第123話 使えない場所
田島印房からゴム印が届いた翌日、黒瀬精機の作業台には、小さな黒い印影が並んでいた。
クロフィックス。
黒瀬精機確認済。
KFX-S。
KFX-R。
番号を書くための空白も、ちゃんと残っている。
宮田悟は、試し押しした紙を乾かしながら、少しだけ嬉しそうだった。
「これ、押すと商品っぽくなりますね」
森川修一が横から覗き込む。
「昨日まで箱やったのに、今日は名前入りか。出世したな」
「箱が出世したんやなくて、責任が増えたんや」
美智子は台帳を開いたまま言った。
森川は苦笑した。
「奥さん、朝から重いですな」
「軽くしたら、あとでこっちに戻ってくるからね」
直人は、ゴム印を手に取った。
名前を押す。
それだけのことが、思ったより重かった。
黒瀬精機確認済。
その文字を押した瞬間から、これは黒瀬のものになる。
似た札とは違う。
無責任な紙片ではない。
だが、責任を持つには、使われ方を知らなければならない。
その時、野口工具店から電話が入った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、野口さん。お世話になっております」
直人は、ゴム印を置いた。
野口からの電話は、だいたい何かが動いた時だった。
美智子の顔が、少しだけ変わる。
「浜野さんが? ……はい。助かった、と。……ただ、見てほしいところがある」
美智子は、受話器を押さえて直人を見た。
「野口工具店で最初に箱を買った焼き入れ屋さん。浜野熱処理さん。クロフィックスで混ざらずに済んだけど、現場で気になることがあるって」
森川が眉を上げた。
「もう使ったんですか」
「使ったみたいやね」
野口の声が、受話器の向こうで続いている。
美智子は短く返事をした。
「分かりました。今日は通常納品があるので、午後一番なら伺えます。……はい。個別確認扱いです。……そうです、有償です」
受話器を置く。
森川が、少し笑った。
「野口さん、もう有償相談を言えるようになったんですか」
「言わせたんやなくて、覚えてくれたんや」
美智子はそう言いながら、台帳に書いた。
浜野熱処理。
クロフィックス標準使用後確認。
現場確認。
午後。
直人は、胸の奥に小さな熱を感じていた。
売れた箱が、実際の現場で使われた。
しかも、助かったと言っている。
それは嬉しい。
だが、同時に怖い。
使われたからこそ、見えていなかったものが出る。
午後一時、直人と森川は浜野熱処理工業所へ向かった。
黒瀬精機から歩いて行ける距離ではないが、車なら遠くはない。
工場に近づくと、空気の匂いが変わった。
黒瀬精機の油と鉄の匂いとは違う。
熱を帯びた金属の匂い。
焼けた油の匂い。
冷めた鉄が持つ、少しざらついた匂い。
浜野熱処理工業所は、黒くすすけた壁の小さな工場だった。
入口の横には、金属の籠がいくつも積まれている。
奥には炉があり、赤い光がわずかに見えた。
浜野は、作業服の袖をまくり上げて出てきた。
「黒瀬さん、来てくれて助かったわ」
昨日、野口工具店で箱を買った男だった。
「浜野さんですね」
「そうや。この前はすまんな、いきなり買うて」
「ありがとうございます。使っていただいたんですね」
「使った。ほんで、助かった」
浜野は、作業台の上を指した。
そこには、クロフィックス標準セットの箱が置かれていた。
蓋には、黒瀬のゴム印はまだない。
野口工具店で最初に売れた、試験販売品だった。
箱の中には、白紙札が数枚残っている。
浜野は、そのうち二枚を見せた。
焼入前。
焼入後。
太い鉛筆で書かれている。
「昨日、同じ形の小さいピンが二籠あってな。片方は焼き入れ前、片方は焼き入れ後。若い子が、焼き入れ後の籠に、前のやつを入れかけたんや」
森川が、顔をしかめた。
「それ、混ざったらどうなるんです」
「見た目では、すぐ分からん。硬さを見れば分かるけど、出荷前に全部見るわけやない。下手したら、柔いまま客先に行く」
浜野は、クロフィックスの箱を軽く叩いた。
「でも、この札があった。焼入前、焼入後って分けたばっかりやったから、若い子が気づいた。混ぜずに済んだ」
直人は、その言葉を聞いて胸の奥が熱くなった。
売れた。
だけではない。
止めた。
現場で、実際に混入を止めた。
それは、クロフィックスが初めて仕事をした瞬間だった。
だが、浜野の顔は、喜びだけではなかった。
「ただな」
浜野は、別の札を出した。
それは、油を吸って波打っていた。
文字も少し滲んでいる。
焼入後。
そう書かれていたはずの字が、黒くにじみ、読みづらくなっている。
「一人が、この札を焼き入れ後の冷まし場の近くまで持っていった。そしたら、油と熱気でこうなった」
森川が、札を手に取る。
「これは、もう読みにくいな」
「せやろ」
浜野は頷いた。
「箱はええ。作業台では使える。でも、炉の近くや油のそばでは、この紙札はあかんかもしれん」
直人は、札を見つめた。
紙。
油。
熱。
当たり前だった。
でも、昨日まで黒瀬精機ではそこまで見えていなかった。
洗浄前後。
検査待ち。
保管済。
倉田精密や高田包装では、紙札でも使える場所があった。
だが、熱処理場は違う。
紙札が読めなくなる。
読めなくなった札は、ないより危ない。
あるはずの表示が、意味を失う。
直人は、前の人生で見た劣化したラベルを思い出した。
剥がれたバーコード。
読めない印字。
熱で波打ったタグ。
油で消えたマジック。
表示があるから安心してしまう。
でも、表示が読めなければ、安心ではない。
「浜野さん」
直人は言った。
「この標準セットは、炉のそばでは使わないでください」
浜野は少し驚いた。
「売った本人が、使うな言うんか」
「はい」
直人ははっきり答えた。
「作業台や保管棚で分けるには使えます。でも、熱や油の近くでは、この紙札は向いていません」
浜野は、しばらく直人を見ていた。
「正直やな」
「ここをごまかしたら、あとで黒瀬の名前で事故ります」
森川が頷く。
「熱処理用は、別もんにした方がええですね」
「そう思います」
直人は、浜野の工場を見回した。
炉。
油槽。
冷却棚。
検査台。
出荷前の保管場所。
同じ工場の中でも、場所によって札に必要な強さが違う。
熱に近い場所。
油に近い場所。
手で触る場所。
客先へ出す前の場所。
すべてを一つの紙札で済ませるのは無理だった。
浜野が言った。
「ほな、熱処理用のクロフィックス、作れるか」
その言葉は、直人の胸にまっすぐ刺さった。
作れる。
そう言いたい。
未来の知識なら、金属タグ、耐油ラベル、打刻、色分け、ワイヤー、耐熱塗料。
いろいろ思いつく。
だが、今すぐ言えば、また受けすぎる。
標準セットが売れたばかりだ。
正規補充札もこれからだ。
北河の月五十組も抱えている。
ここで熱処理用まで安易に受ければ、また全部が混ざる。
直人は、首を横に振った。
「今すぐ商品にはしません」
浜野の顔が少し硬くなった。
「無理か」
「無理ではありません。でも、標準セットとは別の確認が要ります。どの場所で使うのか。炉の近くか、油の近くか、冷却後か、検査台か。それによって札の材料が変わります」
森川が横から言った。
「紙でええ場所と、金属にせなあかん場所があるわけやな」
「はい」
直人は頷いた。
「それを見ずに『熱処理用』として売ったら危ないです」
浜野は腕を組んだ。
「ほな、どうする」
「まず、今日の分は現場確認として記録します。標準セットは、作業台と保管棚で使う。炉周り、油槽周り、冷却直後には使わない」
浜野は頷いた。
「それは分かった」
「その上で、熱処理用は個別相談です。もし作るなら、浜野さんの現場で試してからです」
「金はかかるな」
「かかります」
直人は逃げなかった。
「でも、紙札で事故るよりはいいと思います」
浜野は、油で波打った札を見た。
そして、深く息を吐いた。
「分かった。払うわ。昨日、これで助かった分があるからな」
その言葉は、直人には重かった。
助かった分。
クロフィックスが生んだ価値は、箱の値段だけではない。
混入を防いだこと。
柔らかい部品を客先へ出さずに済んだこと。
信用を失わずに済んだこと。
そこにも値段がある。
森川が、冷却棚を見ながら言った。
「浜野さん、紙札を持っていっていい場所を決めましょう」
「今ここで?」
「はい。使える場所だけ決める。使えん場所も決める」
浜野は苦笑した。
「黒瀬さんとこは、売った後も面倒やな」
「使えん場所を決めるまでが商品です」
直人は言った。
浜野は、少しだけ笑った。
「それ、ええ言葉やな」
そこから、浜野の工場を一緒に歩いた。
炉の前。
紙札不可。
油槽の横。
紙札不可。
冷却直後の棚。
紙札不可。
検査台。
紙札可。ただし油を拭いてから。
出荷前保管棚。
紙札可。
焼入前の一時置き台。
紙札可。
浜野は、作業者を二人呼んだ。
「この札、炉の前まで持っていくな。紙やから油で読めんようになる。検査台と保管棚だけや」
若い作業者が頷いた。
「じゃあ、炉の前はどうします?」
「それを黒瀬さんと相談する」
浜野は言った。
直人は、その会話を聞きながら、標準セットの説明紙に足りないものを感じていた。
使い方だけでは足りない。
使えない場所も書く必要がある。
標準セットは、万能ではない。
万能ではないからこそ、正直に書かなければならない。
黒瀬精機へ戻ると、美智子はすぐに札を見た。
油で波打った札。
文字がにじんだ札。
それを見て、表情が引き締まる。
「これは、売った側の責任やね」
「はい」
直人は答えた。
「標準セットの説明紙に、使用不可場所を足します」
佐野はまだ勤務時間内だった。
すぐに紙を出す。
クロフィックス標準セット。
使用できる場所。
作業台。
保管棚。
検査台。
現場内の一時保管。
使用できない場所。
高温部近く。
油槽周辺。
水濡れ、油濡れが続く場所。
屋外。
薬品がかかる場所。
文字が読めなくなる場所。
森川が言った。
「最後、ざっくりしてるけど大事やな」
「読めなくなったら、札ではありません」
佐野は言った。
美智子が頷く。
「説明紙、全部差し替え」
宮田が顔を上げる。
「野口工具店にある分もですか」
「もちろん」
美智子は即答した。
「売った一箱にも、追加説明を届ける」
直人も頷いた。
「浜野さんの分には、今日の現場確認結果を別紙で渡します」
佐野が書き足す。
販売済み標準セット。
追加説明紙配布。
浜野熱処理。
使用不可場所確認。
熱処理用は個別相談。
美智子は台帳を開いた。
「この対応、無料にはしません」
直人は一瞬だけ顔を上げた。
「標準セットの説明不足は、こっちの責任やと思う」
「そこは無料」
美智子は言った。
「説明紙の差し替えは、黒瀬負担。浜野さんの熱処理用相談は有償。分けます」
直人は、ほっとした。
責任を取る。
しかし、全部を無料にはしない。
そこを分ける。
それが商売だった。
森川が、油で波打った札を見ながら言った。
「この札、残しときましょう」
「残します」
美智子は封筒を出した。
浜野熱処理。
紙札油濡れ。
使用不可場所追加の根拠。
宮田がそれを書き、封筒に入れる。
前回は、類似札を残した。
今回は、使えなかった札を残す。
商品が外へ出るたびに、黒瀬の机には失敗の手前が戻ってくる。
それは、嫌なことではなかった。
むしろ、戻ってくるうちは直せる。
夕方、野口工具店へ美智子が電話した。
「標準セットの説明紙を差し替えます。……はい。使用できない場所を追加します。……売れた浜野さんの分は、今日確認済みです。……はい、他の購入者にも渡してください」
野口の声は聞こえない。
だが、美智子は少しだけ笑った。
「そうです。売った後も面倒です」
電話を切ると、森川が笑った。
「自分で言うんや」
「本当やからね」
直人は、差し替え用の説明紙を見た。
使用できる場所。
使用できない場所。
商品には、できることだけでなく、できないことも必要なのだ。
前の人生で見た、安全ラベルや注意書き。
それを軽く見ていた時代もあった。
だが、本当は違う。
注意書きは、逃げではない。
正しく使ってもらうための境界線だ。
夜、黒瀬精機の作業台には、クロフィックス標準セットと、油で波打った札が並んでいた。
一方は、売れる形。
もう一方は、使えない場所を教えてくれた失敗の手前。
美智子は台帳の最後に一行を書いた。
売るものには、使えない場所も書く。
直人は、その文字を見た。
クロフィックスは、また少し商品に近づいた。
売れるもの。
真似されるもの。
補充されるもの。
そして、使えない場所を持つもの。
万能ではないと認めて初めて、商品は現場で使える。
黒瀬精機は今日、売ったものの限界を見た。
それは、失敗ではない。
商品になり始めた証拠だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます