第127話 棚の前の試験

 販売店説明会の日、黒瀬精機の朝はいつもより早く動いた。


 作業台には、クロフィックス標準セットが六箱並んでいる。


 KFX-S-012からKFX-S-017。


 すぐにでも東和工具へ渡せるように見える。


 けれど、美智子はその箱の横に赤鉛筆で一本線を引いた。


 販売店説明会後に出荷。


 その線がある限り、六箱はまだ外へ出せない。


 直人は、台帳の文字を見て頷いた。


 作っただけでは、商品ではない。


 売り場の手が整って初めて、箱は外へ出られる。


 佐野真紀は、パソコンで打った販売店用説明紙の原本を確認していた。


 原本は一枚。


 説明会で使う数枚だけなら、黒瀬精機のプリンターで足りる。


 何十枚、何百枚と配る時はコピーに回す。


 その線引きも、パソコンを入れた時に決めた使い方の一つだった。


 パソコンは、何十枚も刷るための機械ではない。


 同じ言葉を作るための機械だ。


 その考え方は、黒瀬精機の中で少しずつ当たり前になり始めていた。


 宮田悟は、六箱の中身を一つずつ声に出して確認している。


「標準札六種類。白紙札十枚。仕切り板二枚。油紙一枚。説明紙R1。値札。確認済み」


 村井健太は、その横で聞いていた。


 今日は作業ではなく、出荷前の確認を見に来ている。


 説明会へは連れていかない。


 まだ黒瀬精機の外で、商品を売る場に立つ段階ではないからだ。


 機械は触らない。


 箱も勝手には開けない。


 それでも、健太の目は真剣だった。


 宮田が最後の箱を閉じる。


「六箱、確認終わりました」


 美智子が台帳に時刻を書いた。


 直人は、箱を見た。


 これを持っていけば、六箱分の売上になる。


 だが、今日の目的は売上ではない。


 売る人を試す日だ。


 午前十時。


 野口工具店の店先には、いつもと少し違う空気があった。


 店の棚には、工具、刃物、軍手、切削油、測定器の小物が並んでいる。


 その一角に、クロフィックス標準セットの棚がある。


 棚札には、野口の字でこう書かれていた。


 現場の混ざり止め箱。黒瀬精機。


 直人は、その文字を見て少しだけ笑った。


 パソコンで打ったきれいな文字ではない。


 だが、これは野口の店の言葉だった。


 それでいい。


 売り場には、売り場の声がある。


 東和工具商会の平井は、すでに来ていた。


 その横に、三人の男が立っている。


 西田工具店の西田。


 河内工業用品の河内。


 布施機材商会の布施。


 三人とも店主だと聞いていたが、布施だけは少し様子が違った。


 忙しそうに腕時計を見ている。


 平井が場を整えるように言った。


「今日は、黒瀬さんと野口さんから、クロフィックスの売り方を聞きます。箱の説明だけやありません。どんな客に売って、どんな客を止めるか。その話です」


 西田が笑った。


「工具の説明会で、売らん話から入るんですか」


 野口がすぐに言った。


「そこが肝や」


 西田の笑いが止まる。


 野口は棚からクロフィックス標準セットを一つ取った。


「これは、何でも解決する箱やない。現場で部品や札が混ざらんようにするための入口や。熱いとこ、油まみれのとこ、水がかかるとこ、薬品の近くでは使わせたらあかん」


 河内が頷いた。


「保全の現場やと、油は多いですね」


「油が少し付くくらいなら、場所による。けど、油槽の横や、拭いてもすぐ汚れるところはあかん」


 野口は説明紙を見ずに言った。


 直人は、それを聞いていた。


 野口は、ただ紙を読んでいるのではない。


 一か月の間に、自分の言葉にしている。


 佐野が小さく頷いた。


 平井もそれに気づいたようだった。


 布施が腕を組む。


「うちはメッキ屋や研磨屋の客が多いんです。そういうところなら、むしろ必要やと思うんですが」


「必要なことは多いです」


 直人は答えた。


「でも、標準セットで済むかどうかは別です」


 布施の眉が少し動いた。


「メッキ屋に売ったらあかんのですか」


「売ったらあかん、ではありません」


 直人は言った。


「薬品がかからない出荷前の保管棚なら使えるかもしれません。検査台なら使えるかもしれません。でも、前処理槽の近くや、水洗い場の横で使うなら別です。そこは標準セットではなく、個別相談です」


 西田が説明紙を見た。


「つまり、客が『うちはメッキやから欲しい』と言ったら、そのまま売ったら危ない?」


「はい」


 佐野が答えた。


「どこで使うかを聞いてください」


 河内が腕を組む。


「面倒やな」


「面倒です」


 野口が即答した。


「でもな、その一言を聞かんと、あとで『黒瀬の箱は使えん』になる。箱が悪いんやなくて、置く場所が悪いのに、悪い評判は箱に付く」


 河内は少し黙った。


 その言葉は、店の人間には効いたようだった。


 売るだけなら簡単だ。


 評判が戻ってくるのは、売った店だ。


 そこへ、一人の客が入ってきた。


 野口工具店の常連らしい男だった。


「野口さん、あの混ざり止めの箱、まだある?」


 野口は、ちらりと直人を見た。


 直人は何も言わなかった。


 これ以上ない実演の機会だった。


「あるで。どこで使うんや」


「トラックの荷台に置いといて、現場ごとに部品分けたいねん」


 野口はすぐに首を横に振った。


「それはやめとき」


 客が驚く。


「なんでや。箱やろ」


「雨がかかる。荷台で揺れる。紙札も読めんようになる。これは工場の中で分ける箱や。トラックの荷台用とは違う」


「ほな、あかんのか」


「あかん使い方やな。どうしても荷台で分けたいなら、別の箱を考えた方がええ。黒瀬さんに相談するなら相談やけど、これはそのまま売らん」


 客は少し不満そうだったが、野口の言葉には逆らわなかった。


「ほな、また考えてくるわ」


「そうし」


 客が出ていく。


 店の中が、少し静かになった。


 西田がぽつりと言った。


「今の、売れたんちゃいますか」


「売れましたな」


 野口は平然と答えた。


「でも、売ったらあかんやつですわ」


 平井が小さく笑う。


「これを見せたかったんですね」


 佐野が言った。


「はい。説明紙に書いてあることは、こういう場面で使うためです」


 河内は腕を組んだまま、棚を見ている。


「うちの客にも似たようなのがおるな。『とりあえず使う』って言う人」


「その人に、とりあえず売らないでください」


 直人は言った。


「使う場所を聞いてください。標準でいけるなら売る。危ないなら止める。個別相談なら黒瀬へ戻す。それができる店にだけ出したいんです」


 布施が、少し苛立った声を出した。


「しかし、それでは店頭で時間を取られます。うちの店は客数もありますし、いつも店主が立っているわけではありません。若い者に渡しておけばいいと思っていました」


 平井の顔が少し固まった。


「布施さん」


「いや、正直な話です」


 布施は続けた。


「箱と札なら、見れば分かります。説明紙も付いている。そこまで店主が全部聞く必要がありますか」


 野口の顔から笑みが消えた。


 直人は、布施を見た。


 ここで曖昧にすると、全部が崩れる。


「必要があります」


 直人は言った。


 声は大きくない。


 だが、店の中ではっきり通った。


「少なくとも最初は、説明できる人が棚の前に立つ必要があります。若い人に任せるなら、その人が今日の内容を聞いて、標準と個別の違いを分かってからです」


 布施は黙った。


 直人は続けた。


「布施さんの店は、メッキと研磨の客が多いと聞いています。つまり、標準で使える場所と使えない場所の境目が多い店です。そこで説明できないなら、今回は出せません」


 平井が息を呑んだ。


 六箱のうち二箱。


 数字だけなら小さい。


 だが、東和工具が選んできた三店の一つを、ここで止める。


 それは、平井の顔にも関わる話だった。


 美智子が、静かに台帳を開いた。


 布施機材商会。


 出荷保留。


 理由。


 説明者未確認。


 薬品・水場客層多し。


 再説明後判断。


 布施はその文字を見て、少し顔を赤くした。


「そこまで書かれるんですか」


「書きます」


 美智子は答えた。


「出さなかった理由を残さないと、あとで分からなくなります」


 平井が、布施に向き直った。


「布施さん、ここは一度持ち帰りましょう。若い人を連れて、もう一度聞いてもらう。それで出してもらう形でどうですか」


 布施は、すぐには返事をしなかった。


 西田が横から言った。


「うちは欲しいですね」


 布施が西田を見る。


 西田は肩をすくめた。


「プレス屋も板金屋も、部品の取り違えでよう揉めます。ただ、店で一言聞くくらいならできます。使う場所を聞け、ということなら分かりやすい」


 河内も頷いた。


「うちも二箱なら置けます。保全の客には、むしろ止める話からした方が信用されるかもしれん」


 布施は、しばらく黙ってから息を吐いた。


「分かりました。今回は保留で結構です。うちの若い者を連れて、改めて聞きます」


 直人は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「売らないのに礼を言われるとは思いませんでした」


「売らない判断をしてもらえたので」


 布施は、苦笑した。


「変な商売ですね」


 野口がそこで笑った。


「変やけど、現場向きや」


 説明会は、その後も続いた。


 標準セットを売ってよい例。


 作業台の上で、分解した部品を工程ごとに分ける。


 検査待ちと確認済みを分ける。


 出荷前の保管棚で、部品と札を一緒に置く。


 標準セットでは止める例。


 屋外。


 油槽の横。


 薬品がかかる場所。


 水洗い場。


 高温部の近く。


 トラックの荷台。


 文字が読めなくなる場所。


 西田は途中から、説明紙の余白に自分の店の客を思い浮かべて書き込んでいた。


 河内は、保全担当者に聞く質問を三つに絞った。


 どこで使うか。


 油や水はかかるか。


 誰が札を見るか。


 布施は黙って聞いていたが、最後には自分から言った。


「メッキ屋には、標準で使える棚と、使わせたらあかん場所を先に聞く必要がありますね」


「はい」


 佐野が答えた。


「それを聞ける人が棚に立つなら、出せます」


 布施は頷いた。


「次は、うちの若い者を連れてきます」


 その言葉で、平井の顔から少し力が抜けた。


 昼前、説明会は終わった。


 野口工具店の奥で、出荷する箱を分ける。


 ただし、出荷控えの宛先は東和工具商会。


 各店への納品は、平井が持ち帰って回す形にした。


 西田工具店へ二箱。


 KFX-S-012、KFX-S-013。


 河内工業用品へ二箱。


 KFX-S-014、KFX-S-015。


 布施機材商会向けの二箱。


 KFX-S-016、KFX-S-017。


 出荷保留。


 黒瀬精機へ持ち帰り。


 その二箱には、宮田が黒瀬へ戻ってから赤い仮札を付けることになった。


 出荷保留。


 説明者再確認待ち。


 平井は、控えを見ながら言った。


「正直、三店全部いけると思ってました」


「私も、できればそうしたかったです」


 直人は答えた。


「でも、今日の布施さんの客層なら、説明できないまま置く方が危ないです」


 平井は苦笑した。


「卸としては、二箱減りました」


 美智子が台帳から顔を上げる。


「信用としては、二箱守りました」


 その一言で、平井は黙った。


 そして、深く頷いた。


「そう考えます」


 野口が横から言った。


「平井さん、これを面倒と思うなら、やめといた方がええで」


「面倒です」


 平井は正直に言った。


「でも、面白いです。普通の商品なら、棚を増やせば売上が増える。これは、棚を増やす前に店を選ばなあかん」


「店も試される」


 野口が言う。


「そうです」


 平井は笑った。


「卸も試されますわ」


 黒瀬精機へ戻ると、午後になっていた。


 工場では、隆夫と森川が通常仕事を進めていた。


 健太は父の正則に連れられて、予定通り午後から来ていた。


 説明会には行っていない。


 だが、出荷前に見ていた六箱のうち、二箱が戻ってきたことにはすぐ気づいた。


「出さなかったんですか」


 健太が聞いた。


 宮田は、KFX-S-016とKFX-S-017に赤い仮札を付けながら答えた。


「出さなかった」


「何か間違いがあったんですか」


「箱の中身は間違ってない」


 宮田は、赤い札に文字を書いた。


 出荷保留。


 説明者再確認待ち。


「でも、売る店の準備がまだやった」


 健太は、その札をじっと見た。


「作ったのに、出さないんですね」


「出さないことも仕事や」


 宮田が答えた。


 健太は少し考えてから頷いた。


「間違って出したら、作った意味がなくなるからですか」


「そう」


 宮田は言った。


「箱を作るだけやったら、そこで終わりやけど、これは使ってもらうところまで仕事なんやと思う」


 直人は、その会話を聞いていた。


 健太だけではない。


 宮田も、前へ進んでいる。


 美智子はすぐに台帳を開いた。


 販売店説明会実施。


 西田工具店。


 出荷可。


 KFX-S-012、013。


 河内工業用品。


 出荷可。


 KFX-S-014、015。


 布施機材商会。


 出荷保留。


 KFX-S-016、017。


 理由、説明者未確認。


 次回、若手同席で再説明。


 東和工具扱い。


 平井持ち回り。


 佐野は、その控えを見ながら言った。


「東和工具扱いにしておけば、各店へ直接売った形にはなりません。番号の戻り先も平井さんで一本化できます」


「一本化」


 宮田が繰り返す。


「はい」


 佐野は頷いた。


「広げる時ほど、戻る道を一つ決めた方がいいです」


 森川が作業場から低く笑った。


「売り場にも帰り道が要るんやな」


「要ります」


 佐野は真顔で答えた。


「戻れない商品は、迷子になります」


 その日の夕方、黒瀬精機の作業台には、二箱だけが残っていた。


 KFX-S-016。


 KFX-S-017。


 出荷できなかった箱。


 だが、失敗ではない。


 直人は、その二箱を見ていた。


 前の人生なら、売れる時に売れと考えたかもしれない。


 特に苦しい会社なら、目の前の売上を逃すのは怖い。


 けれど、黒瀬精機は今、その段階から一歩だけ外へ出ようとしている。


 売上を作るだけでは、会社は残らない。


 信用の戻り道を作らなければ、商品は続かない。


 美智子は台帳の最後に一行を書いた。


 出さなかった二箱も、今日の仕事。


 森川がそれを見て、低く笑った。


「売れ残りやないんですな」


「違う」


 直人は答えた。


「守った在庫や」


 隆夫が頷く。


「守った在庫か。ええ言葉やな」


 宮田が赤い仮札をもう一度見た。


 健太もその横で見ていた。


 二人とも、出せなかった箱を失敗とは見ていない。


 それが、直人には嬉しかった。


 黒瀬精機は今日、二箱を売らなかった。


 その代わりに、売ってよい場所と、まだ早い場所を分けた。


 棚の前にも、試験がある。


 箱を買う客だけではない。


 箱を売る店も、試験を受ける。


 クロフィックスは、ただの保管箱から、少しずつ仕組みへ変わっていく。


 その仕組みを雑に広げれば、早く壊れる。


 ゆっくり選べば、遠くまで行ける。


 直人は、出荷保留の二箱を見ながら思った。


 未来を作るのは、売れた数だけではない。


 売らなかった理由を残せる会社が、次の売り場を選べる。


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