第121話 一箱を作る場所

 クロフィックスの保管用品を倉田精密へ納めてから、数日後。


 問題は、他社の棚ではなく黒瀬精機の中で起きた。


「森川さん、これ、どっちです?」


 宮田悟が検査台の脇で手を止めた。


 白い樹脂箱が二つ並んでいる。


 片方には《確認中》。


 もう片方には《検査待ち》。


 札だけ見れば違う。


 ところが、宮田が指している箱には札が付いていなかった。


「何の品物?」


 森川修一が来る。


「倉田さんのカラーです。朝、俺が旋盤から下ろした分」


「検査前?」


「そのはずです」


「そのはず、ではあかんな」


 森川は箱の中を見た。


 十数個のカラーが入っている。


 図面番号は合っている。


 数量も合っている。


 ただし、この箱がどの状態でここへ置かれたのかが分からない。


「札、どこ行った?」


 宮田が周囲を見る。


 床に落ちてはいない。


 検査台の端にもない。


 少し離れた作業台を見ると、《検査待ち》と書かれた札が一枚置かれていた。


「あれちゃいます?」


「誰が外した?」


 近くにいた村井健太が顔を上げる。


「俺かもしれません」


「何した?」


「午前中、検査台使うから箱を一回どけました。その時、札が引っ掛かったんで外して……」


「戻した?」


「戻したつもりです」


「どの箱に?」


 村井が黙る。


 悪意も手抜きもない。


 ただ、同じ形の箱が二つ並び、札を一度外した。


 それだけで、どちらの箱だったか分からなくなった。


「止めよう」


 森川が言った。


「この箱、いったん全部保留」


「検査したら分かりません?」


 村井が聞く。


「寸法は分かる。でも今聞きたいんは、この品物が何の確認を待ってたかや」


「確認中って札もありましたよね」


「そう」


 朝、別の仕事で寸法の確認が必要になり、《確認中》の箱を一つ置いていた。


 そちらはすでに担当者が持ち出している。


 空になった箱だけが残り、《確認中》の札も作業台へ置かれていた。


 つまり今、机の周りには、


《確認中》


《検査待ち》


 二枚の札と、札のない一箱がある。


 誰かが箱を入れ替えた可能性まで考えれば、記憶だけでは戻せない。


「直人」


 隆夫が事務所から呼んだ。


 直人も工場へ入り、事情を聞く。


「出荷は?」


「まだ」


「なら良かった」


 それだけ言って、箱には触れなかった。


「朝から辿ろう。誰が加工した?」


「俺です」


 宮田が答える。


「最初の一個は?」


「森川さんに見てもらいました」


「そのあと?」


「残り削って、この箱に入れました。その時は《検査待ち》付けました」


「数量は?」


「16個」


 箱の中も16個だった。


「途中で他の仕事混ざった?」


「混ざってません」


「検査した人は?」


「まだ誰も」


「そこ確認できる?」


 森川が検査記録を見る。


「この品番の記入はまだないです」


「じゃあ、少なくとも検査済みではない」


「はい」


「《確認中》の方は?」


 隆夫が聞いた。


 森川が別の作業票を持ってくる。


「こっちは山岸さんの仕事です。寸法じゃなくて図面の注記確認待ち。品物はもう山岸さんが自分の機械の横へ戻してます」


「数量?」


「六個」


「箱の中16個やから、それとも違うな」


 一つずつ記録を照らすと、宮田の16個が検査待ちだったことは確認できた。


 誰かの記憶だけではない。


 加工記録、数量、検査記録。


 三つが合った。


「じゃあ検査へ回してええな」


 直人が言う。


 森川は頷いたが、すぐには札を戻さなかった。


「今回は戻せましたけど」


「次も戻せるとは限らんな」


「はい」


 村井が申し訳なさそうに言う。


「すみません」


 森川は首を振った。


「札外したんは良くなかった。でも村井だけの問題にしたら、また別の人がやる」


 直人も同じだった。


 札を外すな、と注意書きを増やすだけなら簡単だ。


 しかし検査台を使うために箱を動かすこと自体は、これからもある。


 引っ掛かった札を一度外すことも起こり得る。


 人が一回間違えた時に、状態まで分からなくなる作りの方を直した方がいい。


「これ、札の形変える?」


 宮田が言った。


「《確認中》は丸、《検査待ち》は四角とか」


「分かりやすくはなるな」


 直人は答えた。


「でも札なくなったら一緒や」


「色分け?」


「それも札が外れたら終わり」


「箱の色変えます?」


「わざわざ買う?」


 隆夫が聞く。


 森川は二つの樹脂箱を見た。


「俺、それより置く場所分けたいです」


「場所?」


「はい」


 森川は検査台の左側を指した。


「《検査待ち》はここ以外に置かない」


 次に、反対側の壁際を見る。


「《確認中》はあっち」


「箱じゃなく、床の場所に意味持たせる?」


「そうです」


 直人はすぐ理解した。


 箱に札を付けて状態を示すだけなら、札が外れれば情報が消える。


 だが、置かれている場所そのものにも意味があれば、一つ失ってももう一つ残る。


「ただ、場所だけも怖いで」


 隆夫が言った。


「誰かが掃除で動かしたら?」


「だから両方です」


 森川が答えた。


「箱にも札。置き場にも表示」


「二重にするんか」


「同じことを二回書くんやなくて、箱は品物の状態。置き場は置いてええ状態を決める感じです」


 直人が工場を見回した。


 場所は限られている。


 状態ごとに専用棚を何本も作れば、それだけで床がなくなる。


「三つぐらいに絞ろう」


「三つ?」


「製造途中で人の判断待ってる物。検査待ち。検査終わって次へ出せる物」


 森川が少し考える。


「加工途中まで全部ここへ集めるのは嫌です。機械の横で続ける物まで動かす必要ない」


「そうやな」


「この辺へ来るんは、担当者の手から一回離れる物だけでええです」


「じゃあ《確認待ち》と《検査待ち》だけ?」


「あと出荷前は今の完成品棚あるから、そこ使えます」


「二つで済むか」


 話はそこでまとまった。


 《確認待ち》。


 《検査待ち》。


 この二つについて、専用の置き場を作る。


 ただし新しい棚を買うのではない。


 検査台の左脇にある一段を《検査待ち》。


 壁側の小さな棚一段を《確認待ち》。


 場所を離す。


 表示も同じ紙札にはしなかった。


「読まずに見分けられた方がええ?」


 美智子が聞く。


「色?」


「色だけにせん方がええ」


 直人が答える。


 色は補助にできる。


 だが汚れたり照明が暗かったりすれば、見間違う。


「文字大きくして、札の形も変える?」


「そこまでやったら分かりやすいな」


 《検査待ち》は横長の札。


 《確認待ち》は上部を斜めに切った札。


 下側にも形の違いが分かるよう、《確認待ち》には大きなV字の切り欠きを一つ入れる。


 細かな加工ではない。


 板を見ただけ、触っただけでも違いが分かる程度でいい。


「これなら札重なってても分かりますね」


 村井が言う。


「でも一番大事なんは場所やで」


 森川が答える。


「札だけ変えて満足すんなよ」


「はい」


「あと、勝手に箱移したらあかん、で終わらせん」


 直人が加えた。


「移す必要出たらどうする?」


「その状態の置き場の中で動かす?」


「そう。場所足らんかったら森川さんに言う。別の状態の場所へ仮置きせん」


「分かりました」


 翌日から試した。


 最初は戸惑いもあった。


 宮田が加工を終えた一箱を、いつもの癖で検査台そのものへ置こうとして止まる。


「あ、こっちか」


 左脇の《検査待ち》へ置く。


 札も横長のものを付ける。


 別の品物で図面確認が必要になった時は、森川がV字の切り欠きが入った《確認待ち》札を付け、離れた棚へ移した。


「これ、遠ないです?」


 山岸浩司が言う。


「確認終わったら戻すから、多少遠くてええ」


 森川が答える。


「むしろ検査待ちの横に置きたくない」


「何で?」


「今回みたいになる」


「ああ」


 山岸は一度で納得した。


 三日目。


 ちょっとした問題が出た。


 《検査待ち》の場所に、二つの箱が並び切らなくなった。


「どうします?」


 村井が聞く。


「下の床へ置きます?」


 森川は首を振る。


「そこ置いたら、今度から床も検査待ちなんか分からんようになる」


「じゃあ?」


「今日のうちに検査順変える」


 森川は検査予定を見る。


 一箱を先に確認し、場所を空ける。


 そのために通常の製造順を大きく崩すほどではなかった。


 しかし直人は、この小さな詰まりを覚えておいた。


「箱増えたら、置き場も増やす?」


 直人が聞く。


「毎回二箱超えるなら考えます」


 森川が答える。


「今日一日だけなら増やしません」


「それがええな」


 仕組みを作ると、すぐ容量を増やしたくなる。


 でも、たまたま一日だけ多かったために専用棚を増やせば、そこへ別の物まで置き始める。


 まず実際の頻度を見る。


 一週間後。


 《確認待ち》と《検査待ち》を取り違えることはなかった。


 それ以上に変わったのは、箱がどこにあるか探す時間だった。


「宮田さん、あのカラーどうなった?」


 隆夫が聞く。


「検査待ちです」


「どこ?」


「そこです」


 宮田は探さず指した。


 箱に付いた札を読まなくても、置き場所で大まかな状態が分かる。


 近づけば、品番と数量を札で確認できる。


「ええな」


 隆夫が言った。


「でもこれ、全部の工程にやったら棚だらけなるな」


「やらんでええと思う」


 直人が答えた。


「問題起きたとこだけで」


「洗浄前とか洗浄後も分けた方がええんちゃう?」


 宮田が何気なく言った。


 直人はそこで少し考えた。


「それは、扱う仕事によるな」


 倉田精密の第二工場で、洗浄前と洗浄後を場所ごと分けた時も同じだった。


 ただし、だから黒瀬精機のすべての工程へ同じ形を押し込む必要はない。


 油が付いている物。


 洗浄した物。


 検査前。


 検査後。


 外注から戻った物。


 全部を札の違いだけで管理すれば、いつか似た状態を読み違える。


 反対に、すべてへ専用棚を作れば工場が棚だらけになる。


 混ぜた時の危険が大きいところだけ、物理的に離す。


 人が迷いやすい状態だけ、札の形も変える。


 その程度が黒瀬精機には合っていた。


「これ、クロフィックスに入れる?」


 隆夫が聞いた。


 直人はすぐ首を振らなかった。


「札そのものは関連用品にできると思う」


「置き方まで?」


「そこは別やろ」


「別?」


「この棚に《確認待ち》置いて、あっちに《検査待ち》置くんは、黒瀬の工場に合わせただけや。どこの会社でも同じ位置に置けるわけちゃう」


 森川も頷いた。


「場所は現場ごとに決めた方がええです」


「じゃあ、売るなら?」


 隆夫が聞く。


「形違いの状態札は売れる。でも『この札買えば管理できます』とは言わん方がええ」


「場所も決めて初めて使える?」


「そういうこと」


 直人は、前日に作った二種類の札を持った。


 一枚は横長。


 一枚はV字の切り欠き付き。


 たったそれだけの違いだ。


 だが、これは箱を飾るための札ではない。


 現場で間違えそうになった経験から生まれた物だった。


 佐野真紀が事務所から来た。


「この二種類、番号付けます?」


「商品番号?」


「もし今後また作るなら」


「付けよう。ただし《確認待ち》《検査待ち》いう用途名も消さんといて」


「番号だけにしない?」


「うん。現場の人が商品番号覚える必要ないから」


 佐野は納得して戻っていった。


 番号は注文や記録を探すために使う。


 現場では、見れば意味が分かる言葉を残す。


 その考え方も、以前から変わっていない。


 さらに数日後。


 倉田精密の担当者が別件で黒瀬へ来た。


 二種類の札を見て足を止める。


「これ、形違うんですね」


「状態違うから」


 隆夫が答えた。


「うちの番号札と違うやつ?」


「用途が違います。これは工程途中の状態札です」


「うちでも使えます?」


「使えるかもしれんけど、先に置き場見た方がええです」


「札だけ買うんじゃなく?」


「札だけ変えても、同じ場所へ箱並べたら間違う時あるから」


 担当者はV字の切り欠きを指でなぞった。


「なるほど」


「必要なら一回、現場でどこ混ざりやすいか見ましょう」


「また見てもらう費用掛かります?」


「掛かります」


 隆夫は笑って答えた。


「札代だけで工場見に行ったら、うち潰れます」


「そこは取るんですね」


「そこ取らんかったら、何で食うんですか」


 担当者も笑った。


 直人は少し離れた机で、その会話を聞いていた。


 札を売る。


 箱を売る。


 仕切りを売る。


 それだけなら、物の値段しか見えない。


 けれど本当に必要なのは、どこで人が迷い、どの状態が混ざると困るのかを見ることだ。


 今日の黒瀬精機も、二枚の札を作ったことより、二つの箱を同じ場所から離したことの方が大きかった。


 夕方、森川が《検査待ち》の場所から最後の一箱を持ち上げた。


「今日、空になりました」


「ええこと?」


 直人が聞く。


「検査全部終わったんやから、ええことでしょう」


「じゃあ何も置かん?」


「何も置きません」


 森川は空いた棚をそのままにした。


 空いているからと、別の工具を置かない。


 材料も置かない。


 箱も置かない。


 そこは《検査待ち》の物が来た時のための場所だからだ。


 棚の一段が空いている。


 以前なら、もったいないと思ったかもしれない。


 だが、その空白があるから、一箱を置いた瞬間に意味が生まれる。


 直人はその棚を見ていた。


 物を置く場所を作ることは、棚を埋めることではない。


 何を置いていい場所なのかを決め、違う物を置かないことだった。


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