佐野から受話器を受け取った。
「黒瀬です。小池さん、現物はありますか」
電話の向こうで、小池が少し慌てた声を出す。
「割れたやつはあります。機械は止まってます。似た形で一個、今日中にできませんか」
「今日中に完成とは言えません。現物確認は受けます。ただし、材質と寸法を見て、今日中にできるか、明日朝になるかをこちらで判断します。特急扱いになるので、通常単価では受けられません」
小池は一瞬黙った。
「前なら、見てから何とかするって言うてくれましたやん」
その言葉は責めているというより、昔の感覚で頼っている声だった。
直人は息を吸った。
「何とかする、で受けると、他の納品を崩します。小池さんの機械も大事です。でも、今日午前に出す約束の仕事があります。現物を持ってきてもらえれば、昼前に確認して、可能なら条件を出します」
小池は、今度は少し落ち着いた声で言った。
「分かりました。ほな、十一時頃に持っていきます」
「お願いします。割れた理由も見たいので、相手側の写真か寸法が分かるものもあれば持ってきてください」
電話を切ると、森川が小さく笑った。
「前より冷たい言い方になりましたな」
「そう見えるかもしれません」
直人は答えた。
「でも、約束を守るためです」
「冷たいんやなくて、順番を決めただけですわ」
森川はそう言い、宮田が戻した押さえ金具を受け取った。
「これならいける」
倉田精密の納品箱は、午前十時半に整った。押さえ金具二十個、札の束、控え紙、使用場所の確認メモ。どれも大きなものではないが、箱の中でそれぞれの居場所が決まっている。宮田が最後に声に出して数え、美智子が台帳へ赤で納品時刻を書いた。
田端商会の午前の巡回便は、すでに荷を積んで出たあとだったため、今回は隆夫が軽ワゴンで持っていくことになった。大きな荷ではない。だが、遅れそうになった仕事を、確実に届けるための判断だった。
出発前、隆夫は直人に言った。
「今日は俺が行く。直人は小池を見ろ」
「はい」
「倉田さんには、確認台で場所を使って少し最終確認が遅れたとは言わんでええ。ただ、次から通常納品箱の置き場を変えたことは伝える」
直人は頷いた。
隠すのではない。余計な不安を渡さず、改善した事実だけを伝える。
隆夫が出ていった少し後、小池が現物を持ってきた。手のひらに乗るほどの小さなストッパーで、割れた断面は古く、黒く汚れている。機械の中で長く使われ、疲労で割れたものだろう。小池は申し訳なさそうに言った。
「一個だけなんです。止まってる機械も一台だけで」
直人は現物を見た。森川も横から覗き込む。
「材質、これアルミやないな」
「亜鉛の鋳物っぽいですな。削って似せるだけならできるかもしれんけど、同じ強さになるとは言えません」
森川の声は慎重だった。
小池が眉を寄せる。
「とりあえず動けばええんです」
その言葉に、直人は首を振った。
「とりあえず動くものは作れます。ただ、とりあえず動いたせいで、次に別の場所を壊すことがあります。応急品として使うなら、使用時間と確認条件を付けます」
小池は困った顔をしたが、怒りはしなかった。
「条件って、どんなですか」
「今日中に仮部品を一個作る場合、特急費。材質は黒瀬で選ぶ。応急使用は連続二時間まで。取り付け後は小池さん側で割れや変形を確認。異音や引っかかりが出たら、その時点で止めてください。動くからといって、そのまま使い続ける部品ではありません。正式品は、相手側の寸法を確認して別見積です」
美智子が台帳にその条件を書き始めた。
小池は唸った。
「高くなりますか」
「高くなります。でも、通常納期の仕事を止めて作るからです」
直人は言い切った。
「今日安く受けると、どこかの仕事が遅れます。その遅れは小池さんの請求書には出ません。でも、黒瀬の中では確実に費用になります」
小池は割れたストッパーを見下ろし、しばらく黙ったあとで言った。
「ほな、応急でお願いします。機械を今日中に少しでも動かしたい。正式品は別で相談します」
「分かりました。森川さん、いけますか」
森川は現物を手に取り、少し角度を変えながら見た。
「夕方五時なら。宮田、材料棚から似た厚みの端材を探せ。ただし、倉田の片づけが先や」
「はい」
宮田はすぐに動きかけて、足を止めた。
「倉田の納品箱、戻り場所はどうしますか」
美智子が顔を上げた。
「検査台の下は禁止。通常納品箱は入口横の白線内。北河確認台は別置き。今日から分ける」
「分かりました」
宮田は答え、今度は迷わず動いた。
午後一番、隆夫が戻ってきた。倉田精密への納品は間に合ったという。杉本は箱を開け、中身を確認してから、こう言ったらしい。
「新しい仕事が増えていると聞いていますけど、うちの納品がいつも通り来るのが一番助かります」
隆夫はその言葉を事務所に戻ってから伝えた。
直人は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。派手な褒め言葉ではない。だが、それは黒瀬精機が今日守ったものの正体だった。新しい仕事がどれだけ伸びても、いつもの納品がいつも通り来る。その当たり前に見えることを守れなければ、北河の確認台も、クロフィックスも、ただの背伸びになってしまう。
夕方五時前、小池製作所の応急ストッパーが仕上がった。
森川は最後に角を触り、宮田にも触らせた。割れた古い部品と同じ形ではない。削れる材料で、必要な当たりだけを出した応急品だった。直人は小池へ電話し、条件をもう一度伝えた。
「連続二時間まで。取り付け後に割れや変形確認。異音や引っかかりが出たら停止。正式品は別見積。今日のこれは応急品です」
小池は電話の向こうで何度も頷いているようだった。
「分かりました。安くしろとは言いません。止まってる機械を今日少し動かせるだけで助かります」
電話を切ると、美智子が台帳へ「応急品」と大きく書いた。
「仮を仮のまま渡す。これも大事やね」
「はい」
直人は答えた。
「仮がいつの間にか正式になるのが、一番怖いです」
森川が手を洗いながら言う。
「工場あるあるですな。仮の台、仮の箱、仮の部品。気づいたら何年も使ってる」
宮田が苦笑した。
「今日の確認台も、置き場決めないとそうなりますね」
「そういうことや」
森川は頷いた。
その日の夜、北河の確認台見積はまだ完成していなかった。佐野が整えた下書きに、直人と隆夫と美智子が金額の考え方を入れ、明日の午前にもう一度確認することになった。急がないわけではない。けれど、今日の黒瀬精機は、先に守る仕事を守った。
美智子は台帳の最後に一行を書いた。
伸びる仕事の前に、戻ってくる仕事を守る。
直人はその文字を見た。
北河電機の現場確認台は、黒瀬精機を前へ進める仕事だ。クロフィックスの販売網も、工場の未来を変えるかもしれない。だが、倉田精密の小さな箱や、小池製作所の応急品のような仕事が、毎日の床を支えている。
未来は、大きな契約だけで作るものではない。いつもの納品をいつもの時刻に届けること、困った相手に条件を付けて応えること、仮のものを仮だと書き、正式なものと混ぜないこと。そうした地味な線を守った先にしか、大きな仕事を置く場所はない。
直人は、検査台の下を見た。
そこには、もう納品箱はなかった。
空いているだけの床が、今日は少し頼もしく見えた。
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