第129話 止めた一組

 北河電機の初回二十組は、十組ずつに分けて動かすことになった。


 一度に二十組を流せば、見た目は早い。


 だが、早く見える仕事ほど、詰まった時に大きく止まる。


 直人はそれを知っていた。


 十組。


 まず十組。


 そこで材料、曲げ、処理、確認、梱包、出荷の流れを見る。


 うまくいけば次の十組へ進む。


 無理が出れば、そこで止める。


 黒瀬精機の作業場には、朝から少し違う緊張があった。


 クロフィックス用の空箱や補充札は、田端商会裏の保管室へ移す段取りが進んでいる。


 そのおかげで、作業場の通路は少しだけ戻った。


 けれど、広くなったわけではない。


 通るべきものが通れるようになっただけだ。


 森川修一は、旋盤の横に立ち、北河電機の配線押さえ金具を一つ手に取った。


 まだ黒処理はされていない。


 南田板金から戻った、曲げ直後の品物だ。


 田端商会が朝一番で運んできた。


 十組分。


 番号付きの仕切り箱に、一つずつ並んでいる。


 宮田悟が声に出して数えた。


「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。十組、あります」


 森川がすぐに言った。


「数があるのと、使えるのは別や」


「はい」


 宮田は、すぐに言い直した。


「十組、受け取りました。これから確認します」


「それでええ」


 直人は、そのやり取りを聞きながら、作業台の上に置かれた北河電機の確認用部材を見た。


 長沢が貸してくれた、古い取付レールと端子台の一部だった。


 新品ではない。


 むしろ少し汚れている。


 だからいい。


 現場で実際に使われる空気を持っている。


 図面の上では通るものが、現物の上では通らないことがある。


 直人は前の人生で、何度もそれを見ていた。


 佐野真紀が、事務所側から確認表を持ってきた。


「北河一次十組、曲げ戻り確認。黒処理前です」


 美智子が頷く。


「黒くしてから削るのはあかん。吉岡さんにも、そこは言われてる」


「はい」


 佐野は確認表を作業台の端に置いた。


「ただ、紙だけで済ませないでください。現物に当てた結果を優先します」


 森川が笑った。


「佐野さんに言われんでも、現物には逆らえませんわ」


「逆らう人がいるので、書いてあります」


 佐野は真顔で答えた。


 宮田が少し苦笑した。


 直人は、確認表を見た。


 紙は必要だ。


 だが、紙が現物より偉くなってはいけない。


 今日はそこを間違えない日だった。


 一組目。


 宮田が金具を取り、取付レールへ軽く合わせる。


 穴位置。


 曲げの向き。


 配線の逃げ。


 問題ない。


 二組目。


 三組目。


 四組目。


 森川は黙って見ていた。


 直人も口を出さない。


 宮田の手が少しずつ落ち着いていく。


 五組目も通った。


 六組目。


 宮田が金具をレールへ当てた瞬間、ほんのわずかに手が止まった。


 音が違った。


 かちり、ではない。


 こつ、と浅く当たった音だった。


 宮田はもう一度、角度を変えて入れようとした。


 森川がその手を止めた。


「押すな」


 短い声だった。


 宮田の指が止まる。


 直人も、息を止めた。


 森川は、六組目の金具をそっと取り上げた。


 無理に入れれば、入ったかもしれない。


 少し力をかければ、座ったかもしれない。


 だが、それは確認ではない。


 押し込みだ。


 森川は金具の曲げ部分を指でなぞった。


「ここやな」


 直人が近づく。


 見た目では、ほとんど分からない。


 寸法も大きく外れてはいないはずだ。


 だが、取付レールの端に当てると、曲げの肩がわずかに干渉している。


 配線が通る逃げも、少し浅い。


 宮田が言った。


「一個だけですか」


「まだ分からん」


 森川は答えた。


「先に全部見る」


 七組目。


 通った。


 八組目。


 通った。


 九組目。


 わずかに重いが、入る。


 十組目。


 通った。


 問題は六組目だけに見えた。


 だが、森川の顔は緩まなかった。


「一個だけなら、削って合わせますか」


 宮田が言った瞬間、美智子の赤鉛筆が止まった。


 森川も直人も、同時に宮田を見た。


 宮田はすぐに自分で気づいた顔になった。


「すみません。黒処理前でも、削って合わせる話じゃないですね」


「そうや」


 森川は言った。


「削ったら、合うかもしれん。でも、次に同じ形で出せん」


 直人は六組目の金具を手に取った。


 軽い。


 小さい。


 たった一つの金具だ。


 だが、ここで間違えれば、月五十組の流れにその間違いが乗る。


 小さなズレは、量が増えるほど大きな傷になる。


「南田さんに見てもらおう」


 直人が言った。


 美智子はすぐに電話へ手を伸ばした。


 南田板金の南田は、昼前に来た。


 作業着のまま、少し油の匂いを連れている。


 金具を見て、まず眉を寄せた。


「寸法、外れてますか」


「紙の寸法は、たぶん大きく外れてません」


 直人は答えた。


「でも、現物に当てると一つだけ当たります」


 南田は、六組目を手に取った。


 指で曲げの肩を見る。


 次に、通った一組目と並べる。


 しばらく黙った。


「曲げの戻りやな」


 南田は言った。


「一枚だけ、ちょっと硬かったかもしれん。材料の端の方やったか」


 森川が聞いた。


「曲げ角ですか」


「角度もあるけど、肩の丸みやな。図面の数字だけやと見えにくい」


 南田は取付レールに六組目を当てた。


 こつ、と浅い音がする。


 南田の顔が少し渋くなった。


「これ、現場やったら押し込みますね」


「押し込まれたら困るんです」


 直人は言った。


「配線の逃げが浅くなります」


「黒処理したら、もっと分かりにくくなるな」


 森川が低く言った。


 吉岡メッキで黒くなれば、見た目は締まる。


 小さな違いは、むしろ隠れる。


 黒は隠す色ではない。


 その言葉が、直人の頭をよぎった。


 南田は金具を作業台に置いた。


「これは、うちで直します。いや、直すというより、一つ作り直した方がええ」


 宮田が驚いた顔をした。


「一つだけですか」


「一つだけやから作り直す」


 南田は答えた。


「一つだけやから手でこじって合わせる、はあかん。次に同じことが出た時、分からんようになる」


 そこで、南田は少しだけ考えてから続けた。


「同じ板の残りがまだあります。一枚だけなら、今日の午後に戻せます。ただし、急がせるんやなくて、曲げ肩を見ながら作り直します」


 直人は、南田を見た。


 ありがたかった。


 言い訳をしない職人は、強い。


 南田は続けた。


「ただ、こっちだけの問題とも言い切れません。確認が現物一つやと、どこまで見るかが曖昧になる。黒瀬さん、当たりを見る場所を決めましょう」


 森川が頷く。


「確認台、作りますか」


「作る」


 直人はすぐに答えた。


「現物レールを置いただけでは、人によって当て方が変わります。どこに当てて、どこを見て、どこで止めるか。手が迷わない台にします」


 佐野が口を挟んだ。


「台に名前を付けますか」


「名前?」


 宮田が聞き返す。


「ただの板だと、別の用途に使われます。北河確認台と書いておいた方がいいです」


 森川が笑った。


「板にも名札ですか」


「板ほど名札が要ります」


 佐野は真顔で言った。


「何にでも使える板は、何に使っていたか分からなくなります」


 南田が感心したように佐野を見た。


「黒瀬さんとこは、事務の人も現場みたいなこと言いますな」


「事務も現場を止めます」


 美智子が言った。


 その言葉に、南田は笑わなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 確認台は、その場で作ることになった。


 森川が不要な合板を持ってくる。


 宮田が端を拭く。


 直人は、北河から確認用に預かった取付レールを、傷がつかないよう押さえ金で合板に仮固定した。


 端子台の位置を写す。


 配線が通る線を引く。


 金具を入れる向きを矢印で書く。


 当たってはいけない場所に赤い線を引く。


 森川が六組目を当てる。


 こつ、と止まる。


 通った一組目を当てる。


 かちり、と座る。


 音の違いが、はっきりした。


 宮田の顔が変わった。


「これなら、分かります」


「分かるようにせなあかん」


 森川は言った。


「分かる人だけが分かる確認は、数が増えたら負ける」


 南田は、作り直す一つを持って帰ることにした。


 納期への影響は一日。


 吉岡メッキへ出す日は、半日ずらす。


 田端商会の集荷も、金曜午前から金曜午後へ動かす。


 小さな遅れだ。


 だが、隠せば大きな遅れになる。


 直人は北河電機へ電話を入れた。


 佐伯ではなく、長沢が出た。


「黒瀬さん、何かありましたか」


「一次十組のうち、一組だけ曲げの肩が現物に当たりました。黒処理前に止めています。作り直しで一日見ます」


 長沢は、すぐには返事をしなかった。


「一組だけですか」


「はい」


「それ、現場なら押し込んでますね」


「だから止めました」


 電話の向こうで、長沢が小さく笑った。


「助かります。押し込んだら、あとで配線が泣きます」


「納期は一日ずらす可能性があります。十組揃いで出します。九組だけ先には出しません」


「それでお願いします。佐伯にも伝えます」


 長沢は、少し声を低くした。


「黒瀬さん、正直に言うと、うちの現場ではこういう一個を見逃して、あとで全部外すことがあります」


「分かります」


「確認台、見せてもらえますか」


「もちろんです」


「では、初回十組の納品時に見に行きます」


 電話を切った。


 直人は受話器を置いた。


 美智子が台帳へ書く。


 一次十組。


 六組目、曲げ肩当たり。


 黒処理前停止。


 南田板金、一個作り直し。


 北河連絡済み。


 九組先出しなし。


 十組揃いで納品。


 確認台作成。


 午後三時前、佐野は確認表の空欄を一つ増やした。


 確認台使用。


 当たり音。


 入る、ではなく座る。


 その三つを追記し、原本に日付を入れる。


「今日はここまでにします。確認台そのものの置き場は、明日決めましょう」


「分かりました」


 美智子が答えた。


「お疲れさま」


 佐野が帰った後も、作業場には確認台が残った。


 合板に固定されたレール。


 赤い線。


 矢印。


 かちり、という音の記憶。


 午後遅く、南田が作り直した一つを持ってきた。


 無理をしたのではなく、同じ材料の端を避け、曲げの肩を確認しながら作ったものだった。


 確認台に当てる。


 かちり。


 森川は、何も言わずにもう一度当てた。


 かちり。


 宮田が息を吐いた。


「通りました」


「通っただけやと弱い」


 森川が言った。


「十組全部、もう一回や」


 宮田は、すぐに十組を並べ直した。


 一組目。


 かちり。


 二組目。


 かちり。


 三組目。


 かちり。


 十組目まで、音は揃った。


 その音を聞きながら、直人は思った。


 これは、量産ではない。


 町工場の手の中にある、十組の仕事だ。


 だが、同じ音を十回出せるなら、次の十組へ進める。


 同じ音を五十回出すには、もっと仕組みがいる。


 そのための最初の一回だった。


 夕方、吉岡メッキへ出す箱が田端商会の荷台に乗った。


 十組分。


 今度は九組ではない。


 止めた一組を作り直し、十組に戻した箱だった。


 田端が荷台の位置を確認しながら言った。


「今日は、えらい慎重ですね」


「一個止めました」


 宮田が答えた。


 田端は頷いた。


「一個止められるうちは、まだ強いです」


 直人は、その言葉を聞いた。


 一個止められるうちは、まだ強い。


 その通りだった。


 忙しくなると、一個を止められなくなる。


 止めた一個を邪魔だと思うようになる。


 それが、工場を弱くする。


 田端の軽トラックが出ていく。


 作業場に、確認台が残った。


 宮田は、その台を壁際に立てかけようとした。


 美智子がすぐに言った。


「立てかけたら、次に誰かが動かすよ」


 宮田が止まる。


「すみません。どこに置きますか」


「置き場を決めるまで、仮置き。明日、佐野さんに確認台の棚番も作ってもらう」


 森川が吹き出した。


「確認台の置き場まで要るんか」


「要る」


 美智子は答えた。


「確認台を探すようになったら、確認できへん」


 直人も笑わなかった。


 たしかに、その通りだった。


 道具を作れば、道具の置き場がいる。


 仕組みを増やせば、仕組みを支える場所がいる。


 面倒だ。


 けれど、その面倒を先に払えば、あとで泣かずに済む。


 夜、美智子は台帳の最後に一行を書いた。


 止めた一組が、次の十組を守る。


 直人は、その文字を見た。


 今日は、十組を完成させた日ではない。


 一組を止めた日だ。


 止めたから、十組になった。


 止めたから、北河へ出せる。


 止めたから、月五十組の入口に立てる。


 直人は確認台の赤い線を見た。


 未来は、勢いだけでは作れない。


 押し込めば入るものを、押し込まずに止める。


 その小さな停止が、会社を前へ進めることもある。


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