第130話 現場で鳴る音
吉岡メッキから、黒処理を終えた十組が戻ってきた。
田端商会の荷台から下ろされた箱は、いつもより小さく見えた。
たった十組。
だが、その十組を通すために、一組を止めた。
曲げの肩を見た。
南田板金で作り直した。
確認台を作った。
吉岡メッキへ出す日を半日ずらした。
田端商会の集荷も動かした。
黒い金具は、仕切り箱の中で静かに並んでいる。
黒は、見た目を締める。
小さな傷も、曲げのわずかな違いも、見えにくくする。
だからこそ、黒処理後の確認は怖い。
森川修一は、一組目を指でつまみ上げた。
「きれいに上がってますな」
直人は頷いた。
「吉岡さん、早かったですね」
「早いけど、雑やない」
森川は金具を光にかざした。
「こういう早さは、怖ないです」
宮田悟が確認台を作業台へ置いた。
合板に固定された北河電機の取付レール。
端子台の位置。
赤い線。
矢印。
黒処理前に作った、あの確認台だ。
美智子が台帳を開く。
「黒処理後確認。十組」
佐野真紀は、まだ出勤している時間だった。
確認表を一枚、宮田へ渡す。
「黒処理後は、見た目だけで判断しないでください。音と座りで見ます」
「はい」
宮田は、以前より落ち着いた声で答えた。
一組目。
確認台へ当てる。
かちり。
二組目。
かちり。
三組目。
かちり。
音は、黒処理前と少し違った。
ほんのわずかに、硬い。
表面の処理が乗った分、手に返る感触が変わる。
だが、押し込む音ではない。
座る音だった。
森川は、宮田の横で黙って聞いていた。
十組目まで終わると、宮田は小さく息を吐いた。
「十組、座りました」
森川が言う。
「入った、やないで」
「座りました」
「それでええ」
直人は、確認台の赤い線を見た。
作ってよかった。
紙の数字だけなら、黒処理後のこの違いは拾いにくい。
手の感覚だけなら、森川は分かる。
だが、宮田にも分かる形にしなければ、月五十組は見られない。
美智子が台帳へ書いた。
黒処理後十組、確認台にて全数座り確認。
九組先出しなし。
十組揃い。
北河電機へ納品。
佐野がそこで言った。
「長沢さんが確認台を見たいと言っていた件、持っていきますか」
直人は少し考えた。
「持っていきます。ただし、預けません」
宮田が顔を上げる。
「預けないんですか」
「これは黒瀬の確認台や。北河さんの現場で見てもらう。でも、そのまま置いて帰るものではない」
森川が頷いた。
「向こうで別の用途に使われたら終わりですな」
「はい」
直人は答えた。
「必要なら、北河用の現場確認台を別で作ります。有償で」
美智子の赤鉛筆が、そこで動いた。
現場確認台。
別作成。
有償。
北河保管の場合、管理責任確認。
佐野がその文字を見て、頷いた。
「黒瀬内の確認台と、客先用の確認台は分けた方がいいです」
「名前も分けますか」
宮田が聞く。
「分けます」
佐野は即答した。
「同じ名前だと、どちらが正か分からなくなります」
直人は、その会話を聞きながら、黒い十組を納品箱へ入れた。
箱の中で、金具は十の仕切りに収まる。
ひとつひとつ、同じ向き。
同じ顔。
だが、同じに見えるものほど、同じだと信じてはいけない。
午前の便で、納品箱と確認台を北河電機へ運ぶことになった。
荷物は田端商会の便に載せる。
直人と宮田は、黒瀬の軽ワゴンでその後ろを追う。
黒瀬の軽ワゴンで持っていけない量ではない。
だが、今回は北河への正式納品だ。
荷の流れも、試したかった。
田端商会の荷台に、納品箱。
その横に、黒瀬の確認台。
確認台には布をかけてある。
田端が荷締めをしながら言った。
「板一枚にも、えらい扱いですな」
「ただの板やないんです」
宮田が答えた。
「確認するための板です」
田端はにやりと笑った。
「ほな、板も客先へ納品気分ですな」
直人は、その言葉を聞いて少し考えた。
その通りかもしれない。
確認台は、売り物ではない。
だが、黒瀬精機の仕事を外へ説明するものだ。
傷つけてよいものではなかった。
北河電機の現場は、黒瀬精機よりずっと大きかった。
床には白線が引かれ、棚には部材が積まれている。
制御盤の外箱が、いくつか並んでいた。
空気の匂いも違う。
鉄と油だけではない。
電線。
樹脂。
段ボール。
人の多い工場の匂い。
長沢は、入口で待っていた。
「黒瀬さん、待ってました」
その横には、佐伯もいた。
購買の人間らしく、手には控えの紙を持っている。
「一日ずらしていただいた件、現場には伝えています」
佐伯はそう言った。
責める口調ではない。
だが、納期が動いたことは、ちゃんと記録されている。
美智子が来ていれば、同じように控えを見たはずだ。
直人は頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
長沢がすぐに首を振った。
「いや、迷惑かどうかは、今から見ます」
その言い方が、現場の人間らしかった。
北河の作業台に、黒瀬の十組が並べられた。
長沢は、一組目を手に取る。
黒い金具を見て、少し目を細めた。
「黒くなると、やっぱり締まって見えますね」
「締まって見える分、怖いです」
直人は答えた。
「当たりが見えにくくなります」
「そこを見たい」
長沢は言い、確認台を見た。
布を外す。
合板。
取付レール。
端子台の位置。
赤い線。
矢印。
北河の現場の一部を、小さく切り取ったような台だった。
長沢は、しばらく黙っていた。
「これ、うちの現場より分かりやすいですね」
直人は苦笑した。
「現場全部は持てないので、見るところだけにしました」
「だから分かりやすいんやな」
長沢は一組目を確認台へ当てた。
かちり。
長沢の顔が変わった。
「音がする」
「はい」
「入った音じゃない。座った音ですね」
宮田が少しだけ嬉しそうな顔をした。
直人はその顔を見て、何も言わなかった。
言葉にするより、今は音で伝わっている。
長沢は二組目を当てる。
かちり。
三組目。
かちり。
北河の若い作業者が、二人ほど近づいてきた。
長沢が言う。
「見とけ。これが座った音や。無理に押し込んだ音と違う」
若い作業者の一人が聞いた。
「押し込んだら駄目なんですか」
長沢は金具を持ったまま答えた。
「押し込めば、今日は付く。けど、配線が逃げん。あとで線が苦しくなる。最悪、全部外す」
その声に、直人は少し胸が熱くなった。
黒瀬で止めた一組の意味が、北河の現場の言葉に変わっている。
それは、説明紙より強かった。
十組すべて、確認台で座った。
次に、実際の制御盤へ仮取り付けする。
一組目。
ねじを仮止めする。
配線の逃げを見る。
長沢が指を入れる。
「ここ、前は当たりそうやったんですよ」
若い作業者が言う。
「今回は逃げてます」
「逃げてるだけやない。触った時に分かる余裕がある」
長沢はそう言った。
直人は、その言葉を聞いていた。
余裕。
図面には出にくい言葉だ。
だが、現場ではその余裕が、あとで効く。
二組目。
三組目。
仮取り付け確認は進む。
だが、七組目で、若い作業者の手が止まった。
「長沢さん、こっちの端子台、少し寄ってませんか」
長沢が覗き込む。
直人も見る。
金具は座っている。
金具そのものは問題ない。
だが、北河側の古い端子台の位置が、わずかにずれている。
制御盤の個体差だった。
長沢が顔をしかめた。
「うち側やな」
佐伯が控えに目を落とした。
「現場側のばらつきですか」
「はい」
長沢は短く答えた。
「この盤だけ、古い治具で組んだやつかもしれません」
宮田が思わず言った。
「金具を少し削れば……」
言いかけて、止まった。
長沢が宮田を見る。
森川はいない。
だが、宮田の耳には、あの短い声が残っていたはずだ。
押すな。
宮田は言い直した。
「いえ。削る話じゃないです。北河さん側の当たり位置を確認した方がいいです」
長沢が少し笑った。
「黒瀬さんとこ、若い人までそう言うんですね」
宮田は少し赤くなった。
直人は、内心で小さく頷いた。
言えた。
止まれた。
それだけで、宮田は一つ進んでいる。
長沢は七組目を外さず、配線の通りを見る。
端子台が少し寄っている。
金具は悪くない。
だが、この盤で本取り付けへ進むには、北河側の位置確認がいる。
「この一組は、うちで盤側を確認します」
長沢が言った。
「金具は合格です。ただ、この盤には現場側の確認が要る」
佐伯が控えに書く。
七組目。
金具問題なし。
盤側端子台位置確認。
黒瀬責ではない。
直人は、その文字を見て少し安心した。
責任逃れではない。
責任の場所を分けることが大事だった。
すべてを黒瀬が抱えれば、黒瀬が潰れる。
すべてを北河に返せば、仕事にならない。
どこまでが部品で、どこからが現場か。
その線を引くことも、管理セットの仕事だった。
十組すべての仮取り付け位置を見終える頃、現場の空気は変わっていた。
最初は、黒瀬の小さな金具を見に来た人間たちだった。
今は、確認台の周りに集まっている。
長沢が、直人に言った。
「これ、うちにも一台欲しいです」
直人は、予想していた言葉だった。
だから、すぐには答えなかった。
「黒瀬の確認台をそのまま置くことはできません」
「分かってます。持って帰られたら困るとは思いましたけど」
長沢は苦笑した。
「北河用に作ってもらうなら、いくらになりますか」
佐伯が、すぐに顔を上げた。
「長沢さん、現場判断で買う話にしないでください」
「分かってます」
長沢は答えた。
「だから佐伯さんの前で言うてます」
佐伯はため息をついたが、怒ってはいなかった。
直人は言った。
「現場確認台を作るなら、ただの板代では出せません。どこを見るか、どの状態を合格にするか、誰が使うか、変更が出た時にどう直すか。そこまで含めます」
「月次管理費に入りますか」
佐伯が聞いた。
直人は少し考えた。
「初回は別です。確認台の作成費と、現場説明費。月次では、改訂があった場合の更新管理を入れる形です」
佐伯は控えに書いた。
「確認台作成費。現場説明費。改訂時更新管理」
長沢が確認台を見たまま言う。
「高くなりそうやな」
直人は笑わなかった。
「安く作るなら、合板にレールを固定するだけでできます。でも、それだと誰かが違う使い方をした時に止められません」
佐伯が頷いた。
「黒瀬さんが言うなら、そこは見積に分けてください。板代、作業費、現場説明、改訂管理。購買として通しやすい形にします」
直人は頭を下げた。
「ありがとうございます」
この人は敵ではない。
通すために、言葉を分けてくれている。
直人はそう思った。
納品控えに、長沢がサインした。
十組納品。
金具十組、現場仮取り付け確認済み。
七組目、盤側端子台位置確認あり。
北河側にて確認。
確認台、北河現場用を別途見積。
黒瀬へ戻る田端商会の荷台には、空になった納品箱と、黒瀬の確認台が乗っていた。
置いて帰らない。
それも今日の仕事だった。
帰り道、黒瀬の軽ワゴンの中で、宮田はずっと黙っていた。
直人は、助手席側から宮田を見た。
「疲れたか」
「疲れました」
宮田は正直に答えた。
「でも、黒瀬でかちりって鳴ったのと、北河さんの現場で鳴ったの、違いました」
「どう違った」
「黒瀬では、合ってるかどうかの音でした。北河さんでは、あとで困らないかどうかの音でした」
直人は、少しだけ笑った。
「ええこと言うな」
宮田は照れたように目を伏せた。
「長沢さんの若い人が見てたからかもしれません。あの音を聞いて、押し込んだらあかんって分かるなら、確認台って道具だけじゃないんですね」
「何やと思う」
「教えるもの、ですかね」
直人は、窓の外を見た。
工場の看板が流れていく。
町工場。
板金屋。
工具屋。
運送屋。
それぞれの場所に、それぞれの音がある。
黒瀬精機が作ろうとしているのは、金具だけではない。
箱だけでもない。
現場で人の手を止める音。
押し込まずに済む線。
次の人が迷わない形。
そういうものが、少しずつ仕事になり始めている。
黒瀬精機へ戻ると、美智子が待っていた。
佐野はもう退勤している。
事務所の机には、北河案件の台帳が開かれていた。
「どうやった」
美智子が聞く。
「十組、納品しました。一組、北河さん側の盤で端子台位置の確認あり。金具は問題なしです」
「確認台は」
「持って帰りました。北河用は別途見積です」
美智子の赤鉛筆が動く。
北河現場用確認台。
別途見積。
作成費。
現場説明費。
改訂時更新管理。
美智子は、そこで手を止めた。
「板一枚が、仕事になったね」
「はい」
直人は答えた。
「でも、板代では出せません」
「出したらあかんね」
美智子は言った。
「板を売るんやなくて、止め方を売るんやから」
森川が作業場から顔を出した。
「北河で鳴りましたか」
宮田が答える。
「鳴りました。かちりって」
「ほな、ええ」
森川はそれだけ言って、また奥へ戻った。
その短さが、森川らしかった。
夜、美智子は台帳の最後に一行を書いた。
現場で鳴った音に、値段を付ける。
直人は、その文字を見た。
金具十組の納品は終わった。
だが、それだけではない。
確認台という新しい仕事が生まれた。
北河の現場で、黒瀬の仕事が音になった。
その音に値段を付ける。
安くはない。
簡単でもない。
けれど、そこに値段を付けなければ、また部品代だけの仕事に戻ってしまう。
直人は、持ち帰った確認台を見た。
赤い線。
矢印。
黒い金具が座った跡。
工場の未来は、大きな機械の音だけで変わるわけではない。
小さな金具が、正しい位置で鳴る音。
その音を、次の仕事にできるかどうか。
黒瀬精機は、また一つ、試されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます