第110話 事務の席

 朝確認を始めて、三日目の朝だった。


 黒瀬精機の作業台には、いつもより早く白い紙が一枚置かれている。


 美智子の赤鉛筆で、上に大きく書かれていた。


 朝確認。


 その下には、五つだけ欄があった。


 午前便。


 午後便。


 今日中加工。


 外からの相談。


 止めること。


 宮田悟は、その紙を前にして、いつもより早く出社していた。


 手には鉛筆。


 横には、昨日のFAX控え。


 棚には、倉田精密、中川機械、高田包装、北河電機、松原製作所、南田板金、田端商会のファイルが並んでいる。


 数だけ見れば、少し前より明らかに増えていた。


 宮田は事務員ではない。


 黒瀬精機に入ってまだ日も浅い、若い社員だ。現場の段取りを覚え、控えの整理を覚え、荷札やファイルの意味を少しずつ覚えている途中だった。


 だが、黒瀬式が広がるにつれて、電話、FAX、相談控え、納品控え、請求の写しまで、いつの間にか宮田の机の周りへ流れ込むようになっていた。


 それは、宮田が事務方になったということではない。


 事務の仕事が、置き場を失って宮田のところへ積まれていたのだ。


「午前便。倉田精密さん、保管札セット二組。田端さん九時半」


 直人が棚を見る。


「箱詰め済み。控えあります」


「午前引き取り、中川機械さん、軸受け部品二本」


 森川修一が旋盤の前から答える。


「面取りまで終わってます」


「午後便、高田包装さん、改善版ガイド部品三個」


 隆夫が頷いた。


「昼前に最終確認する」


「外からの相談、FAX二件。確認表について一件、北河さん経由で紹介一件」


 美智子がすぐに言った。


「午前便が終わるまで触らない」


「はい」


 そこまでは良かった。


 だが、八時二十分に電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、東大阪商工会議所さん。藤野さんですね」


 宮田の鉛筆が止まる。


 美智子は受話器を肩に挟み、手元の紙を探した。


「はい。来週火曜の相談枠ですね。……ええ、今週は埋まっています。……資料はFAXで先に」


 その横で、別のFAXが動き始めた。


 紙が吐き出される。


 宮田は反射的に立ち上がり、FAXの紙を取りに行く。


 その途中で、朝確認の紙に置いていた鉛筆が転がり、倉田精密の控えの上で止まった。


 直人は、それを見た。


 昨日決めたはずだ。


 相談FAXは、午前便が終わってから見る。


 だが、電話が鳴り、FAXが動いた瞬間、宮田の手はそちらへ向かっていた。


「宮田くん」


 直人が声をかけると、宮田ははっとした顔で止まった。


「あ……すみません」


 美智子は電話を切ったあと、何も言わずにFAXの紙を机の端へ裏返して置いた。


「今は見ない」


「はい」


 宮田は小さく返事をした。


 森川が旋盤の前で腕を組む。


「朝確認してても、電話とFAXが鳴ったらそっちへ手が行きますな」


「行く」


 美智子は短く言った。


「だから、もう悟くん一人に流したらあかんね」


 事務所が静かになった。


 隆夫が顔を上げる。


「流したらあかん、か」


「うん」


 美智子は、昨日から付けていた別の紙を出した。


 そこには、赤鉛筆で時間が書かれている。


 朝確認、十五分。


 午前便照合、二十分。


 FAX整理、三十分。


 相談返信、二十五分。


 請求控え整理、四十分。


 田端商会の待機費明細、十五分。


 北河電機の承認欄確認、二十分。


 倉田精密の保管札控え、十五分。


 合計すると、半日近い。


 それは、機械の前に立たない仕事だった。


 だが、誰かの時間を確実に食っている。


 美智子は紙を指で押さえた。


「これ、全部仕事やよ」


 森川が少し顔をしかめる。


「また、えらい量ですな」


「今までは私と悟くんと直人で、隙間にやってた」


「隙間がもうないんか」


 隆夫が言うと、美智子は頷いた。


「ない。隙間でやったら、倉田さんの札がまた落ちかける」


 宮田が俯いた。


 美智子はすぐに言った。


「悟くんを責めてるんやないよ。仕組みの話や」


「はい」


「加工の仕事は、機械が足りんかったら分かる。材料が足りんかったら分かる。刃物が欠けたら分かる。でも事務は、足りなくても見えにくい。誰かが余分に抱えたら、回っているように見える」


 直人は、その言葉に黙って頷いた。


 前の人生でも、そうだった。


 事務は、最後まで人の我慢で隠れる。


 納品書。


 請求書。


 電話。


 控え。


 伝票。


 振込確認。


 全部、誰かが気を利かせて回しているうちは、経営者の目に不足として映りにくい。


 そして、映った時には、もう誰かが疲れている。


 森川が、ふと思い出したように言った。


「村井さんとこの健太くんは、どうですか。前に見学に来てた子」


 直人も、あの若い男の顔を思い出した。


 父親の正則と一緒に黒瀬精機へ来た、職人になりたいと言っていた健太。


 測定器棚や荷札を見て、機械を触る前に、まず触ってはいけないものを知るところから始めた子だった。


 美智子は少し考え、それから首を振った。


「健太くんは職人志望や」


「でも、荷札とか控えなら」


「覚えてもらうのはええ。掃除も、材料出しも、荷札の意味も、現場に入る入口として大事やと思う」


 美智子は、机の上のFAXを指した。


「でも、今足りないのは、電話とFAXと請求を分ける人や。健太くんをここへ座らせたら、あの子の道も曲げてしまう」


 森川は、黙って頷いた。


「それは、そうやな」


 直人も同じだった。


 人が足りないからといって、誰でも空いた穴へ入れればいいわけではない。


 健太は、いつか現場へ入るかもしれない子だ。


 今ここで事務の穴を埋めるために呼ぶのは違う。


 隆夫は、しばらく黙っていた。


「人を雇うか」


 森川が、今度は真面目な顔で言った。


「事務員さんですか」


「せや」


 隆夫は美智子を見た。


「ただ、固定費になる」


「分かってる」


 美智子はすぐに答えた。


「でも、雇わずに落とす信用も固定損や」


 その言葉で、事務所がまた静かになった。


 美智子は続けた。


「倉田さんの札を落としかけた。田端さんを待たせた。悟くんが朝からずっと緊張してる。直人も相談FAXばかり見てる。これを続けたら、いつか大きく落とす」


 隆夫は腕を組んだ。


「どんな人が要る」


「普通の伝票事務だけでは足らん」


 美智子は言った。


「電話を受けて、急ぎか後回しかを分けられる人。FAXを見て、相談、受注、納品、請求を分けられる人。控えを綴じて終わりやなく、どの仕事に戻る紙か分かる人」


 その日の昼前、白井が高井田信用金庫から顔を出した。


 もともとは北河電機の請求処理の確認で来る予定だった。


 だが、事務所の空気を見て、すぐに何かを察したようだった。


「今日は、少し重い話ですか」


「事務員さんを入れるかどうかです」


 美智子が言うと、白井は小さく頷いた。


「必要だと思います」


 隆夫が苦笑する。


「早いですね」


「金融機関から見ても、黒瀬さんの仕事は増えています。加工だけでなく、相談、確認表、請求分け、控え管理。これを現場と家族だけで回すと、どこかで無理が出ます」


 白井は、机の上の朝確認を見た。


「ただし、人を入れるなら、何を任せるかを決めた方がいいです」


「何でもやって、は駄目ですか」


 宮田が聞くと、白井は首を振った。


「それが一番危ないです。何でもやって、は、結局どこにも責任の線が引けません」


 美智子が頷いた。


「私もそう思う」


 直人は白紙を出した。


 事務員に任せること。


 電話一次受け。


 FAX仕分け。


 納品控え整理。


 請求控え整理。


 朝確認の準備。


 相談枠の受付管理。


 任せないこと。


 受注判断。


 見積金額決定。


 客先への技術回答。


 原価内訳の開示。


 白井はそれを見て言った。


「かなり良いと思います。事務員さんを入れるなら、その役割表を最初に見せた方がいいです」


 森川が言う。


「けど、そんな人、すぐ見つかりますかね」


 その時、事務所の黒電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、藤野さん」


 美智子は少し聞いてから、直人たちを見た。


「……ええ。事務経験のある方ですか。……今ですか?」


 隆夫が眉を上げる。


 美智子は受話器を押さえた。


「藤野さんのところに、事務の仕事を探している人が相談に来てるらしいわ。前に機械部品商社で、購買と納品事務をしてた人やって」


「会うだけ会おう」


 隆夫はすぐに言った。


 午後二時過ぎ、藤野が一人の女性を連れて黒瀬精機へ来た。


 年は四十前後に見えた。


 髪は後ろで短くまとめ、派手さのない紺色のブラウスを着ている。手には古い黒い鞄。歩き方は落ち着いているが、目だけは事務所の中をよく見ていた。


 藤野が紹介する。


「こちら、佐野真紀さんです。以前、布施の機械部品商社で、購買と納品事務をされていました」


 佐野真紀は、丁寧に頭を下げた。


「佐野です。今日は急にお時間をいただき、ありがとうございます」


 美智子が椅子をすすめた。


「黒瀬美智子です。こちらが主人の隆夫、息子の直人。職人の森川さん、それから若い社員の宮田くんです。今は現場の段取りと控えの整理を覚えてもらっています」


 宮田は慌てて頭を下げた。


 森川も少しぎこちなく会釈する。


 佐野は、作業台の上の朝確認を見た。


 それから、棚のファイルへ目を移す。


 倉田精密。


 中川機械。


 北河電機。


 田端商会。


 松原製作所。


 南田板金。


 高田包装。


 彼女はすぐには座らなかった。


「すみません。少し見てもよろしいですか」


 美智子が頷く。


「どうぞ」


 佐野は、朝確認の紙を手に取った。


 午前便。


 午後便。


 今日中加工。


 外からの相談。


 止めること。


 次に、裏返して置かれたFAXの束を見る。


「相談と受注と納品連絡が、同じ場所に積まれていますね」


 直人は、思わず宮田と目を合わせた。


 佐野は続ける。


「これは、混ざります」


 初対面で、いきなりだった。


 森川が小さく笑いそうになったが、美智子は真剣に聞いていた。


「どう分けますか」


「まず箱を分けます」


 佐野は机の端を指した。


「受注、納品、請求、相談。最低四つです。相談はさらに、受付前と受付済みに分けた方がいいと思います」


 宮田が鉛筆を持った。


 佐野はその動きを見て、少しだけ表情を緩めた。


「あと、電話メモに折り返し期限がありません。今日中なのか、明日でいいのか、来週の相談枠なのか。そこがないと、全部が急ぎに見えます」


 直人は、胸の中で何かが鳴った気がした。


 これはただの伝票係ではない。


 紙の流れを見る人だ。


 その時、机の端に置いていたFAXの一枚が、風で少しめくれた。


 佐野の目がそこへ動く。


「これは、今日出る紙ではありませんか」


 美智子が顔を向ける。


「どれ?」


 佐野はFAXを指で押さえた。


「高田包装さんの午後便、改善版ガイド部品。三個から四個に変更希望と書いてあります。受信時刻は昨日の夕方です」


 直人の背中が、ひやりとした。


 高田包装の午後便は、朝確認では三個になっていた。


 変更希望のFAXが、相談FAXの束に紛れていたのだ。


 佐野は、紙を持ち上げて言った。


「これは相談ではなく、納品数量の変更確認です。今日の午後便に関係します」


 美智子はすぐに受話器を取った。


「高田包装さんへ確認する」


 隆夫が直人を見る。


「三個で進めてるな」


「はい」


「四個目は材料あります」


 森川が作業場から答えた。


「ただ、午後便に乗せるなら今決めんと間に合いません」


 美智子は電話で確認した。


 高田包装側は、予備として一個追加したいが、今日無理なら明日でもよいという話だった。


 美智子は受話器を置いた。


「四個目は明日でいいそうや。今日は三個。追加一個は明日午前」


 佐野は、すぐに紙を二つに分けた。


「では、これは今日の午後便ではなく、明日の午前便へ回す紙ですね」


 宮田が、慌てて書いた。


 高田包装。


 追加一個。


 明日午前便。


 直人は、佐野の手元を見ていた。


 たった一枚のFAX。


 だが、それが相談の山に紛れたままなら、夕方に慌てていた。


 もしくは、三個だけ納めてから「四個頼んだはず」と言われていたかもしれない。


 佐野は、朝確認の紙へ目を戻した。


「朝確認は良いと思います。ただ、朝に見るものが多くなりすぎると、また形だけになります」


 美智子が聞く。


「何を減らしますか」


「朝見るのは、今日動くものだけです」


 佐野は迷わず答えた。


「相談枠の管理は、朝確認とは別にした方がいいです。朝は出荷と加工を落とさないための時間。相談は、決めた時間にまとめて見る。混ぜると、また午前便が沈みます」


 宮田の顔が、少しだけ痛そうになった。


 佐野はそれに気づいたのか、穏やかに言った。


「誰かが悪いのではなく、置き方が悪いんです」


 その一言で、宮田の肩が少し下りた。


 美智子は、赤鉛筆を持ったまま佐野を見ていた。


「佐野さん、うちは普通の事務だけではないです」


「見れば分かります」


 佐野は静かに答えた。


「普通の納品書と請求書だけなら、ここまで紙は増えません。確認表や相談受付もありますね」


「はい」


「ただ、全部を事務員に任せるのは無理です。受けるかどうか、値段を付けるかどうか、技術的に答えるかどうかは、社長さんと現場の判断です」


 隆夫が、少しだけ身を乗り出した。


「そこまで分かりますか」


「前の職場で、購買と現場の間にいましたので」


 佐野は言った。


「現場に聞かないと答えられないことを、事務が勝手に返すと後で揉めます。逆に、事務で止められるものを全部現場へ投げると、現場が止まります」


 白井が、横で小さく頷いた。


 藤野も、少し驚いた顔をしている。


 森川がぼそっと言った。


「事務も刃物みたいなもんですな」


 佐野が森川を見る。


「刃物、ですか」


「無理に押したら欠ける。けど、きちんと仕事する力で動かしたら、ええ仕事する」


 佐野は少し考え、それから小さく頷いた。


「事務も、急がせるところを間違えると欠けます」


 その言葉に、事務所が一瞬静かになった。


 美智子が、赤鉛筆を置いた。


「勤務時間の希望はありますか」


「子どもがまだ小学生ですので、毎日は難しいです。週三日、九時から三時までなら働けます。ただ、月末と締め日は相談させてください」


 美智子はすぐに台帳を開いた。


「時給は、近所の事務パートより少し高めにします。その代わり、ただの留守番ではありません」


「分かっています」


「試用一か月。まずはFAX仕分け、電話メモ、朝確認の準備、納品控えの整理から」


「はい」


「相談受付は、最初は私と一緒に見てもらいます」


「その方がいいと思います」


 隆夫が言った。


「佐野さん、うちは小さい工場です。大きい会社みたいに整った事務所ではありません」


「はい」


「その代わり、勝手に安く使うつもりはありません。事務にも値段があるという話を、今ちょうどしていたところです」


 佐野は、少しだけ目を細めた。


「それなら、働きやすいかもしれません」


 その日の夕方、佐野は改めて週明けから来ることになった。


 初日は午前中だけ。


 まずは、机の上の紙の置き場を作る。


 受注。


 納品。


 請求。


 相談。


 受付前相談。


 受付済み相談。


 そして、朝確認用。


 佐野が帰ったあと、森川は作業場へ戻りながら言った。


「えらい人が来たな」


「まだ来ると決まっただけや」


 隆夫が言う。


「でも、机の上は変わりそうやな」


 宮田は、佐野が分けた紙を見ていた。


「僕、現場の段取りをもっと覚えます」


 直人が宮田を見る。


 宮田は続けた。


「紙を全部抱えるんじゃなくて、現場に戻す紙をちゃんと戻せるようになりたいです」


 森川が笑った。


「ええやないか。宮田は宮田で育ったらええ」


 直人は、その言葉に頷いた。


 美智子は台帳に新しい欄を作っていた。


 事務の席。


 佐野真紀。


 週三日。


 九時から三時。


 試用一か月。


 担当。


 FAX仕分け。


 電話メモ。


 朝確認準備。


 納品控え整理。


 相談受付補助。


 任せないこと。


 受注判断。


 見積判断。


 技術回答。


 原価開示。


 美智子は最後に、赤鉛筆で一行を書いた。


 事務も、工場を動かす手である。


 直人は、その文字を見た。


 機械を動かす手。


 刃物を替える手。


 荷物を運ぶ手。


 札を貼る手。


 そして、紙を迷子にしない手。


 黒瀬精機は、初めて事務の席を増やすことになった。


 それは単なる人手の追加ではない。


 黒瀬式を、黒瀬精機自身が潰れずに続けるための、新しい道具だった。


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