第122話 名前の値段

 翌朝、黒瀬精機の作業台には、クロフィックス標準セットが三箱並んでいた。


 昨日、宮田悟と村井健太が組んだ箱だ。


 中身は確認済み。


 標準札六種類。


 白紙札十枚。


 仕切り板二枚。


 油紙。


 説明紙。


 値札。


 箱の外から見れば、ただの小さな保管箱にしか見えない。


 だが、直人には少し違って見えた。


 削った部品ではない。


 図面通りに作った治具でもない。


 現場の混乱を、棚に置ける形へ変えたもの。


 黒瀬精機が、初めて自分たちの考えを商品として外へ出したものだった。


 森川修一は、それを見ながら言った。


「三箱できたら、ちょっと商売してる感じしますな」


「商売やよ」


 美智子は台帳を開きながら答えた。


「商売にするなら、数と金と責任を見なあかん」


 その時、工場の前に軽トラックが停まった。


 田端商会ではない。


 野口工具店の軽トラックだった。


 店主の野口が、紙袋を一つ抱えて降りてくる。


「朝からすまんな」


 美智子が事務所の戸を開けた。


「どうしました?」


「ちょっと、見てほしいもんがある」


 野口は作業台の上に紙袋を置いた。


 中から出てきたのは、札だった。


 薄い厚紙に印刷された、小さな札が数枚入っていた。


 赤、青、黄色。


 大きさは、クロフィックスの札と似ている。


 だが、紙質は薄く、角も少し荒い。


 その一番上に、太い文字でこう書かれていた。


 クロフィックス対応札。


 森川の顔が変わった。


「なんや、これ」


 直人も、思わず手を止めた。


 美智子の赤鉛筆が、机の上で止まる。


 野口は、苦い顔で言った。


「昨日、店に来た客がな。『札だけならもっと安くできるやろ』言うて、知り合いに試し刷りさせたらしい。今朝、それを数枚持ってきよった」


「野口さんの店で売ってくれ、と?」


「そこまではまだ言うてへん。でも、うちに置けんかとは言うてた。黒瀬さんの名前が入ってるようなもんやから、先に見せに来た」


 美智子は、札を一枚手に取った。


 洗浄済。


 未洗浄。


 検査中。


 保管中。


 持出注意。


 確認済。


 似ている。


 だが、違う。


 黒瀬の標準札は、洗浄前、洗浄後、検査待ち、保管済、持出禁止、確認中。


 言葉をかなり絞ってある。


 この札は、意味が近いようで、少しずつずれていた。


 森川が低く言った。


「洗浄済と洗浄後は、同じようで違いますな」


「うん」


 直人は頷いた。


「洗浄済は、誰かが済ませたという意味に見える。洗浄後は、工程の状態を示す」


 宮田が札を見ながら言った。


「持出注意も危ないです。注意すれば持ち出していいように見えます。黒瀬の札は、持出禁止です」


 野口が目を細めた。


「そんな違うか」


「違います」


 美智子が言った。


「言葉が違うと、現場の動きが変わります」


 野口は、しばらく札を見ていた。


「ただの札やと思ってたわ」


「ただの札に見えるから怖いんです」


 直人は言った。


 前の人生で、こういうことは何度もあった。


 似たラベル。


 似た管理表。


 似た箱。


 中身の考え方を知らないまま、見た目だけを真似する。


 最初は小さな節約だ。


 でも、そこで事故が起きると、名前だけが一人歩きする。


 あれは黒瀬のやり方だ。


 クロフィックスを使ったら混ざった。


 そう言われる。


 たとえ本物ではなくても、外からは分からない。


 森川が腕を組む。


「これ、怒りに行きますか」


「怒るだけでは足りん」


 直人は答えた。


「名前を守る形を作らなあかん」


 美智子が、すぐに台帳を開いた。


「正規品の印が要るね」


 野口が聞き返す。


「正規品?」


「はい」


 美智子は、クロフィックスの箱を一つ引き寄せた。


「黒瀬が作ったもの。黒瀬が中身を確認したもの。説明紙が入っているもの。それが分かる印」


 佐野真紀が九時になり、机に座った。


 野口の持ってきた札を見ると、すぐに状況を察したようだった。


「正規品と補充品を分けた方がいいです」


 美智子が顔を上げる。


「補充品?」


「はい」


 佐野は淡々と言った。


「箱を買った人が、札だけ欲しくなるのは自然です。けれど、標準セットには白紙札が入っています。まずはそれを使ってもらうべきです。それでも足りない時の受け皿がないと、安い札を外で作ります」


 直人は、その言葉に胸の中で頷いた。


 その通りだ。


 真似されたくないから禁止する。


 それだけでは足りない。


 客がなぜ真似しようとしたのかを見る必要がある。


 札だけ欲しい。


 安く補充したい。


 なら、正規の補充札を用意しなければ、外へ流れる。


 佐野は紙を出した。


 クロフィックス標準セット。


 正規補充札。


 個別対応品。


 相談扱い。


「昨日分けた三つに、補充札を足します」


 宮田が頷いた。


「補充札なら、箱は要らない。白紙札で足りなくなった分だけ補える。説明紙は簡易版でいい。でも、言葉は同じにできます」


「そうです」


 佐野は続けた。


「ただし、補充札だけでは使い方を保証しない。標準セットの補充用。初めて使う人には、標準セットを勧める」


 森川が、少し感心したように言った。


「佐野さん、商売人みたいになってきましたな」


「事務です」


 佐野は平然と言った。


「商品が増えれば、事務も増えます」


 野口が声を出して笑った。


「黒瀬さんとこ、事務が強いな」


「前からです」


 森川が言った。


 美智子は、クロフィックスの箱を開けた。


「正規品の印、どうする?」


 直人は少し考えた。


 未来なら、QRコードや二次元コード。


 読めば履歴まで追える小さな印。


 シリアル番号。


 封印シール。


 いくらでもある。


 だが、今の黒瀬精機に、そんなものはない。


 でも、今できることはある。


「ゴム印を作る」


「ゴム印?」


 宮田が聞く。


「うん。黒瀬精機確認済。クロフィックス。あと、番号」


 直人は白紙に書いた。


 KFX-S-001。


 標準セット。


 KFX-R-001。


 補充札。


「標準セットはS。補充札はR。個別はC。番号を振る」


 佐野がすぐに言った。


「番号を振るなら、台帳が必要です」


「作る」


 美智子が答えた。


「野口さんへ出す分も、番号を控える。売れたら、どの番号が出たか戻してもらう」


 野口が眉を上げた。


「うちも控えるんか」


「はい」


「面倒やなあ」


「面倒です」


 直人は言った。


「でも、どれが黒瀬の正規品か分からなくなったら、野口さんの店も困ります」


 野口は少し黙った。


 そして、薄い札の束を指で叩いた。


「これが店で売れて、あとで事故ったら、うちも巻き込まれるか」


「巻き込まれます」


 美智子ははっきり言った。


「だから、正規品だけ置いてもらう条件にしたいです」


 野口は、ゆっくり頷いた。


「分かった。うちは、クロフィックス対応札いうやつは置かん。黒瀬さんの正規品だけにする」


 直人は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし、札だけ欲しい客はおるで」


「正規補充札を作ります」


「いつ出せる?」


 美智子は佐野を見る。


 佐野は、机の上の予定表を見た。


「標準セット二箱を明日。正規補充札は、内容を今日決めれば明後日、試験販売分を出せます。ただし、説明紙も別に必要です」


「明後日か」


 野口は頷いた。


「ええやろ。札だけ欲しい客には、明後日からと言うとく」


 森川が、偽物の札を持ち上げた。


「これはどうします?」


「置いていってください」


 美智子が言った。


「見本として、黒瀬で保管します」


 野口は紙袋を置いたまま立ち上がった。


「ほな、わしは戻るわ。朝から面倒なもん持ち込んですまんな」


「助かりました」


 直人は言った。


「野口さんがそのまま売ってたら、もっと面倒になってました」


「そら怖いわ」


 野口は苦笑して、店へ戻っていった。


 軽トラックが出ていくと、工場の中には重い空気が残った。


 売れた。


 喜んだ。


 その次の日には、もう真似が出た。


 早すぎる。


 だが、それが商売だった。


 商品が棚に乗れば、誰かが値段を比べる。


 形を見て、似たものを作ろうとする。


 「同じようなもの」で済まそうとする。


 そこまで含めて、商品なのだ。


 直人は、薄い札を見つめた。


 怒りはあった。


 だが、それ以上に、冷静な怖さがあった。


 クロフィックスが広がるなら、名前も責任も一緒に広がる。


 名前が歩き出した時、黒瀬がそれを追いかける形では遅い。


 先に、名前の線を引く必要がある。


 午前中、黒瀬精機では急いで新しい作業が始まった。


 森川は通常加工を続ける。


 隆夫は高田包装の改善版を進める。


 宮田はクロフィックスの番号台帳を作る。


 佐野は、正規補充札の内容を整える。


 美智子は、野口工具店との委託販売控えに一行を足した。


 野口工具店では、黒瀬精機発行の正規品のみ販売。


 クロフィックス名を使用した他社札、類似札は取り扱わない。


 個別相談は黒瀬精機へ誘導。


 直人は、黒瀬精機の古いゴム印箱を開けた。


 住所印。


 社名印。


 請求書用の角印。


 どれも古い。


 クロフィックス用には使えない。


「ゴム印、急ぎで作ってもらうか」


 隆夫が言った。


「近所の印章屋、まだやってるやろ」


「はい」


 宮田が言った。


「高井田駅の近くの田島印房です」


「行ってきます」


 昼飯を済ませてから、直人は自分で田島印房へ向かった。


 小さな店だった。


 ガラスケースには認印が並び、奥で年配の店主が新聞を読んでいる。


「ゴム印を作りたいんです」


 直人は紙を出した。


 クロフィックス。


 黒瀬精機確認済。


 KFX-S-□□□。


 KFX-R-□□□。


 店主は、眼鏡をずらして紙を見た。


「番号変えるんか」


「はい。最後の数字は手書きでもいいです」


「ほな、ここまではゴム印にして、番号は空ける形やな」


「できますか」


「できる。今日中は無理や。明日の夕方やな」


 直人は少し考えた。


 明後日には補充札を野口へ持っていく。


 間に合う。


「お願いします」


 店主は注文控えを書いた。


「クロフィックスいうのは、何や」


「現場で混ぜたら困るものを分ける箱と札です」


「よう分からんな」


「僕らも、まだ作ってる途中です」


 店主は笑った。


「ほな、ええ名前にせなあかんな」


 直人は、その言葉を胸にしまった。


 名前。


 ただの呼び名ではない。


 商品になった瞬間、名前には値段が付く。


 責任も付く。


 黒瀬精機へ戻ると、佐野が補充札の説明紙を机に置いていた。


 クロフィックス正規補充札。


 標準セットの補充用です。


 初めて使用する場合は、標準セットを使用してください。


 工程、検査、客先提出、請求条件に関わる用途には、個別相談が必要です。


 類似札、複製札について、黒瀬精機は責任を負いません。


 直人は最後の一行を見た。


「強いですね」


「必要です」


 佐野は答えた。


「正規品以外の責任まで背負ったら、商品になりません」


 美智子も頷く。


「名前を使うなら、責任の線も一緒に引く」


 森川が言った。


「名前にも札が要るんやな」


 直人は思わず笑った。


「そうかもしれません」


 宮田は、番号台帳を見せた。


 KFX-S-001。


 野口工具店。


 標準セット。


 販売済。


 KFX-S-002。


 野口工具店。


 標準セット。


 販売済。


 KFX-S-003。


 黒瀬在庫。


 KFX-S-004。


 野口工具店予定。


 KFX-S-005。


 野口工具店予定。


 まだ五つしかない。


 だが、番号が付くと、箱は少し違って見えた。


 どこへ出たのか。


 誰が売ったのか。


 どの説明紙が入っていたのか。


 戻れる場所ができる。


 直人は頷いた。


「これでいこう」


 夕方、野口工具店からもう一度電話があった。


 美智子が受ける。


「はい。……はい、野口さん。……印刷札の人がまた来た?」


 直人は顔を上げた。


 美智子は静かに聞いていた。


「……黒瀬さんが怒っているか、ですか。怒っているというより、正規品と違うものとして扱います。……はい。クロフィックスの名前は使わないでください。……はい。必要なら、黒瀬へ連絡をください」


 電話を切ると、美智子は言った。


「札を作った人、悪気はなかったみたいやね。安く作れると思っただけらしい」


「悪気がなくても、名前が混ざります」


 直人は言った。


「うん」


 美智子は台帳に書いた。


 類似札作成者。


 野口工具店経由で注意。


 クロフィックス名使用不可。


 必要なら黒瀬へ相談。


 森川が作業場から言った。


「悪い人やなくても、事故は起きますからな」


「そうです」


 直人は答えた。


 前の人生でも、そうだった。


 悪意だけが会社を壊すわけではない。


 安く済ませたい。


 早く済ませたい。


 同じように見えるからいい。


 その小さな判断が、あとで大きな混乱になる。


 だから、名前を守る。


 値段を守るためだけではない。


 責任の線を守るために。


 夜、黒瀬精機の作業台には、三つのものが並んだ。


 クロフィックス標準セット。


 クロフィックス正規補充札の試作。


 そして、薄い厚紙の類似札。


 見た目だけなら、どれも札だった。


 だが、中身は違う。


 使い方が違う。


 責任が違う。


 戻れる場所が違う。


 美智子は台帳の最後に、一行を書いた。


 名前にも、責任が付く。


 直人は、その文字を見た。


 クロフィックスは、棚に置かれた。


 売れた。


 真似もされた。


 それは、この名前が町の中を歩き始めたということだった。


 名前が歩くなら、黒瀬精機はその足元に線を引かなければならない。


 どこまでが黒瀬の仕事か。


 どこからは違うのか。


 何を正規品と呼ぶのか。


 その線を引けなければ、商品はただの箱と札に戻ってしまう。


 直人は、類似札を封筒に入れた。


 捨てない。


 怒りの証拠としてではない。


 商品が外へ出た最初の反応として、残す。


 黒瀬精機は今日、売るだけではなく、名前を守る仕事を始めた。


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