第125話 打てる紙
平成八年。
震災から一年ほどが過ぎ、黒瀬精機の仕事も、町の空気も、少しずつ次の形へ移り始めていた。
野口工具店から戻った翌朝、黒瀬精機の机の上には、紙が積まれていた。
クロフィックス標準セットの説明紙。
正規補充札の説明紙。
野口工具店用の販売控え。
使用できる場所。
使用できない場所。
困った時の連絡先。
卸問い合わせの控え。
浜野熱処理で油を吸って波打った札の記録。
どれも必要な紙だった。
だが、どれも美智子か佐野真紀か宮田悟が、手で書いたものだった。
直人は、その紙の山を見ていた。
手書きの文字は、強い。
誰が書いたか分かる。
いつ書いたか分かる。
赤鉛筆の線には、その時の迷いまで残る。
けれど、同じ説明紙を十枚、二十枚と作るには向いていない。
書き写せば、どこかで字が変わる。
字が変われば、意味が少し動く。
意味が動けば、現場の手が迷う。
クロフィックスは、そこへ来ていた。
美智子が、説明紙を一枚ずつ見比べてため息をついた。
「同じことを書いてるつもりでも、少しずつ違うね」
佐野真紀は九時ちょうどに席へ着き、その紙を見た瞬間に言った。
「これ、手書きで増やすのは危ないです」
宮田が顔を上げる。
「コピーですか」
「コピーでもいいですが、元が毎回手書きなら、原本が揺れます」
佐野は淡々と答えた。
「標準説明紙は、原本を一つ決めた方がいいです」
森川修一が旋盤の前から口を挟んだ。
「また原本ですか」
「はい」
佐野は、いつものように表情を変えない。
「商品なら、説明も商品です」
その一言で、事務所が少し静かになった。
商品なら、説明も商品。
直人は、胸の中でその言葉を繰り返した。
クロフィックスは、箱と札だけではない。
説明紙がなければ、使えない場所まで伝わらない。
補充札だけでは、標準セットとの違いが伝わらない。
野口工具店で売るなら、野口が説明できる言葉がいる。
卸へ広げるなら、さらに揺れない言葉がいる。
手書きだけでは、もう追いつかない。
「パソコンを入れよう」
直人が言うと、美智子の赤鉛筆が止まった。
隆夫も奥から顔を上げる。
「ワープロやなくてか」
「うん。今から入れるなら、ワープロ専用機やなくてパソコンやと思う」
直人は答えた。
「文章だけならワープロでもええ。でも、クロフィックスはこれから説明紙、番号台帳、販売控え、補充札、個別案件の書式まで増える。あとで印刷屋や販売店へ渡すことも考えるなら、最初からパソコンにした方がええ」
宮田が少し興味を持った顔になる。
「一太郎とか、そういうやつですか」
「うん」
直人は頷いた。
「文書を打って、保存して、必要な分だけ印刷する。同じ紙を、同じ字で出せる」
森川がぼそっと言う。
「便利そうやけど、壊れたら終わりちゃいますか」
「だから、台帳は残す」
美智子が即答した。
その声で、場の流れが変わった。
美智子は、もう否定していなかった。
条件を探している顔だった。
「打った紙だけを信用したらあかん。黒瀬の控えと、台帳は残す。パソコンは、説明紙を揃えるための道具。そこを間違えたらあかんね」
直人は頷いた。
「うん。台帳は心臓。打った紙は口やと思う」
「口?」
宮田が聞く。
「外へ同じ言葉を出すための口」
直人は、クロフィックスの説明紙を指した。
「黒瀬の中で決めたことを、野口さんにも、浜野さんにも、これから買う人にも、同じ言葉で渡す。そのための道具や」
隆夫は、腕を組んだ。
「買うなら、何に使うかを先に決める」
美智子がすぐに白紙を出した。
パソコン導入目的。
一つ目。
クロフィックス標準説明紙。
二つ目。
正規補充札説明紙。
三つ目。
販売店用説明札。
四つ目。
標準チェック表。
五つ目。
客先提出用の清書。
佐野が、そこに付け足した。
ただし、見積判断、原価表、支払い台帳は手書き台帳を正とする。
「そこまで書くんですか」
宮田が聞く。
「書きます」
佐野は答えた。
「便利な機械を入れる時ほど、何に使わないかを決めないと危ないです」
美智子が頷く。
「黒瀬式と同じやね」
隆夫は少し笑った。
「機械を買う前から、機械に札を付けてるみたいやな」
森川が言った。
「それくらいでええんちゃいますか。便利なもんほど、みんなで取り合いになりますから」
午前の急ぎ分を区切ったあと、直人と美智子と佐野は、軽ワゴンで大阪の日本橋へ向かった。
黒瀬精機を空けるわけにはいかない。
隆夫と森川は工場に残る。
宮田は午前便と午後便の控えを見る。
新しい道具を見に行く日でも、いつもの仕事は先に動かす。
それが、黒瀬精機の新しい線だった。
日本橋の通りには、電器店とパソコンショップが並んでいた。
店先には、Windows 95の文字が大きく貼られている。
箱に入ったソフト。
プリンター。
フロッピーディスク。
見本機の画面。
直人は、その光景を見て、胸の奥で少しだけ息を吐いた。
前の人生では当たり前だったものが、この時代ではまだ少しだけ眩しい。
店に入ると、店員が声をかけてきた。
「何をお探しですか」
美智子は直人を見る。
直人は答えた。
「仕事で使う文書を作りたいんです。説明紙、チェック表、番号台帳。あと、一太郎を使いたい」
店員は、すぐに一台を指した。
「それなら、こちらのPC-9821で十分いけます。Windows 95入りで、一太郎も入っています。プリンターも動作確認済みです」
机の上に置かれた機械は、直人が前の人生で見慣れたものよりずっと古い。
だが、今の黒瀬精機には十分すぎるほど新しかった。
画面。
キーボード。
プリンター。
横にはフロッピーを入れる口がある。
美智子は、値札を見て顔をしかめた。
「安くはないね」
「安くはありません」
店員は苦笑した。
「ただ、文書を直して何枚も刷るなら、かなり楽になります。今は会社さんでも、こういう形で文書を作るところが増えてますよ」
佐野は、すぐに質問した。
「一太郎の文書として保存できますか」
「できます。フロッピーに入れられます」
「印刷屋さんへデータを渡せますか」
「相手の環境によります。でも、一太郎の文書なら受けてくれるところはあります。大量に刷る時は、紙で原稿を渡すより話が早い場合もあります」
「プリンターの消耗品は」
「インクカートリッジと用紙です。予備を一つ持っておく方が安心です」
「修理は?」
「保証期間内なら対応します。故障内容によっては預かりになります」
美智子が、直人を見る。
直人は、機械を見ながら考えていた。
未来のパソコンとは違う。
速くない。
画面も狭い。
できることも限られている。
だが、今の黒瀬精機に必要なのは、何でもできる機械ではない。
同じ説明紙を、同じ言葉で出す機械だ。
佐野が店員に言った。
「試しに打てますか」
「どうぞ」
佐野は席に座り、持ってきた紙を見ながら打ち始めた。
まず分けるための箱。
熱・油・水・薬品の近くでは使えません。
困ったら黒瀬へ。
画面に、文字が並ぶ。
印刷が始まると、店の中に細かな音が響いた。
紙が出てくる。
まっすぐな文字。
同じ大きさの文字。
誰の癖もない文字。
美智子は、その紙を手に取った。
「きれいやね」
その声には、嬉しさだけでなく、少しの警戒も混じっていた。
手書きの温度はない。
だが、揺れない。
商品には、その揺れなさが必要だった。
店員は、見積書を書き始めた。
本体。
プリンター。
一太郎。
フロッピー。
予備インクカートリッジ。
用紙。
保証。
合計金額を見て、美智子は眉を寄せた。
「二十万は超えるね」
「超えますね」
店員は頷いた。
「法人さんやと、リースにされるところも多いです。月々で見られますし、会計処理もしやすいので」
美智子は、すぐには返事をしなかった。
財布の中身ではなく、台帳の中の金を見ている顔だった。
「払えん金額やない」
美智子は言った。
「けど、払えるから現金で買う、という話でもないね」
直人は頷いた。
「うん。備品として持つのか、リースで毎月見るのか。そこは白井さんにも確認した方がいい」
店員が少し驚いた顔をした。
「銀行さんにも確認されるんですか」
「機械は買ったあとからお金が出ます」
美智子は平然と答えた。
「消耗品、修理、紙、使う人の時間。そこまで見てから決めます」
店員は、少し笑った。
「黒瀬さんとこは、買い方も細かいですな」
「買った後で困らんようにです」
美智子は言った。
直人は、前の人生のことを思い出していた。
安い機械を買って、消耗品や保守で苦しくなる。
便利そうな道具を入れて、使う人がいなくて埃をかぶる。
逆に、使い方を決めて入れた道具は、会社を変える。
今回は、後者にしなければならない。
その場で見積書をもらい、黒瀬精機へ戻った。
軽ワゴンの荷台には、パソコン本体はない。
代わりに、印字見本と見積書と、消耗品の型番を書いた紙がある。
森川がそれを見て言った。
「買うてこんかったんですか」
「今日は持って帰らんかった」
美智子が答えた。
「買えるけど、買い方を決めてからやね」
隆夫は見積書を見た。
「リースか」
「その方がええかもしれん」
美智子は言った。
「一括で払えんわけやない。でも、二十万を超える機械を、今日の勢いで買って終わりにしたらあかん。白井さんに確認する」
直人は、その判断に何も言わなかった。
正しい。
未来を知っているからこそ、分かる。
便利な道具は、買う時より、使い続ける時に会社を試す。
翌日、高井田信用金庫の白井に電話を入れた。
白井は午後、黒瀬精機へ寄った。
見積書を見て、すぐに言った。
「資金的に買えない金額ではありません。ただ、会計処理を考えるなら、リースも選択肢です」
美智子は頷いた。
「やっぱりそうですか」
「はい。特にパソコン関係は、数年で古くなります。現金で買い切るか、リースで月々の費用として見るか。どちらが黒瀬さんの台帳に合うかです」
隆夫が聞いた。
「借金とは違うんですか」
「近いところもありますが、考え方は違います。設備を持つより、使う権利を月々で払う形です」
白井は、そこで直人を見た。
「ただし、便利だからと増やすと、毎月の固定費になります。そこは気をつけてください」
「はい」
直人は答えた。
「今回は一台だけです。文書原本を作る作業台として使います」
白井は、その言葉を聞いて少し笑った。
「パソコンを作業台と言うところが、黒瀬さんらしいですね」
美智子は台帳へ線を引いた。
現金購入は可能。
ただし二十万円超。
リース見積り確認。
月額費用。
保守。
消耗品。
使用目的限定。
手書き台帳は継続。
数日後、黒瀬精機の事務所にパソコンとプリンターが入った。
リース契約の控えは、美智子の台帳に綴じられた。
機械は、買ったというより、黒瀬精機に置かれた新しい作業台だった。
森川が手を止める。
「来ましたな」
「来た」
美智子が答えた。
「ただし、何でも打つ機械やないよ」
隆夫が、机を一つ空けた。
「ここか」
「そこです」
佐野は、すぐに置き場所を見た。
「窓際は避けた方がいいです。紙が湿気を吸います。油の飛ぶ場所も駄目です」
森川が笑う。
「パソコンにも使えない場所があるんやな」
「あります」
佐野は真顔で答えた。
美智子が白紙を出した。
パソコン使用ルール。
クロフィックス関係の標準文書。
標準チェック表。
販売店用説明紙。
客先提出用清書。
原本は台帳へ綴じる。
変更時は日付とR番号を入れる。
誰が打ったか、誰が確認したかを残す。
手書き台帳は廃止しない。
大量に配る時は、印刷した原本をコピーに回す。
急ぎの連絡は、FAX用の原稿として使う。
宮田が、それを見て言った。
「パソコンで全部刷るんやないんですね」
「違う」
直人は答えた。
「何十枚も配るための機械やない。まず、原本を揃えるための機械や。配る分は、コピー機に回した方が早い時もある。遠い相手なら、FAXで送る方が早い時もある」
佐野が頷く。
「打った紙は、きれいな原稿になります」
美智子が続ける。
「きれいな原稿でも、正しいとは限らん。だから確認者を残す」
宮田は、ゆっくり頷いた。
「R番号、ここでも使うんですね」
「使う」
美智子は答えた。
「同じ説明紙でも、どの時点の紙か分からなくなったら困る」
佐野は、早速一枚目の文書を打った。
クロフィックス標準セット 説明紙 R1。
使用できる場所。
作業台。
保管棚。
検査台。
現場内の一時保管。
使用できない場所。
高温部近く。
油槽周辺。
水濡れ、油濡れが続く場所。
屋外。
薬品がかかる場所。
文字が読めなくなる場所。
宮田は横で見ていた。
直人も、何も言わずに見た。
佐野の手は早くない。
しかし、確実だった。
印刷された紙を、美智子が読み上げる。
直人が聞く。
宮田が元の手書きと照合する。
一か所だけ、言葉が止まった。
「水濡れ、油濡れが続く場所」
宮田が言った。
「浜野さんの話なら、油濡れが続く場所だけでなく、油の飛ぶ場所も危ないかもしれません」
直人は頷いた。
「足そう」
佐野は、すぐに直した。
水濡れ、油濡れ、油の飛ぶ場所。
印刷し直す。
R1のままにするか。
そこで、美智子が止めた。
「これは、まだ外へ出してない原稿やからR1のままでいい。でも、一度出した後に直すならR2」
宮田が頷く。
「出す前と、出した後で違うんですね」
「そう」
美智子は言った。
「紙が外へ出たら、もう仕事してるからね」
森川が、静かにその言葉を聞いていた。
「紙も外へ出たら仕事する、か」
直人は、印刷された説明紙を手に取った。
手書きではない。
しかし、黒瀬の仕事だった。
午後三時、佐野の勤務時間が終わる前に、説明紙の原本が三種類できた。
クロフィックス標準セット 説明紙 R1。
正規補充札 説明紙 R1。
野口工具店用販売説明 R1。
美智子はそれらを台帳に綴じた。
佐野は、フロッピーにも保存した。
そのフロッピーには、ラベルが貼られた。
クロフィックス文書原本。
R1。
黒瀬精機。
宮田が、そのラベルを見て少しだけ笑った。
「フロッピーにも札ですね」
「そうや」
直人は答えた。
「中が見えない箱やから、余計に札が要る」
佐野は鞄を持って立ち上がった。
「明日は、標準チェック表も打ちます。ただし、今日の文書を先に野口さんへ出して、反応を見てからです」
「分かりました」
美智子が頷く。
「お疲れさま」
佐野が帰った後、事務所にはパソコンとプリンターが残った。
機械は静かだった。
だが、机の上に置かれただけで、黒瀬精機の事務所が少し未来へ寄ったように見えた。
森川が、機械を見ながら言った。
「これで、紙が増えるんですかね」
「増える」
美智子は即答した。
「でも、増やしてええ紙と、増やしたらあかん紙を分ける」
隆夫が頷く。
「便利になった分、止める線も要るな」
直人は、印刷された説明紙を手に取った。
手書きの紙。
打った紙。
台帳。
フロッピー。
コピーに回す原本。
FAXで送れる原稿。
どれも、黒瀬精機の仕事を残す道具だ。
どれか一つに寄りかかれば危ない。
だが、使い分ければ強くなる。
夜、美智子は台帳の最後に一行を書いた。
同じ言葉を、同じ形で出すための機械。
直人は、その文字を見た。
パソコンが入った。
それだけなら、ただの事務機導入だ。
だが、黒瀬精機にとっては違う。
クロフィックスが商品になるための、次の作業台だった。
削るための機械ではない。
切るための機械でもない。
それでも、町工場の仕事を変える機械だった。
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