第113話 受けられる形

 佐野真紀が来て、黒瀬精機の机には箱が増えた。


 受注。


 納品。


 請求。


 相談。


 受付前相談。


 受付済み相談。


 木箱、紙箱、ふた付きの小箱、幅の広い樹脂箱。


 形も大きさも違う。


 見た目だけなら、少し散らかったようにも見える。


 だが、宮田悟には違って見えていた。


 紙の迷い道が減っている。


 朝確認の時、どの紙を見ればいいのかが前より分かる。


 どの紙を今は触らないのかも、前より分かる。


 それだけで、胸の奥の詰まり方が少し違った。


「午前便、倉田精密さん。保管札セット二組」


「箱詰め済みです」


 宮田が答える。


「高田包装さん、改善版ガイド追加一個」


「森川さんの最終確認待ちです」


 森川修一が、旋盤の前から軽く手を上げた。


「あと十分で見られます」


「中川機械さん、軸受け部品三本」


 隆夫がフライス盤の前で言う。


「午前中には仕上げる」


 佐野は、朝確認の紙に丸を付けた。


 それから、相談箱には触らず、机の右端へ寄せた。


 直人はその手つきを見ていた。


 見ないことを、仕事にしている。


 それが、佐野の強さだった。


 相談箱の中には、丸江電装の選別整理の続きも入っている。


 だが、それは午後の仕事だ。


 今は触らない。


 触れば、始まってしまう。


 午前九時半、田端商会の軽トラックが来た。


 倉田精密の保管札と、高田包装のガイド部品は時間通りに出た。


 田端は荷札を確認しながら、事務所の机を見て笑った。


「箱が増えましたな」


「増えました」


 佐野が答える。


「ただ、紙の山は減りました」


「ええことですわ。荷物も紙も、山になったら崩れますからな」


 田端はそう言って、荷台を閉めた。


 軽トラックが出ていくと、事務所には短い静けさが戻った。


 その静けさを破ったのは、FAXの音だった。


 佐野は反射的に立ち上がらなかった。


 午前便は出た。


 朝確認も一段落した。


 だから、今は見ていい。


 佐野は吐き出された紙を取り、まず一番上の送信元を見る。


「北河電機さんです」


 その一言で、直人は顔を上げた。


 美智子も赤鉛筆を手に取る。


 北河電機。


 前に請求書で止まりかけた会社だ。


 現場の長沢と購買の佐伯が、それぞれの立場で線を引いた相手でもある。


 佐野は紙を声に出して読まなかった。


 まず、受注なのか、相談なのか、請求なのかを見る。


 それから、静かに言った。


「これは、相談ではなく正式依頼前の受入可否確認です」


 美智子の手が止まる。


「正式依頼前?」


「はい。現場側では黒瀬精機へ依頼したい。ただし、購買側で納期と範囲を確認したい、という内容です」


 隆夫が事務所へ入ってきた。


「見せてくれ」


 佐野はFAXを隆夫へ渡す前に、右上へ鉛筆で小さく書いた。


 受入可否。


 社長判断。


 通常納品影響確認。


 それを見てから、隆夫は紙を読んだ。


 内容は、思ったより大きかった。


 北河電機の制御盤まわりで使う、配線押さえ金具と小型ブラケットの先行ロット。


 数量は三十組。


 金具は南田板金の仕事になる。


 小さな穴あけと仕上げは黒瀬精機でも見られる。


 黒い表面処理については、吉岡メッキの確認が要る。


 納品は二週間後。


 ただし、来週末までに十組だけ先に欲しい。


 搬送箱と識別札も必要。


 そして、最後に佐伯の短い一文があった。


 確認表を含めた形で依頼できるか、事前にご判断ください。


 森川が横から覗き込み、眉を上げた。


「大きいな」


 宮田も思わず紙を見た。


 三十組。


 今の黒瀬精機にとっては、小さくない。


 しかも黒瀬だけで完結しない。


 南田。


 吉岡。


 田端。


 最初から巻き込まなければならない。


 直人は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 前なら、この時点で怖かった。


 いや、今でも怖い。


 だが、怖いだけではない。


 これは、黒瀬式が防御だけではなく、仕事を受ける形として見られ始めたということだった。


 隆夫はFAXを机に置いた。


「受けたいか、受けたくないかで言えば、受けたい」


 森川が頷く。


「仕事としてはええ話です」


「けど、受け方を間違えたら、通常仕事が潰れる」


 美智子が言った。


 その声は浮かれていない。


 佐野は、すぐに朝確認とは別の紙を出した。


 受入可否確認。


 通常納品。


 機械時間。


 外注先。


 搬送。


 入金条件。


 確認表作成。


 その欄を見て、森川が少し笑った。


「もう紙があるんですか」


「今作りました」


 佐野は淡々と言った。


 直人は、その紙を見て頷いた。


 ここでいきなり見積もりに入るのではない。


 まず、受けられる形かどうかを見る。


 それは、今の黒瀬精機に必要な順番だった。


「通常納品」


 佐野が言う。


 美智子が台帳を開いた。


「今週は倉田精密の保管札がもう一便。中川機械の追加二件。高田包装のガイド正式分。クロフィックスの小口セットが二組」


「動かせるものはありますか」


「クロフィックスの小口セットは一日後ろへずらせる。でも倉田さんと中川さんは動かさない」


 隆夫が頷く。


「高田さんも動かさん。改善版が動き始めたところや」


「では、通常納品は三件固定、一件調整可」


 佐野が書く。


「機械時間」


 森川が腕を組んだ。


「黒瀬単独で全部穴あけと仕上げまで見るなら、無理です。高田さんと中川さんがある。夜やればいける、は無しでお願いします」


 直人は思わず森川を見た。


 森川の言葉は、先に線を引いていた。


 夜やればいける。


 それは、町工場で一番危ない言葉の一つだった。


「黒瀬が見るのは、治具と確認、あと小物の一部。板金は南田さんに最初から相談するべきです」


 森川は続けた。


「表面処理は吉岡さん。箱と運び方は田端さん。うちだけで抱えたら、たぶん欠けます」


 隆夫は短く言った。


「そうやな」


 佐野は書く。


 黒瀬単独不可。


 南田板金、吉岡メッキ、田端商会を初期から入れる。


「搬送」


 美智子が田端の便の予定を見た。


「来週末に十組先行なら、田端さんへ専用扱いが要るかもしれん。混載で傷ついたら意味がない」


「田端さんへ確認」


「はい」


「入金条件」


 佐野が言うと、美智子の赤鉛筆が止まった。


 隆夫も黙る。


 直人は、ここが一番重いと思った。


 大きい仕事は、入る金も大きい。


 だが、出ていく金も先に大きい。


 材料。


 板金。


 表面処理。


 運送。


 確認表作成。


 そして人の時間。


 これをいつもの調子で月末締め翌月払いにすれば、黒瀬側が先に苦しくなる。


 白井がいれば、同じことを言っただろう。


 美智子は、ゆっくり言った。


「初回やから、先行十組分については着手時に一部。残りは納品後。三十組全体は、十組の現場確認後に正式発注」


 森川が、少し驚いたように美智子を見る。


「強いですね」


「強くないと、黒瀬だけが立て替えることになる」


 佐野は頷いた。


「それは、北河さんへ最初に出す条件に入れた方がいいです」


 隆夫が佐野を見る。


「佐野さん、これ、受けられると思いますか」


 佐野はすぐには答えなかった。


 FAXを見る。


 予定表を見る。


 台帳を見る。


 それから、ゆっくり言った。


「受けられると思います」


 事務所の空気が少し動いた。


 佐野は続ける。


「ただし、黒瀬精機の仕事としてではなく、高井田の三社以上を最初から組んだ仕事としてです。黒瀬さんが全部を抱えるなら、受けない方がいいと思います」


 その一言に、直人は胸の奥で何かが定まるのを感じた。


 受けないための紙ではない。


 受けるための紙だ。


 ただし、無理な形では受けない。


「電話します」


 隆夫が言った。


 最初にかけたのは、南田板金だった。


「南田さん、北河さんから金具の先行ロットの話が来てます。曲げと穴位置の確認が必要です。……はい、数量は三十組。先行十組。……黒瀬が全部抱える話ではありません。最初から南田さんに入ってもらいたい」


 電話の向こうで、南田が何か言った。


 隆夫は少し笑った。


「そうです。後から助けてくれではなく、最初からです」


 受話器を置くと、隆夫が言った。


「南田さん、今日の夕方なら図面を見られる。曲げ方向と材料厚が出てないなら、そこは北河へ戻せと」


 佐野が書く。


 南田板金。


 夕方確認可。


 曲げ方向、板厚確認必須。


 次は吉岡メッキ。


 吉岡は相変わらず言葉が短かった。


「黒処理の条件が分からんと見られん」


 それだけだった。


 だが、それで十分だった。


 佐野は書く。


 吉岡メッキ。


 表面処理条件必須。


 使用環境、油分、湿気確認。


 次は田端商会。


 田端は電話口で笑った。


「また運ぶ前から運ぶ話ですか」


「今回は最初から聞く」


 隆夫が言うと、田端の声が少しだけ真面目になった。


「先行十組なら、混載でいけるかもしれません。ただ、箱の形と積み向きは先に決めてください。黒処理なら擦れが怖いです」


 佐野が書く。


 田端商会。


 混載可否は箱次第。


 積み向き。


 擦れ防止。


 先行十組。


 三つの電話が終わる頃には、FAX一枚だった話が、仕事の形を持ち始めていた。


 南田。


 吉岡。


 田端。


 黒瀬。


 それぞれが見る場所を持つ。


 それぞれが出す条件を持つ。


 直人は、机の上に並んだ紙を見た。


 紙が増えている。


 だが、今度の紙は重くない。


 前へ進むための紙だ。


 美智子が北河電機へ電話をかけた。


「黒瀬精機です。佐伯さん、FAX拝見しました。……はい。受入可否についてです」


 佐伯の声は聞こえない。


 だが、美智子の表情は崩れなかった。


「まず、黒瀬単独では受けません。南田板金さん、吉岡メッキさん、田端商会さんを初期から入れた形でなら、受けられる可能性があります。……はい。確認表も含めます」


 直人は、美智子の横で紙を見ている。


 美智子は続けた。


「条件がいくつかあります。曲げ方向、板厚、表面処理条件、使用環境、搬送時の傷許容。これを今日中にいただきたいです。……はい」


 少し沈黙。


「それと、先行十組分は、確認表作成と初期段取り費を含めた形で別見積もりになります。着手時に一部お支払いをお願いしたいです」


 森川が小さく息を止めた。


 宮田も鉛筆を止める。


 直人も、美智子を見る。


 そこまで言うのか。


 いや、言わなければならない。


 大きな仕事を受けるということは、相手の都合に合わせて立て替えることではない。


 美智子は、受話器を握ったまま静かに聞いていた。


 やがて、短く答えた。


「はい。佐伯さんの方で購買へ確認ですね。長沢さんにも現場条件を確認してください。……はい。今日中に一度、戻しをお願いします」


 受話器を置くと、事務所の空気が一気に動いた。


 森川が言った。


「通りそうですか」


「佐伯さんは、条件として理解してくれた」


 美智子は答えた。


「ただ、購買で一度止まるかもしれん」


「止まったら?」


 宮田が聞く。


 美智子は赤鉛筆を置いた。


「止まったら、受けない」


 その一言は強かった。


 だが、直人には不思議と怖くなかった。


 受けたい。


 でも、条件なしでは受けない。


 その線があるからこそ、受けることが怖すぎなくなる。


 午後二時過ぎ、北河電機からFAXが返ってきた。


 佐野の勤務時間は三時までだ。


 彼女は、戻ってきた紙をすぐに相談箱ではなく、受入可否の紙の横へ置いた。


「これは戻しです」


 曲げ方向。


 板厚。


 使用環境。


 湿気あり。


 油分あり。


 表面処理は黒色亜鉛メッキ相当。


 搬送時の外観小傷は軽微なら可。


 ただし、配線に触れるバリ不可。


 長沢の手書きで、現場確認欄も埋まっている。


 最後に、佐伯の字があった。


 初期段取り費、確認表作成費、先行十組分の着手金について、購買へ確認中。


 今日中に回答します。


 直人は、その一文を見て小さく息を吐いた。


 まだ決まっていない。


 だが、話は進んでいる。


 佐野は、書類を美智子へ渡した。


「ここまで揃ったなら、夕方の南田さん確認に出せます」


「佐野さんは時間やね」


 美智子が時計を見る。


 十四時五十分。


 佐野は鞄を閉じた。


「はい。ここから先は、社長判断と現場判断です」


「助かりました」


「今日は、受けられるかどうかを見る日でした。受けると決める日ではありません」


 佐野はそう言って、軽く頭を下げた。


 その言葉に、直人は頷いた。


 すぐ決めない。


 でも、止まらない。


 順番があるだけだ。


 佐野が帰った後、夕方に南田が来た。


 汗を拭きながら図面を見て、すぐに言った。


「曲げ方向はこれで分かる。板厚も出た。けど、穴位置の公差が甘い。ここは黒瀬さんで治具見た方がええ」


 森川が頷く。


「治具を見るなら、先行十組だけやな。三十組全部の治具にするのはまだ早い」


 吉岡からはFAXが来た。


 黒色亜鉛メッキ相当。


 油分あり。


 湿気あり。


 乾燥状態確認要。


 吉岡らしい短い言葉だった。


 田端からも電話が来た。


「先行十組は、混載注意でいけます。箱を寝かせるか立てるかは、現物見て決めたいです」


 隆夫は、すべてを机の上に並べた。


 北河電機。


 南田板金。


 吉岡メッキ。


 田端商会。


 黒瀬精機。


 それぞれの条件が、少しずつ揃っている。


 夜になる前に、北河電機から最後のFAXが届いた。


 佐伯の字だった。


 先行十組分。


 初期段取り費、確認表作成費、着手金について承認。


 正式発注は、先行十組の現場確認後。


 直人は、その紙を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


 通った。


 ただし、無理を飲み込んで通ったのではない。


 条件を並べて通った。


 美智子は、静かに受話器を取った。


「北河電機さんへ返事します」


 隆夫が頷いた。


「受けよう」


 森川が腕を組む。


「受けるんですな」


「黒瀬だけで抱えない。南田さん、吉岡さん、田端さんと最初から組む。通常仕事は動かさない。先行十組から」


 隆夫は一つずつ言った。


「その条件なら、受ける」


 美智子が電話で佐伯へ伝える。


「黒瀬精機です。条件付きでお受けします。……はい。黒瀬精機が窓口になります。ただし、南田板金さん、吉岡メッキさん、田端商会さんには最初から入ってもらう形です」


 黒瀬精機が窓口。


 その言葉は重かった。


 連絡会という名前に隠れない。


 誰が受け、誰が何を見るのかを、最初から分ける。


 それが今の黒瀬精機の線だった。


 電話が終わると、美智子は台帳を開いた。


 北河電機。


 先行十組。


 条件付き受注。


 黒瀬精機窓口。


 初期段取り費。


 確認表作成費。


 着手金あり。


 南田板金。


 吉岡メッキ。


 田端商会。


 通常仕事は動かさない。


 直人は、その文字を見つめた。


 佐野が来る前なら、きっとここまで早く形にできなかった。


 受けたい気持ちだけで、黒瀬が抱えすぎていたかもしれない。


 あるいは、怖くなって断っていたかもしれない。


 だが、今日は違った。


 机が空いた。


 紙が分かれた。


 通常仕事が見えた。


 外へ頼む先が最初から並んだ。


 だから、受けられた。


 宮田が、小さく言った。


「事務の席ができたら、仕事も増えるんですね」


「増えるというより」


 直人は少し考えた。


「受けられる形が見えるようになるんやと思う」


 森川が、にやっと笑った。


「直坊、また面倒なこと言うてますな」


「面倒でも、今日は前に進んだ」


「それは確かや」


 作業場では、夜の灯りが機械の金属面に反射していた。


 黒瀬精機は、今日、大きな工場になったわけではない。


 機械が増えたわけでもない。


 人が何十人も増えたわけでもない。


 ただ、受けられる形を作った。


 それだけで、今までなら怖かった仕事が、一つ前へ進んだ。


 美智子は、最後に赤鉛筆で一行を書いた。


 受けるためにも、線を引く。


 直人は、その文字を見て頷いた。


 断るためだけの線ではない。


 守るためだけの線でもない。


 ちゃんと受けるための線。


 黒瀬精機は今日、それを一つ覚えた。


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