第128話 通路の値段
販売店説明会から、五日が過ぎた。
黒瀬精機の作業場には、いつもの音が戻っていた。
旋盤の低い唸り。
ボール盤の短い音。
金属を拭く布の擦れる音。
田端商会の軽トラックが表に止まり、宮田悟が納品箱を受け取る。
そこまでは、いつも通りだった。
違ったのは、通路だった。
作業台の横に、クロフィックス標準セット用の空箱が積まれている。
反対側には、仕切り板の束。
棚の下には、油紙。
壁際には、まだ出荷できないKFX-S-016とKFX-S-017。
赤い仮札が付いたまま、静かに置かれている。
邪魔ではない。
そう思えば、邪魔ではなかった。
だが、森川修一が旋盤から加工品を持って歩いた時、その肩が空箱の角にかすった。
箱が一つ、軽く揺れた。
中身は入っていない。
落ちても大きな事故にはならない。
それでも、森川は足を止めた。
「直坊」
「はい」
「これ、あかんやつですわ」
直人は、すぐに作業台から顔を上げた。
森川は、空箱を指した。
「今は空やからええ。でも、ここに品物が入ってたら、わしの肩で落としてます」
宮田が振り返った。
「すみません。朝の確認のあと、置き場を戻すの忘れてました」
「宮田のせいやない」
森川は首を振った。
「置き場がないんや」
その言葉は、思ったより重かった。
直人は作業場を見渡した。
旋盤。
ボール盤。
材料棚。
納品箱。
検査台。
クロフィックスの空箱。
説明紙の封筒。
補充札。
保留箱。
どれも必要だった。
どれも間違っていない。
なのに、通路が細くなっている。
仕事が増えたのではない。
置くものが増えたのだ。
その時、事務所の黒電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、平井さん。お世話になっております」
直人は、森川と目を合わせた。
東和工具商会の平井。
販売店説明会後の連絡だ。
美智子の声が少し高くなる。
「西田工具店さんで一箱、河内工業用品さんで一箱。……はい。もう売れたんですか」
宮田の顔が明るくなった。
森川は、逆に渋い顔をした。
美智子は受話器を耳に当てたまま、台帳へ文字を書く。
「追加ですか。……西田さんが二箱、河内さんが一箱。布施さんは、若い方を連れて再説明希望。……はい、分かりました。今日中に返事します」
受話器を置いた。
事務所が一瞬だけ静かになった。
宮田が言う。
「売れたんですね」
「売れた」
美智子は答えた。
「追加も来た」
嬉しいはずだった。
売れるために作ってきた。
売る人を選んで、出してよい店へだけ出した。
その結果、売れた。
だが、直人の目は作業場の通路を見ていた。
売れた分だけ、箱が増える。
補充札が増える。
控えが増える。
戻り先が増える。
その重さが、今、足元に出ている。
そこへ、もう一本電話が鳴った。
美智子が取り直す。
「はい、黒瀬精機です。……北河電機さん。佐伯さんですね」
直人の背筋が伸びた。
北河電機。
先行十組のあと、月五十組の話が進んでいた相手だ。
美智子は目だけで直人を呼んだ。
直人が受話器を受け取る。
「お世話になっております。黒瀬です」
佐伯の声は、いつも通り落ち着いていた。
「黒瀬さん、先日の管理セットの件、社内で通りました。まずは初回二十組から正式にお願いしたいと思います。その後、月五十組を基本に進めたいです」
直人は、すぐには喜ばなかった。
目の前には、細くなった通路がある。
「ありがとうございます。条件の確認をさせてください。初期設計費、月次管理費、十組ごとの分納、外注費の前倒し分。前回の見積条件でよろしいですか」
「はい。購買としても、その形で通しています。長沢からも、現場側はその方が助かると聞いています」
「納期は」
「初回二十組を三週間後までに。可能でしょうか」
三週間。
不可能ではない。
だが、今の作業場のままなら危ない。
直人は、すぐに答えを出さなかった。
「今日中に、工程と置き場を確認して返答します」
佐伯は少し間を置いた。
「置き場ですか」
「はい。部品だけでなく、箱、札、確認表、外注戻りの置き場まで含めて見ます。そこを確認せずに受けると、北河さんにも迷惑をかけます」
電話の向こうで、佐伯が小さく息を吐いた気配がした。
「黒瀬さんらしい返事ですね。では、本日中のご連絡をお待ちします」
電話を切る。
直人は受話器を置いた。
美智子は、もう台帳を開いていた。
東和工具追加。
西田二箱。
河内一箱。
布施再説明希望。
北河電機。
初回二十組。
三週間後。
月五十組予定。
森川が、作業場から言った。
「仕事、来ましたな」
「来た」
隆夫が奥から出てきた。
いつものように大きな声は出さない。
ただ、作業場を一度見ただけで、顔が締まった。
「通路が足らんな」
直人は頷いた。
「はい」
宮田が、少し焦った顔になる。
「片づけます」
「片づけても足らん」
隆夫は言った。
「一日なら片づけでいける。毎月なら無理や」
その言葉で、場が決まった。
これは、今日の整理整頓ではない。
黒瀬精機の形を変える話だ。
美智子が赤鉛筆を持った。
「まず、床を見る」
紙ではなく、床。
美智子はそう言った。
直人は、白いチョークを取った。
作業場の床に、線を引く。
材料が通る線。
加工品が通る線。
納品箱が通る線。
田端商会が荷を置く場所。
検査台へ持っていく線。
クロフィックスの箱を組む場所。
北河の部品を十組ずつ置く場所。
吉岡メッキへ出す前の置き場。
南田板金から戻る曲げ品の置き場。
線を引くほど、分かった。
足りない。
機械が足りないのではない。
人手が足りないだけでもない。
空間が足りない。
森川がチョークの線を見下ろして言った。
「ここに箱を置いたら、材料が通れませんな」
宮田が別の線を指した。
「ここに北河の十組を置くと、田端さんの荷が置けません」
佐野真紀は、事務所側から見ていた。
「クロフィックスの組立と、北河の外注戻りを同じ台で扱うのは危ないです」
美智子が頷く。
「売る箱と、客先の品物を同じ台で扱うのはあかんね」
直人は床の線を見た。
黒瀬精機は、今まで一つの工場で全部を飲み込んできた。
削る。
測る。
拭く。
箱に入れる。
札を付ける。
相談を受ける。
説明紙を作る。
標準セットを組む。
個別案件を管理する。
できていた。
だから、できると思ってしまう。
それが危ない。
できているように見える時ほど、どこかに無理が溜まる。
ちょうど昼前、田端商会の田端が納品に来た。
軽トラックの荷台から箱を下ろし、入口で足を止める。
「黒瀬さん、今日は床に落書きですか」
森川が笑った。
「落書きやなくて、命綱ですわ」
田端は、作業場の線を見てすぐに顔を変えた。
「荷の通り道を見てるんですか」
「そう」
直人は答えた。
「北河の仕事とクロフィックスが増えると、通路が足りません」
田端は入口から中を見た。
そして、はっきり言った。
「このまま増やしたら、荷を置く人間が勝手に場所を作ります」
宮田が聞き返す。
「勝手に場所を作る?」
「空いてるように見えるところへ置くんです」
田端は足元を指した。
「通路の端。機械の横。検査台の下。入口の脇。そういうところへ置き始める。最初は一箱だけ。そのうち、そこが置き場になります」
直人は頷いた。
前の人生でも見た。
誰も決めていない場所が、いつの間にか置き場になる。
そして事故が起きる。
田端は続けた。
「荷は、置き場がなかったら必ず通路に出ます。通路に出た荷は、いつか蹴られるか、落とされるか、間違えて積まれます」
森川が低く言う。
「耳が痛いですな」
「うちも同じです」
田端は苦笑した。
「運送屋は、通路が詰まると全部詰まります」
美智子が、田端を見る。
「田端さん、近くで小さな倉庫か空き場、知りませんか」
田端は少し考えた。
「前から空いてるのは知ってました。ただ、機械を入れるには狭いし、音も出せん。物を分けて置くくらいなら、使えるかもしれません」
「どこですか」
「うちの裏の長屋工場に、一部屋空いてます。前は金型屋が使ってましたけど、今は棚だけ残ってる。広くはないです。六坪くらい」
六坪。
大きくはない。
だが、クロフィックスの空箱、説明紙、完成品、保留品を分けるには十分かもしれない。
直人はすぐに飛びつかなかった。
「家賃は」
「大家に聞かな分かりません。ただ、機械を入れへんなら安くなるかもしれません。電気も最小で済むでしょうし」
美智子は台帳へ書いた。
田端商会裏。
長屋工場一室。
約六坪。
棚あり。
機械なし。
家賃確認。
直人は、その文字を見た。
場所を借りる。
それは、単なる片づけではない。
固定費が増える。
鍵が増える。
管理が増える。
だが、今のまま通路に置き続ければ、見えない費用が増える。
落下。
取り違え。
納品遅れ。
信用低下。
それらは台帳に載る前に、会社を削る。
隆夫が言った。
「見に行こう」
午後一番で、直人、隆夫、美智子、田端の四人は、田端商会の裏へ回った。
長屋工場の一室は、シャッターを開けると埃の匂いがした。
中には古い木棚が二つ。
壁際に作業台が一つ。
床は油で黒ずんでいるが、乾いている。
機械はない。
奥に小さな蛍光灯。
窓は一つ。
広いとは言えない。
だが、黒瀬精機の通路よりは広かった。
隆夫は床を見た。
「重いもんは置けんな」
「置きません」
直人は答えた。
「クロフィックスの空箱、完成箱、説明紙、補充札。北河の部品は置かない。客先の品物も置かない」
美智子がすぐに言った。
「そこを先に決める」
田端が笑う。
「借りる前から、使わないものを決めるんですね」
「決めます」
美智子は答えた。
「決めないと、何でも入ります」
直人は、部屋の中を歩いた。
ここをクロフィックスの組立と保管の場所にする。
黒瀬精機本体には、加工品と客先の品物を残す。
北河の部品は、本体工場の中で十組単位に分ける。
クロフィックス標準セットは、ここで箱にする。
完成品は番号順に置く。
保留品は赤札で別棚。
出荷可は白札。
補充札は封筒棚。
説明紙の原本は黒瀬本体。
コピー配布分だけこちら。
頭の中に、線が引かれていく。
未来の倉庫管理システムなど、ここにはない。
バーコードもない。
棚番を読み取る端末もない。
だが、棚に番号を振ることはできる。
置くものを決めることはできる。
出してはいけないものを分けることはできる。
それで十分だ。
今の黒瀬精機に必要なのは、背伸びではない。
通路を守る場所だ。
大家との話は、田端がその場でつないでくれた。
家賃は、思ったより安かった。
ただし、修繕は大きなもの以外は借り手持ち。
棚は使ってよい。
水は出ない。
火気厳禁。
夜間の作業はしない。
美智子は一つずつ確認した。
「契約は月ぎめですか」
「そうです」
「最初は三か月で見直せますか」
「ええですよ。長く空いてましたから」
「鍵は何本ですか」
「二本」
「合鍵は勝手に作らない。鍵の番号を控えます」
大家は少し驚いた顔をしたが、頷いた。
その場で本契約まではしない。
まず三か月、クロフィックス用の保管と組立だけに使う。
家賃。
鍵。
修繕範囲。
火気厳禁。
夜間作業なし。
置いてよいもの。
置いてはいけないもの。
その条件を書き出し、正式な控えは翌日取り交わすことにした。
隆夫は直人を見た。
「どう思う」
直人は、すぐには答えなかった。
通路を守るために家賃を払う。
前の人生の若い自分なら、無駄だと思ったかもしれない。
棚くらい詰めればいい。
箱くらい重ねればいい。
通路くらい少し狭くてもいい。
そうやって、見えない危険を貯めていく。
だが、五十一歳の直人は知っている。
通路は利益を生まないように見える。
けれど、通路が死ぬと、工場は死ぬ。
「使いたいです」
直人は言った。
「ただし、クロフィックス用の保管と組立だけです。北河の部品は置きません。客先品も置きません。ここを便利な物置にしたら負けです」
隆夫は頷いた。
「ええやろ」
美智子が台帳を閉じた。
「家賃は固定費。三か月見て、売上と手間と事故防止に合うか確認する」
田端が言った。
「荷の出入りは、うちの表をふさがんようにしてくださいよ」
「そこも決めます」
直人は答えた。
「出荷日は火曜と金曜を基本。急ぎは本体工場から。ここは溜め場にしない」
その日の夕方、黒瀬精機へ戻ると、宮田と健太が待っていた。
健太は午後だけの手伝いに来ていた。
出荷保留の二箱に付いた赤札を、じっと見ている。
直人は二人に言った。
「クロフィックス用の場所を使わせてもらうことにした」
宮田の目が丸くなる。
「場所ですか」
「田端さんの裏の長屋工場。一室だけや。まず三か月だけ、使い方を決めて試す」
健太が聞いた。
「そこでも作るんですか」
「作る。ただし、機械は置かない。箱を組む場所や。札と説明紙と完成箱を置く場所」
宮田は作業場を見た。
細くなった通路。
空箱。
保留箱。
材料の線。
それを見て、すぐに納得した顔になった。
「ここで全部やると、危ないです」
「そう」
直人は頷いた。
「仕事が増えたから、人を急に増やすんやない。まず、通る場所と置く場所を分ける」
健太がぽつりと言った。
「工場って、機械だけじゃないんですね」
森川が笑った。
「今さら気づいたか」
「はい」
健太は真面目に頷いた。
「置く場所も、工場なんですね」
その言葉に、直人は少しだけ胸を突かれた。
置く場所も、工場。
その通りだった。
美智子はすぐに新しい紙を出した。
クロフィックス保管室使用ルール。
一つ目。
クロフィックス標準セットの空箱、完成箱、補充札、配布用説明紙だけを置く。
二つ目。
客先から預かった品物は置かない。
三つ目。
北河電機の部品は置かない。
四つ目。
保留品は赤札棚。
五つ目。
出荷可は白札棚。
六つ目。
鍵の持ち出し記録を付ける。
七つ目。
出荷日は火曜と金曜を基本。
佐野がそれを見て言った。
「棚番も要ります」
宮田がすぐに反応した。
「棚番?」
「棚に番号を付けます。上から一、二、三。左からA、B、C。どこに何があるか、台帳で戻れるようにします」
健太が、少し目を輝かせた。
「宝探しみたいですね」
「宝探しになったら失敗です」
佐野は真顔で言った。
「探さないために番号を付けます」
森川が声を出して笑った。
「佐野さん、きついなあ」
「探す時間は、仕事を食べます」
美智子が頷く。
「その通り」
直人は、そのやり取りを見ていた。
黒瀬精機は、少しずつ変わっている。
前は、機械を置けば工場だった。
今は、通路を守り、棚に番号を振り、出さないものを決める。
それも工場になっている。
その場で、南田板金へ電話を入れた。
隆夫が話す。
「北河の二十組、十組ずつで流したい。曲げの戻り、三週間の中で見られるか」
電話の向こうで、南田が少し考えているようだった。
隆夫は、急かさなかった。
「無理なら無理でええ。月五十へ行く前の初回や。詰めて失敗する方が困る」
しばらくして、隆夫は頷いた。
「分かった。十組ずつ、日を分ける。図面と確認表は明日持っていく」
次に、吉岡メッキへ電話を入れる。
直人が代わった。
「吉岡さん、北河の初回二十組が動きます。十組ずつで処理をお願いしたいです。前と同じく、処理後に削らない前提。戻り日を先に決めたいです」
吉岡の返事は短かった。
「十組ずつなら見られる。急に二十持ってくるな」
「持っていきません」
「ならええ」
電話が切れた。
森川が笑った。
「吉岡さんらしいですな」
「分かりやすい」
直人は答えた。
最後に、田端商会へ確認する。
出荷日は火曜と金曜へ寄せる。
北河の十組単位の動きと、クロフィックス標準セットの出荷を混ぜない。
田端は、少し笑って言った。
「やっぱり通路の話になりましたな」
「なりました」
「火曜と金曜なら見ます。ただし、急ぎを全部そこへ押し込まんといてくださいよ」
「そこも分けます」
電話を切ったあと、直人は美智子に頷いた。
「外注先の日程確認は取れました。初回二十組、受けられます」
美智子が台帳へ書いた。
南田板金。
十組ずつ日程確認。
吉岡メッキ。
十組ずつ処理可。
田端商会。
火曜・金曜出荷確認。
北河初回二十組。
外注日程確認済み。
夜、北河電機へ電話を入れた。
佐伯が出た。
「黒瀬です。初回二十組、受けます」
「ありがとうございます」
「ただし、納期は三週間後のまま。十組ずつ分納。外注戻りの置き場と検査日をこちらで指定します。月五十組へ移る前に、一か月目の流れを確認させてください」
「分かりました。条件はその形でお願いします」
「それと、黒瀬側でクロフィックス標準品の保管場所を分けます。北河さんの部品と標準商品を混ぜないためです」
佐伯は、少し黙った。
「そこまで分けるんですね」
「はい。混ぜたくないので」
「分かりました。購買側にも説明しやすいです」
電話を切る。
美智子が台帳に書いた。
北河初回二十組、受注。
十組ずつ分納。
外注日程確認済み。
置き場確認済み。
クロフィックス保管室、三か月試用。
正式控えは翌日。
直人は、その文字を見た。
今日は、大きな機械を買ったわけではない。
新しい職人を雇ったわけでもない。
派手な契約を結んだわけでもない。
ただ、通路を守るために、六坪の場所を使う段取りをした。
それだけだ。
だが、黒瀬精機にとっては大きな一歩だった。
通路には値段がある。
置き場にも値段がある。
そして、事故が起きてから払う値段は、いつも高い。
直人は、作業場の床に残ったチョークの線を見た。
白い線は、まだ消えていない。
材料が通る線。
人が通る線。
荷が通る線。
未来は、その線の上を通ってくる。
ならば、まず通れるようにしておかなければならない。
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