第115話 欠ける前に止める

 南田板金から残りの曲げ品が届いたのは、翌朝の九時半だった。


 田端商会の軽トラックではない。


 南田自身が、軽トラックで持ってきた。


 荷台には、細長い箱が一つ。


 その中に、北河電機の先行分に使う金具が九組分、油紙で挟まれて入っている。


 昨日、黒瀬精機で一組だけ修正した。


 配線束のバンド頭を逃がすため、内側の角をわずかに落とした。


 それが通った。


 だから今日は、残り九組に同じ逃げを入れる。


 それから吉岡メッキへ回し、黒色亜鉛メッキ相当の処理をしてもらう。


 その後、黒瀬で再確認し、田端商会に箱と積み向きを見てもらう。


 紙で見ると、流れはきれいだった。


 だが、作業台の上に並んだ九組の金具を見ると、きれいな紙とは別の重さがあった。


 薄い鉄板。


 小さな穴。


 同じ曲げ。


 同じ向き。


 同じように見えるものが九つ。


 しかし、一つでも向きを間違えれば、逃げは反対側へ入る。


 逃げを深くしすぎれば、強度が落ちる。


 浅ければ、また配線束が通らない。


 森川修一は、金具を一つ手に取り、昨日の修正品と並べた。


「同じように見えて、嫌な仕事ですな」


 南田が腕を組む。


「そっちで逃げ入れるなら、こっちは曲げの残りを止めんで済む。けど、逃げを間違えたらこっちの曲げも無駄になるで」


「分かってます」


 森川は短く答えた。


 いつものように軽口を叩かない。


 それだけで、直人には森川の集中が分かった。


 美智子は控えを書いた。


 北河先行分。


 南田板金曲げ品。


 残り九組。


 黒瀬精機にて逃げ加工。


 加工前確認。


 加工後確認。


 吉岡メッキへ回送予定。


 佐野真紀は、その横で午前便の箱を確認していた。


 倉田精密の保管札。


 中川機械の部品。


 高田包装のガイド部品。


 北河の仕事が来ても、通常仕事は止めない。


 それは昨日決めた線だった。


「森川さん」


 佐野が言った。


「北河の加工は、午前便が出てからでいいですか」


「その方がええです」


 森川はすぐに答えた。


「今から気になっても、午前便を飛ばしたら意味ないですから」


 佐野は頷き、北河の箱に小さな紙を貼った。


 午前便後。


 加工前確認。


 直人はそれを見て、小さく息を吐いた。


 箱の位置が変わるだけで、手が止まる。


 今は触らない。


 そう見えるだけで、人は少し待てる。


 午前便が出た後、森川はフライス盤の前に立った。


 隆夫が昨日の修正品を手に、寸法を読み上げる。


「逃げ幅、ここ。深さはこれ以上いらん」


 森川は頷く。


「治具を作ります」


「一個ずつ手で合わせるんやないんか」


 南田が聞くと、森川は首を振った。


「九個でも、手で合わせ続けたらズレます。簡単な当てを作って、同じ向きで止まるようにします」


 直人は、その言葉を聞いて少し安心した。


 森川は、急がない。


 急ぐ仕事ほど、先に当てを作る。


 それが職人の手順だった。


 端材を使い、簡単な当て治具を作る。


 金具を当てる場所。


 曲げの向き。


 逃げを入れる側。


 印を付ける場所。


 森川は一つずつ確認しながら、当て治具に鉛筆で印を付けた。


 宮田悟が横で控えを持っている。


「宮田、見ておけ」


 森川が言った。


「はい」


「これは機械を動かす仕事やない。向きを間違えんための仕事や」


 宮田は真剣に頷いた。


 最初の一個。


 金具を当て治具に置く。


 曲げ方向を確認。


 昨日の修正品と並べる。


 逃げ側を確認。


 森川がゆっくり加工した。


 金属の角がわずかに落ちる。


 布で拭き、バリを見る。


 配線束のサンプルを通す。


 すっと通る。


「一個目」


 宮田が控えへ丸を付ける。


 二個目。


 同じように置く。


 同じように削る。


 同じように通す。


「二個目」


 宮田の声は落ち着いていた。


 三個目に入る前に、事務所の電話が鳴った。


 佐野が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、丸江電装さんですね」


 直人の視線が一瞬そちらへ向いた。


 森川の手は止まっている。


 止めていた。


 そこは良かった。


 だが、電話の言葉が耳に入る。


 丸江。


 追加小袋。


 選別整理。


 昨日から続いている別件だ。


 佐野は短く答えた。


「丸江さんの件は、本日午後の相談枠です。午前中は北河さんの加工と通常納品があります。……はい、午後にお願いします」


 受話器を置く。


 森川は、何も言わず三個目を当て治具に置いた。


 その瞬間、宮田が小さく声を出した。


「森川さん」


 森川の手が止まる。


「何や」


「それ、向きが逆です」


 作業場が静かになった。


 森川は金具を見た。


 一瞬、表情が動かない。


 次に、昨日の修正品を見る。


 当て治具を見る。


 自分の手元を見る。


 確かに、金具は反対向きに置かれていた。


 逃げを入れれば、反対側に入るところだった。


 刃物は、まだ金具に当たっていない。


 宮田が止めたからだ。


 森川は、ゆっくり息を吐いた。


「……助かった」


 宮田は、手に持った控えを握ったまま固まっていた。


「すみません」


「謝るな」


 森川の声は低かった。


「止めてくれたんや」


 隆夫が、フライス盤の横へ来た。


「森川」


「すみません」


 今度は森川が頭を下げた。


「電話の声、聞いてもうた。手元を戻したつもりで、戻ってませんでした」


 誰もすぐには責めなかった。


 だが、その沈黙は重かった。


 もし宮田が見ていなければ、一個が駄目になっていた。


 一個だけなら、やり直せるかもしれない。


 しかし、それは「一個だけ」の話ではない。


 森川の手が、一瞬でも向きを間違えた。


 そこが怖かった。


 美智子が事務所から出てきた。


「いったん止めよう」


 森川はすぐに言った。


「まだいけます」


「止めよう」


 美智子の声は静かだった。


「いけるかどうかやない。今、向きを間違えかけた」


 森川は口を閉じた。


 南田も腕を組んだまま黙っている。


 森川は、悔しそうにフライス盤から手を離した。


「……はい」


 直人は、その顔を見た。


 森川が仕事を投げ出したわけではない。


 むしろ逆だ。


 だから止まりにくい。


 できる人ほど、自分の手で戻そうとする。


 まだいけると思う。


 でも、その「まだ」が、一番怖い。


 隆夫は、当て治具の横に置かれた三個目を見た。


「刃物は、無理に押すな」


 ぽつりと言った。


 森川が顔を上げる。


 それは、昔から黒瀬精機で何度も出た言葉だった。


 刃物の話だ。


 だが、今日は人の話でもあった。


「人も同じやな」


 隆夫は続けた。


「押しすぎたら欠ける」


 森川は、何も言い返さなかった。


 宮田が小さく言った。


「僕、見ます」


 全員が宮田を見る。


「加工はできません。でも、向きと控えは見ます。森川さんが置いたら、僕が昨日の修正品と照合します。声に出します」


 森川は少し眉を寄せた。


「お前に見張られながら仕事するんか」


 言い方だけ聞けば、少しきつい。


 だが、声に棘はなかった。


 宮田は怯まずに答えた。


「見張るんじゃなくて、戻れるようにします」


 森川は黙った。


 そして、少しだけ笑った。


「言うようになったな」


 佐野が横から言った。


「複数確認にしましょう」


「複数確認?」


「はい。森川さんが置く。宮田さんが向きを読む。直人さんが一個ごとの控えに丸を付ける。隆夫さんが最後に見る。全員で同じことをするのではなく、見る場所を分けます」


 美智子がすぐに紙を出した。


 北河逃げ加工。


 複数確認。


 森川。


 加工。


 宮田。


 向き読み上げ。


 直人。


 控え照合。


 隆夫。


 最終確認。


 森川がそれを見て、少し苦笑した。


「職人が紙に囲まれてるみたいや」


「囲むんやなくて、支えるんです」


 佐野は淡々と言った。


 森川は、少しだけ目を細めた。


「支える、か」


 五分だけ休憩を入れた。


 森川は作業場の入口で水を飲んだ。


 南田が隣に立つ。


「恥ずかしがることやないで」


「恥ずかしいですわ」


「そらそうやろな」


 南田はあっさり言った。


「けど、刃が当たる前に止まった。そこが大事や」


 森川は、水筒の蓋を閉めた。


「最近、仕事が増えてますな」


「増えてるな」


「黒瀬式や何やで、紙も箱も増えた。今度は北河の先行分。通常仕事もある」


「ある」


「まだいけると思ってました」


 南田は、森川の手を見た。


「まだいける、は怖いな」


「はい」


「うちでも同じや。曲げの職人が、あと一枚だけ、あと一枚だけ言うて、最後に指持っていかれかける」


 森川は眉をしかめた。


「それは笑えませんな」


「笑えん。せやから止める人間が要る」


 南田は作業場の中を見た。


 宮田は、控えを持って待っている。


 直人も、昨日の修正品を確認台に置き直している。


「黒瀬さんとこ、事務の席は増えた。次は現場の手やな」


 森川は何も言わなかった。


 だが、その言葉は事務所まで届いていた。


 午後の加工は、やり方を変えた。


 森川が金具を当て治具に置く。


 宮田が声に出す。


「曲げ、奥。逃げ、手前内側。昨日の修正品と同じ向き」


 直人が控えを見る。


「三個目。向き確認」


 森川が加工する。


 バリを取る。


 配線束を通す。


 隆夫が見る。


「通る」


 美智子が丸を付ける。


 四個目。


 五個目。


 六個目。


 一つずつ。


 遅い。


 確かに遅い。


 だが、さっきより怖くなかった。


 七個目に入る頃、宮田の声が少し枯れてきた。


 森川が言った。


「水飲め」


「大丈夫です」


「大丈夫やない。水飲め。人も押しすぎたら欠けるんやろ」


 宮田は、少し驚いてから頷いた。


「はい」


 直人は、そのやり取りを見ながら思った。


 これは、北河の金具だけの話ではない。


 黒瀬精機そのものの話だ。


 佐野が入って、事務の席ができた。


 紙の迷い道は少し減った。


 だが、仕事が受けられるようになれば、今度は現場の手が足りなくなる。


 森川に寄る。


 隆夫に寄る。


 直人に寄る。


 宮田に寄る。


 誰か一人が気合いで支えれば、また別の場所が欠ける。


 九個の逃げ加工が終わったのは、夕方近くだった。


 予定より遅い。


 だが、一個も駄目にしなかった。


 全部、配線束を通した。


 全部、バリを確認した。


 全部、控えに丸が付いた。


 美智子は台帳に書いた。


 北河先行九組。


 逃げ加工完了。


 複数確認実施。


 向き違い未然防止。


 加工ミスなし。


 吉岡メッキへ回送予定。


 田端商会。


 明日午前引き取り確認。


 森川は椅子に座り、深く息を吐いた。


「今日は疲れましたわ」


 それを聞いて、全員が少しだけ笑った。


 森川が、疲れたと口にした。


 それだけで、大きなことだった。


 隆夫が言った。


「疲れたと言えるなら、まだ大丈夫や」


「言えんようになったら?」


「止める」


 美智子が即答した。


 森川は苦笑した。


「奥さんは強いな」


「強くないと、職人が欠ける」


 その言葉に、直人は胸の奥が少し熱くなった。


 職人が欠ける。


 刃物が欠けるように、人の手も欠ける。


 それは、使い方を間違えれば、すぐに起きる。


 夕方、隆夫がぽつりと言った。


「現場の手、考えなあかんな」


 森川は少し顔を上げた。


「人を入れるんですか」


「すぐには分からん」


 隆夫は言った。


「けど、今のまま北河の仕事が続いたら、黒瀬だけではきつい」


 美智子が、台帳の別のページを開いた。


 そこには、前に書いた名前があった。


 村井健太。


 父、正則。


 見学。


 職人志望。


 手伝いなら賃金を払う。


 直人は、その文字を見た。


 健太。


 父親と一緒に見学へ来た、職人になりたい若い男。


 彼を事務の穴に押し込むのは違う。


 だが、現場の入口としてなら。


 掃除。


 材料出し。


 荷札。


 向き確認。


 触ってはいけないものを知ること。


 それなら、今の黒瀬精機に必要な手になるかもしれない。


 美智子は、赤鉛筆で一行を書いた。


 現場の入口を作る。


 森川は、それを見て少しだけ困ったように笑った。


「また、わしが教えるんですか」


「一人で教えさせへん」


 美智子は言った。


「それも押しすぎになる」


 隆夫が頷く。


「森川は手を見せる。宮田は紙と向きを見せる。直人は流れを見る。わしは、触らせてええものとあかんものを決める」


 直人は、その言葉に頷いた。


 人を増やすのは、ただ人手を足すことではない。


 教える時間を作ることだ。


 責任を分けることだ。


 失敗しない入口を作ることだ。


 佐野が事務の席を作ったように、今度は現場の入口を作らなければならない。


 その夜、吉岡メッキへ送る箱には、北河の九組が丁寧に並べられていた。


 箱の中で擦れないよう、田端へ確認する前の仮仕切りも入れてある。


 その横には、修正試作一組と、元の形の控え一組。


 比べられるように、戻れるように。


 美智子は最後に、台帳へもう一行を書いた。


 人も刃物も、欠ける前に止める。


 直人は、その文字を見つめた。


 仕事は増えた。


 受けられる形もできた。


 だが、受けた仕事を通すのは人の手だ。


 その手を守らなければ、どれだけ正しい紙があっても、工場は続かない。


 黒瀬精機は今日、金具の逃げを入れながら、自分たち自身の逃げも必要だと知った。


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