第114話 入らない金具

 北河電機の先行十組は、最初から十組作らなかった。


 森川修一が、そう言ったからだ。


「十組いっぺんに走らせたら、十組いっぺんに間違うかもしれません」


 その一言で、黒瀬精機の朝の空気は少し変わった。


 机の上には、北河電機から届いた修正済みの注文書が置かれている。


 先行十組分。


 初期試作・確認対応一式。


 発注時五割。


 先行十組納品後五割。


 正式発注は、現場確認後。


 紙としては、条件が揃っていた。


 佐野真紀が受注箱に入れ、美智子が台帳へ転記し、隆夫が材料を手配した。南田板金、吉岡メッキ、田端商会にも、最初から声をかけている。


 つまり、いつもの危ない入り方ではなかった。


 それでも、森川は首を振った。


「紙が揃うたんと、物が通るんは別です」


 直人は、その言葉を黙って聞いていた。


 前の人生なら、紙が揃った時点で少し安心していたかもしれない。


 今回は違う。


 紙は、仕事を始めるために必要だ。


 だが、紙だけで仕事は終わらない。


 午前十時過ぎ、南田板金の南田が、軽トラックでやって来た。


 荷台には、まだ表面処理をしていない金具が二組だけ入った箱がある。


 先行十組ではない。


 曲げ方向と穴位置を確認するための、合わせ品だった。


 南田は箱を下ろしながら言った。


「本番の曲げやないで。確認用や」


 森川が頷く。


「分かってます」


「分かってるならええ。ここで本番扱いされたら困る」


 美智子がすぐに控えへ書く。


 北河先行ロット。


 曲げ確認用。


 二組。


 本番品ではない。


 南田はその文字を見て、少し笑った。


「奥さん、先回り早いな」


「早く書かんと、あとで混ざります」


「それはほんまや」


 確認台の上に、南田の金具が置かれた。


 薄い鉄板を曲げた、L字の押さえ金具。


 穴が二つ。


 曲げが一つ。


 見た目は、簡単に見える。


 けれど、黒瀬精機にいる誰も、もうそれを簡単とは言わなかった。


 小さいものほど、条件が隠れる。


 直人は、北河電機の確認表を横に置いた。


 用途。


 制御盤内配線束固定。


 使用環境。


 屋内、湿気あり、油分あり。


 許容範囲。


 外観小傷は軽微なら可。


 バリ不可。


 配線被覆を傷つける角不可。


 曲げ方向。


 確認済み。


 板厚。


 確認済み。


 表面処理。


 黒色亜鉛メッキ相当。


 ここまで揃っている。


 それでも、まだ足りない気がした。


 昼前、北河電機の長沢が現れた。


 手には、図面ではなく、古い制御盤の一部と、束ねられた配線のサンプルを持っていた。


「現場から持ってきました」


 長沢は、汗を拭きながら作業台へ置いた。


「すみません。配線束は実物に近いものです。完全な現場品ではないですが、太さと曲がり方はこれで見られます」


 森川の目が変わった。


「それが要ります」


 長沢は少し苦笑した。


「黒瀬さんから、現物ないと怖いと言われたので」


「怖いです」


 直人は正直に答えた。


 長沢は頷いた。


「現場でも、今回ばかりは先に見た方がええと言うてます」


 確認台の上に、南田の金具と制御盤の一部が並ぶ。


 隆夫が金具を当てた。


 穴は合った。


 曲げ方向も合っている。


 板厚も問題ない。


 南田が小さく息を吐く。


「そこまでは合うな」


 森川が配線束を持ち、金具の下へ通した。


 最初は、入ったように見えた。


 次の瞬間、配線束の端が、金具の内側の角で止まった。


 森川の手が止まる。


「……入らんな」


 作業場の音が、一瞬遠くなった。


 長沢が身を乗り出す。


「穴は合ってますよね」


「穴は合ってます」


 森川は配線束を少し戻し、もう一度ゆっくり通した。


 やはり止まる。


「でも、線が逃げへん」


 その言葉で、直人は胸の奥が冷えるのを感じた。


 穴は合っている。


 曲げも合っている。


 紙の条件も合っている。


 だが、現物が入らない。


 長沢は配線束を見つめた。


「そこ、引っかかりますか」


「ここです」


 森川は金具の内側を指した。


「角そのものが悪いというより、束ねているバンドの頭がこっちへ来てます。そこが逃げる場所がない」


 長沢が顔をしかめた。


「あ」


「何かありますか」


 直人が聞く。


 長沢は、少し言いにくそうに答えた。


「現場で、センサー線を一本追加してます。図面の配線束より、少し太くなっています」


 南田が腕を組んだ。


「それ、聞いてへんな」


「すみません。制御盤側の変更で、金具には関係ないと思ってました」


 森川が静かに言った。


「関係ありますわ」


 長沢は返す言葉がなかった。


 美智子は確認表を見た。


「変更履歴には、配線束の変更は入っていません」


「入れていませんでした」


 長沢は認めた。


 直人は、そこを責める気にはなれなかった。


 現場から見れば、配線が一本増えただけかもしれない。


 制御としては小さな変更かもしれない。


 だが、金具から見れば、入るか入らないかを分ける変更だった。


 紙は間違っていなかった。


 ただ、紙に載っていない現物があった。


 南田が言った。


「曲げを変えるなら、段取り変わります。穴位置そのままで逃げだけ作るなら、黒瀬さん側の加工で見る手もある。でも、本番十組全部に後加工するなら、それはそれで手間です」


 長沢が焦った顔になる。


「来週末の十組は、何とか必要なんです」


「十組全部、このまま作ったら全部入らんかもしれません」


 森川の声は冷静だった。


 だからこそ、重かった。


 隆夫は金具を手に取った。


「一つだけ、逃げを作ってみる」


 南田がすぐに言った。


「本番形にする前の修正試作やな」


「そうです」


 美智子が控えに書いた。


 修正試作。


 一組。


 配線束変更による逃げ確認。


 先行十組は一時保留。


 長沢がその文字を見て、少し慌てた。


「十組全部が止まるんですか」


「全部は走らせません」


 美智子が言った。


「でも、一組を通して、通る形が見えたら、残り九組へ進めます」


「納期は」


「今日中に一組を確認。明日の午前に南田さんへ修正条件を戻せれば、まだ来週末に間に合う可能性があります」


 佐野が、横から時計を見た。


「ただし、これは仕様変更ではなく、現物条件不足の追加確認として分けた方がいいです」


 長沢が佐野を見る。


「仕様変更ではない?」


「北河さんの図面が間違っていた、と決める話ではありません。配線束の現物条件が、金具側へ伝わっていなかったという話です」


 佐野は淡々と言った。


「ここを曖昧にすると、誰が悪いかの話になります。今必要なのは、通る形を決めることです」


 長沢は、少しだけ表情を緩めた。


「分かりました。佐伯にもそう伝えます」


「こちらからも伝えます」


 美智子が言った。


「追加確認費と、修正試作費が発生します」


 長沢は今度はすぐに頷いた。


「それは、現場から説明します。止めたくないので」


 森川は、確認用の金具を一つだけ取った。


 もう一つは、元の形の控えとして残す。


「一つは触らん。比較用に残します」


 直人は、その判断に頷いた。


 全部をいじらない。


 一つだけ直す。


 一つは元のまま残す。


 それだけで、戻れる場所ができる。


 森川は金具の内側に鉛筆で薄く印を付けた。


「ここを逃がします。削りすぎたら強度が落ちる。角を丸めて、バンドの頭だけ逃げるくらい」


 隆夫が横から言った。


「穴位置は触らん」


「触りません」


 南田が腕を組んで見ている。


「それで通るなら、曲げはこのまま行けるかもしれん。逃げは黒瀬さん側の追加加工か、うちで形を変えるか、あとで決める」


 森川は返事をせず、慎重に加工を始めた。


 派手な作業ではない。


 大きな音もしない。


 ただ、金属の角が少しずつ変わっていく。


 直人は、その手元を見ていた。


 紙の上には出ない数ミリ。


 けれど、その数ミリで、仕事は通るか止まるかが決まる。


 森川は一度だけ手を止め、指で角を撫でた。


「まだ当たるな」


 もう少しだけ逃がす。


 今度は布で拭き、バリを取る。


「これで試しましょう」


 確認台に戻す。


 隆夫が金具を当てる。


 穴は合う。


 森川が配線束を通す。


 ゆっくり。


 バンドの頭が、さっき止まった場所へ来る。


 今度は、わずかに逃げた。


 すっと通った。


 作業場の空気が変わった。


 長沢が、思わず声を出す。


「入った」


 森川はまだ笑わなかった。


「一回入っただけです」


 もう一度戻す。


 角度を少し変える。


 配線束を押し込みすぎない。


 三回試す。


 三回とも、通った。


 森川はそこで初めて小さく息を吐いた。


「この方向なら、いけるかもしれません」


 南田が修正した金具と元の金具を並べた。


「逃げはこのくらいか。曲げそのものは変えんで済みそうやな」


 隆夫が頷く。


「なら、先行十組は、南田さんの曲げはこのまま。黒瀬で逃げ加工を追加して確認。正式三十組の時に、南田さん側で形に入れるか検討」


 南田はすぐに答えた。


「それなら納期はまだ行ける」


 長沢が深く息を吐いた。


「助かります」


 美智子は首を振った。


「まだ助かってません。今は、一組が通っただけです」


 その言葉で、長沢は背筋を伸ばした。


「はい」


「今日中に、北河さん側で現物条件追加を承認してください。配線束変更あり。逃げ加工追加。先行十組のうち一組確認済み。残り九組はこの形で進める。そこまで書面でください」


「分かりました」


 長沢は、すぐに北河電機へ電話をかけた。


 事務所の黒電話ではなく、自分の会社へ戻るために外へ出る。


 声が少し大きくなる。


 現場で配線束が太くなっていたこと。


 黒瀬で一組だけ修正したこと。


 入ったこと。


 残り九組を進めるには、追加費用と確認が要ること。


 それを、必死に説明していた。


 直人は、その背中を見た。


 長沢も、戦っている。


 黒瀬のためだけではない。


 自分の現場を止めないために。


 そして、自分たちの見落としを、見落としのまま流さないために。


 電話を終えて戻ってきた長沢は、汗をかいていた。


「佐伯が、すぐFAXを出します。追加確認費と修正試作費も通します。残り九組は、この修正形で先行扱いにしてください」


 美智子は頷いた。


「FAXを確認してから、残りを進めます」


 森川が、少しだけ笑った。


「また待つんか」


「待つ」


 美智子は即答した。


「でも今回は、止めるために待つんやない。間違った九組を作らんために待つ」


 午後三時前、北河電機からFAXが来た。


 配線束変更あり。


 現物条件追加。


 逃げ加工追加。


 修正試作一組確認済み。


 残り九組、同形状で先行製作依頼。


 追加確認費、修正試作費承認。


 佐伯の字と、長沢の確認印が並んでいた。


 佐野がそれを見て、静かに言った。


「これで、進められます」


 美智子が赤鉛筆で丸を付ける。


 森川は、元の金具を一つ手に取った。


「ほな、残り九組が来た時に同じ逃げを入れられるよう、治具を見とくか」


 南田が立ち上がる。


「うちも戻って、曲げの残りを進める。逃げ寸法、控えをくれ」


 直人は修正品の寸法を控え、南田へ渡した。


 田端商会へも連絡が入る。


 先行十組は、予定通り来週末。


 ただし、黒瀬で逃げ加工確認後、箱の中で擦れないよう仕切りを入れる。


 田端は電話口で言った。


「入らんかったものが入ったんなら、今度は運んでる途中で傷つけたらあきませんな」


「頼みます」


「任せとき。けど、箱も見ますで」


「見てください」


 電話を切ると、直人は修正した一組を見た。


 小さな逃げ。


 ほんの数ミリ。


 だが、その数ミリが、北河の現場を止めず、南田の曲げを無駄にせず、黒瀬の先行十組を通す道になった。


 紙は必要だった。


 条件も必要だった。


 発注書も、確認表も、台帳も必要だった。


 だが、最後に止めたのは現物だった。


 そして、最後に進めたのも現物だった。


 森川が、作業台の端でぼそっと言った。


「紙では入ったことになってたんやけどな」


「うん」


 直人は答えた。


「でも、物は入らんかった」


「そこからが仕事ですわ」


 隆夫が静かに頷いた。


「今日は、そこで止まれたからよかった」


 美智子は台帳を開いた。


 北河先行十組。


 現物合わせ。


 配線束変更あり。


 逃げ加工追加。


 修正試作一組確認済み。


 残り九組へ反映予定。


 追加確認費、修正試作費承認。


 通常仕事への影響なし。


 最後に、赤鉛筆が一行を足す。


 紙は入口、現物が通る道を決める。


 直人は、その文字を見た。


 黒瀬式は、紙で勝つためのものではない。


 現物にたどり着く前に、間違った道へ進まないためのものだ。


 今日、紙は正しかった。


 それでも、現物は入らなかった。


 だからこそ、現場で直した。


 黒瀬精機はまた一つ、仕事の怖さを思い出した。


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