第111話 置いていく箱
佐野真紀が来る初日の朝、黒瀬精機の前には、九時前から小さな箱が置かれていた。
いや、置かれていたのではない。
置かれかけていた。
軽ワゴンから降りてきた男が、両手で抱えた段ボール箱を工場の入口脇へ下ろそうとしていたのだ。
美智子が、ちょうどシャッターを上げたところで手を止めた。
「すみません。それ、何の荷物ですか」
男は少し驚いた顔をした。
「黒瀬精機さんですよね。北河さんから聞いて来ました。ちょっと見てもらいたい部品がありまして」
直人は、作業台の前で朝確認の紙を持っていた。
午前便。
午後便。
今日中加工。
外からの相談。
止めること。
昨日から始めたばかりの朝確認だ。
その一番下に、今日も美智子の字で書かれている。
相談は午前便後。
なのに、相談そのものが箱を抱えて玄関に来ている。
森川修一が旋盤の前から顔を上げた。
「朝から濃いのが来ましたな」
男は名刺を出した。
丸江電装。
資材課。
平野。
「確認表の話を聞きまして。うちでも外注先に使えないかと思って。ついでに、これも見てもらえれば」
「ついで?」
美智子の声が少し低くなる。
平野は段ボール箱の蓋を少し開けた。
中には、金属の小物がいくつも入っていた。
曲げた板。
小さな金具。
黒っぽい表面処理のもの。
油紙に包まれたもの。
裸で重なっているもの。
全部が同じ部品には見えない。
「急ぎなんです。午後また来ますので、それまでに黒瀬さんの方で見てもらえたら助かります」
直人の背中が冷えた。
置いていくつもりだ。
名前だけ置いて、条件も数量も用途も分からない部品を、黒瀬の工場に置いていくつもりでいる。
見ただけなら無料。
預けただけなら相談。
そういう顔だった。
美智子が口を開こうとした時、入口の外から静かな声がした。
「それは、まだ預かれません」
全員が振り向いた。
佐野真紀だった。
紺色のブラウスに、黒い鞄。
髪は後ろでまとめている。
約束の時間より少し早い。
だが、息は乱れていなかった。
佐野は、黒瀬の人間の後ろに隠れるでもなく、かといって前へ出すぎるでもなく、箱の横に立った。
平野が眉を寄せる。
「あなたは?」
「今日からこちらで事務を手伝う佐野です」
佐野は軽く頭を下げた。
「この箱は、まだ黒瀬精機の荷物ではありません」
平野の顔が少し硬くなる。
「見てもらうだけなんですが」
「見てもらうだけでも、預かれば責任が出ます」
佐野は箱の蓋を見た。
「数量は何個ですか」
「ええと、たぶん三十個くらいです」
「同じ品番ですか」
「似たものです」
「用途は」
「制御盤の中の部品です」
「不具合内容は」
「外注先から戻ってきたものに、ちょっと傷と曲がりが」
「その傷は、預ける前からあったものですか」
平野は言葉を止めた。
佐野は続けた。
「黒瀬精機に置いた後で増えた、と言われた時に、どちらが証明しますか」
工場の中が静かになった。
森川が、腕を組み直す。
隆夫も、じっと佐野を見ていた。
佐野は箱には触れなかった。
ただ、蓋の隙間から中を見ている。
「裸のものと、油紙に包まれたものが混ざっています。黒い処理のものと、地の色が見えているものもあります。曲げ方向が違うものも混じっているように見えます」
平野が少し慌てる。
「いや、それはうちでもまだ選別前で」
「なら、なおさら預かれません」
佐野の声は変わらなかった。
「選別前の箱を預かると、ここで混ざったのか、元から混ざっていたのか分からなくなります」
直人は、思わず息を止めていた。
速い。
見ている場所が違う。
部品そのものを評価しているのではない。
黒瀬が預かった瞬間に発生する責任を見ている。
美智子が、短く言った。
「佐野さん、そのまま続けて」
「はい」
佐野は鞄から小さな手帳を出した。
その場で、余白に線を引く。
預かる前に確認すること。
会社名。
担当者。
品番。
数量。
用途。
不具合内容。
預かり範囲。
返却方法。
費用確認。
手帳の字は小さいが、迷いがなかった。
「平野さん。今この箱を置いていかれるなら、少なくとも数量と状態を一緒に確認してください。確認に時間がかかる場合は、預かり確認費が発生します」
「預かり確認費?」
「はい。数えて、状態を見て、ここから先の傷や混在を黒瀬精機の責任にしないための確認です」
平野は困ったように直人を見た。
直人は、逃げずに頷いた。
「佐野さんの言う通りです。現物を預かるなら、確認なしでは受けられません」
「でも、北河さんからは、黒瀬さんなら相談に乗ってくれると」
隆夫が口を開いた。
「相談には乗ります。ただし、置いていくだけは困ります」
森川がぼそっと言う。
「箱だけ残されるのが一番怖いですわ」
平野は黙った。
朝の光が、段ボール箱の端を照らしている。
箱の中では、金具がわずかに擦れ合う音を立てた。
佐野は、その音を聞いて蓋をそっと閉めた。
「まず、二つに分けてください」
「二つ?」
「今日、黒瀬精機に相談したい内容と、今日置いていきたい現物です」
平野は、まだ理解しきれていない顔だった。
佐野は短く続けた。
「相談なら、相談枠です。今週は埋まっています。来週火曜午後以降になります。急ぎなら、急ぎ相談として社長判断です」
隆夫が頷く。
「急ぎ相談でも、無料ではありません」
「現物を置いていくなら、預かりです。数量確認と状態確認が必要です。今日は午前便がありますので、すぐには見られません」
美智子が机の上の朝確認を指した。
「うちは今、倉田さんと中川さんの午前便があります」
平野は、ようやく箱を持ち上げ直した。
「では、今日は持ち帰った方がいいですか」
「その方が安全です」
佐野が答えた。
「ただし、相談を受けないという意味ではありません。FAXで品番、数量、用途、不具合内容、希望納期を送ってください。黒瀬精機で受けられる範囲か確認します」
平野は、少し考え込んだ。
そして、箱を軽ワゴンの荷台へ戻した。
「分かりました。いったん持ち帰ります。FAXを送ります」
「お願いします」
佐野は名刺を受け取ると、そこに鉛筆で小さく書いた。
丸江電装。
未受付。
現物持帰り。
相談FAX待ち。
平野は一礼し、軽ワゴンに乗った。
車が走り去ったあと、黒瀬精機の入口には、段ボール箱の跡だけが残った。
直人は、その跡を見ていた。
もし今の箱を預かっていたら。
午前便は遅れていたかもしれない。
宮田が数量を数え、直人が中身を見て、森川がつい「これ曲がってるな」と口を出し、隆夫が現物を測り始めていたかもしれない。
その間に、倉田精密の箱が沈む。
中川機械の引き取りも遅れる。
そして、夕方には丸江電装から電話が来る。
どうでしたか。
傷はどこで増えましたか。
いくらで直せますか。
まだ受けてもいない仕事に、黒瀬の時間が吸われていた。
佐野は、何事もなかったように鞄を置いた。
「出社初日から、失礼しました」
美智子は首を振った。
「助かりました」
森川が笑う。
「今の、うちだけやったら絶対ちょっと蓋開けてましたな」
「開けてましたね」
直人は正直に言った。
隆夫も苦笑した。
「わしも触ってたかもしれん」
佐野は、少しだけ表情を緩めた。
「触ったら、仕事が始まります」
その一言で、事務所がまた静かになった。
触ったら、仕事が始まる。
職人にとっては当たり前のことだ。
だが、事務の立場から見ると、別の意味を持つ。
預かる。
数える。
見る。
返事をする。
そのどれもが、仕事の始まりなのだ。
美智子は、赤鉛筆で朝確認の「止めること」の欄に書き足した。
未受付の現物を預からない。
佐野はそれを見て、すぐに言った。
「もう一つ、必要です」
「何ですか」
「未受付の現物を、開けない」
森川が笑いかけて、途中で止まった。
「ああ、開けたら見たことになりますな」
「はい」
佐野は頷いた。
「見たら、聞かれます。聞かれたら、答えたくなります。答えたら、相談が始まります」
直人は、その流れを頭の中で追った。
箱を開ける。
見る。
一言言う。
それが無料相談になる。
職人の親切が、仕事を始めてしまう。
「佐野さん」
美智子が言った。
「今日、最初に机を作ってください」
「はい」
「受注、納品、請求、相談。箱を分ける話、すぐやりましょう」
「分かりました」
宮田が慌てて立ち上がった。
「僕、箱を取ってきます」
佐野は宮田を見た。
「お願いします。できれば、同じ形の箱ではなく、少し違う形がいいです」
「違う形?」
「手で触った時に、間違えにくいので」
宮田は、はっとした顔をした。
「色だけじゃなくて、形も」
「はい。色札と同じです」
直人は、そこで思わず笑った。
黒瀬式は、また戻ってきた。
現場で作った考え方が、事務の机の上に戻ってきている。
箱の形。
置き場。
触った時の違い。
それは、治具や札と同じだった。
宮田は作業場から古い書類箱を四つ持ってきた。
浅い木箱。
深い紙箱。
ふた付きの小箱。
幅の広い樹脂箱。
佐野はそれを机の上に並べた。
受注。
納品。
請求。
相談。
相談の箱だけ、机の右端へ置いた。
「相談は、すぐ触りたくなるので、少し遠くに置きます」
森川が感心したように言った。
「誘惑の箱ですな」
「はい」
佐野は真面目に答えた。
「急ぎに見える紙ほど、置き場を遠くします」
美智子が、その言葉を赤鉛筆で控えようとした。
佐野が少しだけ首を振った。
「すみません。今は先に午前便を通した方がいいと思います」
美智子の手が止まった。
それから、少し笑った。
「そうやね」
直人は、そのやり取りに胸の奥がすっとした。
美智子の手を止めた。
しかも、失礼ではない。
今やるべきことを、今の順番で戻しただけだ。
佐野は、倉田精密の箱を見た。
「午前便は、これですね」
「はい」
宮田が答える。
「控えは?」
「ここです」
「では、出るまでは相談箱に触らない」
「はい」
午前九時半。
田端商会の軽トラックが来た。
倉田精密の保管札セットは、時間通りに出た。
中川機械の部品も、予定通り引き取りに渡された。
高田包装の追加一個は、明日午前便へ回ることになった。
丸江電装からのFAXは、昼前に届いた。
佐野はそれを開かず、相談箱の中にいれた。
それから、箱の上に小さな付箋を一枚貼る。
受付前。
社長判断。
納期要確認。
「これは、午後に見る紙です」
佐野は宮田へ言った。
「はい」
「今は、午前便の控えを閉じてください」
「はい」
午前中のうちに、黒瀬精機の机の上は少し変わった。
紙の量は減っていない。
だが、行き場ができた。
受注。
納品。
請求。
相談。
まだ仮の箱だ。
仮の置き場だ。
けれど、さっきまで一つの山だったものが、四つの流れに分かれた。
昼前、佐野は鞄を閉じた。
「今日はここまでで失礼します」
美智子が頷いた。
「ありがとうございます。初日から助かりました」
「まだ何も整っていません。置き場を仮に分けただけです」
「それが大きいんです」
直人は思わず言った。
佐野は、少しだけ直人を見た。
「仮なら、明日には正式な置き場を決めた方がいいです。仮は長く置くと、本当の置き場になります」
森川が作業場から顔を出す。
「仮ほど長生きする、ですな」
佐野は首を傾げた。
「そういう言い方もありますね」
美智子が小さく笑った。
「うちでは、よく出ます」
佐野は、相談箱の上の紙をもう一度確認した。
受付前。
社長判断。
納期要確認。
「午後に見る時、この順番でお願いします。まず納期。明日対応を求めているなら、受けるかどうかを先に社長さんが判断してください。中身を見るのは、その後です」
隆夫が頷いた。
「分かりました」
「では、失礼します」
佐野が帰ると、事務所には少しだけ違う静けさが残った。
午後になって、宮田は丸江電装のFAXを開いた。
佐野が残した付箋の通り、最初に納期を見る。
希望納期。
明日。
宮田は、すぐに隆夫の前へ持っていった。
「社長判断です」
隆夫はFAXを見て、短く言った。
「明日納期の相談は受けん。見積もりも出さん。来週の相談枠なら受ける」
美智子が返答を書く。
丸江電装様。
現物相談については、事前情報を確認しました。
希望納期が明日となっておりますが、未受付現物の即日確認、翌日対応はお受けできません。
有償相談枠での確認は、来週火曜午後以降となります。
現物をお持ち込みの場合は、数量、状態、預かり範囲を確認した上で受付いたします。
未受付の現物はお預かりできません。
美智子は文面を読み上げ、隆夫に確認を取った。
隆夫が頷く。
「それで送ってください」
送信控えが出ると、宮田はそれを相談箱から受付前相談の控えへ移した。
その手つきは、朝より少しだけ落ち着いていた。
夕方、作業台の上はいつもより片付いていた。
紙の量が減ったわけではない。
むしろ増えている。
だが、行き場ができていた。
受注。
納品。
請求。
相談。
受付前。
受付済み。
箱が違う。
置き場が違う。
触る順番が違う。
それだけで、事務所の空気が変わっていた。
森川が、相談箱を見て言った。
「今日は、外から来た箱を置かれずに済みましたな」
「うん」
直人は頷いた。
「佐野さんが止めてくれた」
「止めたというより、まだ受けていないものを、受けたことにしなかったんやな」
隆夫が言った。
直人は、その言葉に頷いた。
美智子は台帳を開いた。
午前便は終わっている。
相談への返事も送った。
今度は、赤鉛筆を止める人はいない。
美智子は一行を書いた。
触る前に、受けるか決める。
直人は、その文字を見た。
仕事は、機械に材料をくわえた時に始まるとは限らない。
箱を預かった時。
蓋を開けた時。
一言答えた時。
その時点で、もう仕事は始まっている。
だからこそ、始める前に線を引く。
黒瀬精機には、今日、事務の席が一つ増えた。
その席に座る人は、紙を増やすために来たのではない。
勝手に始まりかける仕事を、始める前に止めるために来たのだ。
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