第124話 売り場の札

 翌朝、黒瀬精機はいつもより早く動き始めた。


 理由は、北河電機でも、浜野熱処理でもない。


 野口工具店の棚だった。


 美智子は、差し替え用の説明紙を三種類に分けて机へ並べている。


 クロフィックス標準セット用。


 正規補充札用。


 野口工具店の販売控え用。


 佐野真紀は、九時の勤務開始と同時に、その三つを見比べた。


「説明紙の上に、見出しが要ります」


「見出し?」


 宮田悟が聞き返す。


「はい。標準セットなのか、補充札なのか、個別相談なのか。最初に分からないと、売り場で混ざります」


 直人は、作業台の上に置かれたクロフィックスの箱を見た。


 標準セット。


 補充札。


 個別相談。


 黒瀬精機の中では分かれている。


 だが、野口工具店の棚では、ただの商品に見える。


 客は、急いで来る。


 刃物を買うついでに見る。


 油まみれの手で箱を持つ。


 野口に「これ何や」と聞く。


 その時に、三つの違いが一目で分からなければ、また混ざる。


「売り場にも札が要るな」


 直人が言うと、森川修一が旋盤の前から笑った。


「とうとう売り場にまで札ですか」


「要る」


 美智子が即答した。


「売り場で間違えたら、現場へ間違ったまま届く」


 佐野は、すぐに厚紙を一枚出した。


 クロフィックス標準セット。


 まず始める箱です。


 現場内の一時保管、作業台、保管棚用。


 熱、油、水、薬品の近くでは使えません。


 個別の工程管理、客先提出、請求条件には使えません。


 必要な場合は黒瀬精機へ相談。


 佐野は書きながら、一度手を止めた。


「短くしないと、野口さんの棚では読まれません」


「もっと短く」


 直人は言った。


 佐野は、別の紙に書き直した。


 まず分けるための箱。


 熱・油・水・薬品の近くでは使えません。


 困ったら黒瀬へ。


 森川が作業場から口を出す。


「それくらいなら読めますな」


「野口さんも言えそう」


 宮田が頷いた。


 直人は、その言葉を拾った。


 売り場の説明は、客だけのためではない。


 野口が言えるための言葉でもある。


 野口工具店は、黒瀬精機の営業所ではない。


 野口が毎回長い説明をするわけにはいかない。


 だから、野口が一言で言える形にしなければならない。


 昼前、直人と宮田は、クロフィックス標準セット二箱、正規補充札の試験品三束、差し替え説明紙、それに売り場用の小さな札を持って野口工具店へ向かった。


 森川は通常加工から離れない。


 隆夫は高田包装の部品を見る。


 美智子と佐野は、台帳と販売控えを整える。


 黒瀬式が外へ出る時でも、黒瀬精機の機械は止めない。


 その線は、もう決めていた。


 野口工具店は、朝から客が出入りしていた。


 入り口近くに、軍手、油差し、ヤスリ、切削油の小瓶が並んでいる。


 奥には刃物と測定具。


 レジ横には、昨日置いたクロフィックスの空き棚があった。


 棚札には、野口の太い字でこう書かれていた。


 現場の混ざり止め箱。


 黒瀬精機。


 直人は思わず笑いそうになった。


「野口さん、これ」


「分かりやすいやろ」


 野口は得意げだった。


「クロフィックス言うても、知らん客は分からん。混ざり止め箱言うたら、だいたい足を止める」


 直人は頷いた。


 確かに、正しい。


 名前を育てるには時間がかかる。


 だが、現場の困りごとは一言で刺さる。


「それ、残しましょう」


「ええんか」


「はい。下にクロフィックスと入れてください」


 宮田が持ってきた売り場札を出した。


 まず分けるための箱。


 熱・油・水・薬品の近くでは使えません。


 困ったら黒瀬へ。


 野口はそれを読んで、口を曲げた。


「使えません、が目立つな」


「目立たせます」


 直人は言った。


「使える場所だけ書くと、何にでも使われます」


「まあ、昨日の焼き入れ屋の話を聞いたらな」


 野口は棚の一番前に売り場札を差した。


 その時、店の奥から男が声をかけた。


「野口さん、それ、例の黒瀬さんの箱か」


 四十代くらいの男だった。


 作業服の胸に「東和工具商会」と刺繍がある。


 野口が紹介する。


「こちら、東和工具の平井さん。工具の卸もやってる人や」


 平井は直人と宮田を見た。


「黒瀬精機さんか。これ、うちでも扱えませんか」


 宮田の顔が少し明るくなった。


 だが、直人はすぐには答えなかった。


 卸。


 つまり、野口工具店だけではなく、別の店にも並ぶかもしれない。


 それは大きな話だ。


 同時に、危ない話でもある。


 野口が苦笑した。


「平井さん、いきなりやな」


「いや、こういう小物は、うちの得意先にも欲しいところあると思うんですわ。標準箱、十箱くらいならすぐ出ませんか」


 十箱。


 昨日は三箱を作るだけで、健太まで呼んだ。


 直人は、作業台の流れを思い出した。


 確認皿。


 札の配置。


 箱詰め者。


 確認者。


 番号台帳。


 まだ、小さな一箱ずつの仕事だ。


 十箱を卸へ出すには、作る場所も、説明も、販売控えも足りない。


「今すぐ十箱は出せません」


 直人は答えた。


 平井は少し意外そうな顔をした。


「売れるかもしれんのに?」


「売れるかもしれないからです」


 野口が笑った。


「黒瀬さんらしいわ」


 平井は腕を組む。


「どういう意味ですか」


「中身を間違えたら、商品ではなくなります。使い方が伝わらなければ、事故の元になります。野口さんの店では、野口さんが一言説明してくれます。でも、卸で広げるなら、誰がどう売るかまで決めないといけません」


 平井は少し黙った。


 怒ってはいない。


 ただ、急に面倒な話になった顔だった。


「それなら、黒瀬さんの名前を外して、うちの店用に簡単な箱として出すことは?」


 宮田が、息を止めた。


 野口の顔も変わった。


 直人は、平井を見た。


 悪気はないのだろう。


 卸なら、よくある考えだ。


 仕入れて、自分の店のものとして売る。


 名前を外せば責任も曖昧にできる。


 だが、それはできない。


「名前を外すなら、出しません」


 直人は言った。


 平井の眉が上がる。


「なぜです」


「この箱は、ただの箱ではありません。札の言葉、説明紙、使える場所、使えない場所、番号台帳まで含めてクロフィックスです。名前を外して売られると、責任の線も消えます」


 平井は、棚の箱を見た。


「黒瀬さん、若いのに強いな」


「強いわけではありません」


 直人は首を振った。


「弱い工場なので、線を消せません」


 野口が、そこで小さく笑った。


「それ、ええな。弱いから線を消せん」


 平井も、少しだけ表情を緩めた。


「では、どうしたら扱えます」


 直人は、宮田を見る。


 宮田は、持ってきた販売控えをぎゅっと握っていた。


 直人は言った。


「まず、野口工具店での販売をしばらく見ます。どんな客が買うか。どう使うか。補充札がどれだけ出るか。説明紙の差し替えがどれだけ必要か。それを見てから、卸用の条件を作ります」


「いつ頃です」


「一か月後です」


 平井は苦笑した。


「遅いな」


「早く広げて間違えるよりは、遅い方がましです」


 平井は黙って棚札を見た。


 混ざり止め箱。


 熱・油・水・薬品の近くでは使えません。


 困ったら黒瀬へ。


「では、一か月後にまた話しましょう。ただし、その時は卸掛け率の話もしますよ」


「分かりました」


「それなら、少量だけでも先に扱えませんか」


「それも一か月後です」


 平井は声を出して笑った。


「徹底してますな」


「ここで崩すと、野口さんにも迷惑がかかります」


 野口は少しだけ真面目な顔で頷いた。


「うちも、売った責任あるからな」


 平井は名刺を一枚置いた。


「では、東和工具の平井です。黒瀬さん、一か月後、忘れんといてください」


 直人は名刺を受け取った。


「こちらこそ、お願いします」


 平井が店を出た後、宮田が小さく息を吐いた。


「十箱、断るの怖かったです」


「俺も怖かった」


 直人は正直に言った。


 野口が棚にクロフィックスを並べながら言う。


「でも、断ってくれて助かったかもしれん」


「助かった?」


「いきなり卸に広がったら、うちも説明できん客から文句が戻ってくる。まず、うちで売り方を固めた方がええ」


 野口は、一箱を手に取り、売り場札の横に置いた。


「黒瀬さん、これはな、売り場が勝手に育てる商品やない。店も一緒に育てなあかん商品や」


 直人は、その言葉を聞いて胸の奥が熱くなった。


 売り場が勝手に育てるのではない。


 店も一緒に育てる。


 これは、未来の販売チャネルそのものだった。


 ただ卸す。


 ただ置く。


 ただ売る。


 それでは終わらない。


 現場の困りごとを拾える店で、説明できる人と一緒に売る。


 クロフィックスは、そういう売り方をしなければならない。


 黒瀬精機へ戻ると、佐野はまだ勤務時間内だった。


 直人が名刺を置くと、すぐに販売控えの横へ新しい欄を作った。


 卸問い合わせ。


 東和工具商会。


 平井。


 一か月後再相談。


 当面、野口工具店のみ。


 卸不可。


 理由。


 説明体制未整備。


 品質確認未安定。


 補充札運用未確認。


 佐野は、最後にこう書いた。


 販売先を増やす前に、売り方を固める。


 美智子がそれを見て頷いた。


「ええね」


 森川が作業場から戻ってきて、名刺を覗いた。


「卸さんまで来たんですか」


「来た」


 直人は答えた。


「十箱欲しいって」


「出すんですか」


「出さない」


 森川は、少し驚いたように見てから、笑った。


「売れるのに売らんのか」


「売れる形がまだない」


 美智子が言った。


「作れる形も、売れる形も、まだ野口さんの棚一つ分や」


 森川は納得したように頷いた。


「刃物を押しすぎん話に似てますな」


「何でもそこに戻るね」


 宮田が少し笑った。


 その日の夕方、野口工具店から電話が入った。


 美智子が受ける。


「はい。……はい、野口さん。……一箱売れた? 今度はメッキ屋さん。……はい、説明紙は渡した。熱と油は駄目と言うた。……ありがとうございます」


 受話器を置くと、美智子が台帳へ書いた。


 KFX-S-004。


 野口工具店。


 販売済。


 購入者、メッキ業。


 説明紙渡し済み。


 使用不可場所説明済み。


 宮田がそれを見て言った。


「野口さん、ちゃんと説明してくれてますね」


「だから売れる」


 直人は言った。


「箱だけなら、たぶんここまで残らない」


 佐野はもう退勤していた。


 美智子が、佐野の書いた欄を見ながら赤鉛筆で一行足した。


 売り場も、商品の一部。


 直人は、その文字を見た。


 商品は、作業台で完成しない。


 箱に入れても終わらない。


 棚に置いても終わらない。


 誰が、どの言葉で、どの客に渡すか。


 そこまで含めて、商品になる。


 黒瀬精機は、今日、十箱の話を断った。


 それは後退ではない。


 売り場を選んだのだ。


 小さく始めて、正しく広げるために。


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