第109話 朝礼に乗せる
翌朝、黒瀬精機の作業台には、いつもより早く白い紙が一枚置かれていた。
美智子の赤鉛筆で、上に大きく書かれている。
朝確認。
その下には、五つだけ欄があった。
午前便。
午後便。
今日中加工。
外からの相談。
止めること。
宮田悟は、その紙を見て少し背筋を伸ばしていた。
昨日、倉田精密の保管札が午前便に遅れかけた。
田端商会を七分待たせた。
倉田精密の杉本には、「最近、黒瀬さんはお忙しそうですね」と静かに釘を刺された。
怒鳴られたわけではない。
けれど、あの一言は、事務所にしっかり残っていた。
森川修一は旋盤に手を置いたまま、作業台を見ている。
「これ、朝礼みたいなもんですか」
「大げさなもんやないよ」
美智子は言った。
「でも、朝に全員で見る紙や」
隆夫も事務所へ入ってきた。
直人は、棚から今日の控えを出す。
黒瀬精機で、全員が一か所に立つことは珍しくなかった。朝一番に顔を合わせることもある。
だが、それはたいてい、今日の材料の置き場や機械の段取りを軽く話す程度だった。
誰が何を聞いたか。
どの荷物が午前便か。
どの相談を後回しにするか。
そこまでを、全員で見てはいなかった。
美智子が赤鉛筆で紙を叩いた。
「北河さんの色札も、ほんまは朝礼に乗せるべきやった」
直人は顔を上げた。
「北河さんの?」
「うん」
美智子は続けた。
「貼っただけ。長沢さんに言っただけ。一部の担当者に伝えただけ。それでは、受入の人が替わった時に抜ける。朝礼なり、始業前の連絡なり、交代時の引き継ぎなり、実際にその場へ立つ人へ届かんと、紙は動かん」
森川が頷いた。
「表だけ壁に貼っても、見てへん人には何もないのと同じですからね」
「そう」
美智子は、今度は黒瀬精機の朝確認を指した。
「うちも同じ。相談FAXが来た、北河さんの控えがある、倉田さんの札がある。全部机に乗ってるだけでは、誰かが落とす。昨日は、それが悟くんのところで見えただけや」
宮田は小さく頷いた。
「はい」
「責めるための朝確認やない。落とさんための朝確認や」
隆夫が言った。
「ほな、始めよか」
宮田が紙を持った。
手は少しだけ硬い。
だが、昨日ほど震えてはいなかった。
「午前便。倉田精密さん、保管札セット三組。田端さん、九時半引き取り」
直人が棚を見る。
「箱詰め済み。控えもあります」
「午前便、もう一件。中川機械さん、軸受け部品二本。これは十時半に先方引き取り予定」
森川が頷いた。
「仕上げはあと面取りだけです」
「午後便。高田包装さん、改善版ガイド部品三個。田端さん午後三時」
隆夫が言った。
「これは昼までに確認する」
「今日中加工。西尾プレスさん、当て板四枚。急ぎではありませんが、本日中」
「こっちは午後に回せる」
森川が答える。
宮田は次の欄を見た。
「外からの相談。昨日FAX一件。確認表だけ見たいという会社。返信済み。来週火曜午後以降の有償相談枠へ」
美智子が頷いた。
「今日の午前には触らない」
「はい」
宮田は、最後の欄で少し息を吸った。
「止めること。新規相談の電話が来ても、午前便が終わるまでは受けない。内容だけ聞いて、折り返しにします」
美智子が、赤鉛筆で丸を付けた。
「それでええ」
直人は、そのやり取りを見ながら思った。
朝礼というほど立派なものではない。
だが、昨日と違う。
机の上に積もった紙を、誰か一人が順番に処理するのではない。
全員で、今日の仕事の順番を見ている。
それだけで、少し空気が変わった。
八時二十分、黒電話が鳴った。
宮田の肩が少し動く。
美智子が受話器を取った。
「はい、黒瀬精機です。……はい。黒瀬式の相談ですね」
直人は、無意識に受話器の方を見た。
美智子は、朝確認の紙を見ながら答えた。
「申し訳ありません。午前中は出荷確認がありますので、詳しい相談は受けられません。内容だけFAXで送ってください。折り返しは午後になります」
受話器の向こうで、相手が何か言う。
美智子の声は揺れなかった。
「はい。確認表だけの提供はしていません。使い方の説明とセットになります。有償相談です」
電話を置くと、森川が小さく笑った。
「朝確認、いきなり役に立ちましたな」
「今のを受けてたら、倉田さんの札がまた沈む」
美智子は淡々と言った。
宮田は、朝確認の紙の「外からの相談」の横に、短く書いた。
午前電話一件。
FAX待ち。
午後折り返し。
直人は、その文字を見て少しだけ安心した。
相談を無視したのではない。
ただ、順番を変えなかった。
午前九時二十五分、田端商会の軽トラックが来た。
昨日と同じ時間だった。
だが、今日は違った。
倉田精密向けの箱は、すでに事務所の入口近くに置かれている。
荷札も貼ってある。
控えも箱の上に乗っている。
田端は入口から顔を出し、その箱を見て少しだけ笑った。
「今日は待たんで済みそうですな」
「今日は待たせません」
美智子が答えた。
宮田が控えを渡す。
「倉田精密さん、保管札セット三組。確認済みです」
田端は、控えを見て頷いた。
「預かります」
直人は、田端が箱を荷台へ積むのを見送った。
小さな箱だ。
だが、昨日はその小さな箱が黒瀬精機の足元を揺らした。
今日は、揺らさずに出せた。
ただそれだけなのに、直人は少し息がしやすくなった。
田端の軽トラックが出ていくと、今度はFAXが動いた。
北河電機からだった。
美智子が紙を取り、すぐに直人へ渡す。
北河電機 受入朝礼記録。
色札運用について。
札なしは通常品。
赤札は停止。
黄札は分けて確認。
青札は注意して流す。
迷った場合は、全停止ではなく受入責任者へ確認。
説明者、長沢。
参加者、受入担当三名、現場班長二名。
欠席者、午後受入担当一名。
欠席者への引き継ぎ、昼礼時に実施予定。
直人は、その最後の二行で手を止めた。
「昼礼まで書いてる」
美智子が頷く。
「ええね。朝礼に出てない人を、そのままにしてない」
森川が作業場から言った。
「北河さんも、ちゃんとやり始めたんやな」
隆夫は紙を受け取って、短く言った。
「貼っただけでは動かない、を向こうも分かったんやろ」
直人は、長沢の顔を思い出した。
受入場で困った顔をしていた現場担当。
黄札を赤止め扱いされた時に、どう伝えるか迷っていた人。
その長沢が、朝礼に乗せた。
参加者も、欠席者も、引き継ぎも書いた。
黒瀬が一方的に言っただけではない。
北河の中でも、言葉が動き始めている。
その時、また電話が鳴った。
今度は北河の長沢だった。
隆夫が受話器を取る。
「黒瀬です。……はい、FAX見ました。……朝礼でやってくれたんですね」
直人は、隆夫の表情を見た。
少しだけ柔らかい。
「はい。午後の担当者にも昼礼で。……ええ、それが大事やと思います。……はい。こちらも朝確認を始めました」
隆夫は、そこで少し笑った。
「北河さんに言うたことを、うちも守らんといけませんから」
電話を切ると、隆夫は直人を見た。
「長沢さん、朝礼で説明したら、受入の若い人が『札なしは通常ですね』と先に言うたらしい」
「それは大きいな」
直人は言った。
「うん」
隆夫は頷いた。
「ただ、午後担当はまだ聞いてへん。昼礼で言うそうや」
美智子が、朝確認の紙の端に書いた。
北河。
朝礼実施。
欠席者は昼礼で引き継ぎ。
森川がそれを見て言った。
「朝礼も、一回言うたら終わりやないんやな」
「そうやね」
直人は答えた。
「聞いた人と、聞いてない人がいる。そこを見ないと、また抜ける」
宮田が、ぽつりと言った。
「紙も、人も、届いたかどうかを見ないと駄目なんですね」
美智子が、それを聞いて赤鉛筆を止めた。
「悟くん、それ書いといて」
「はい」
宮田は、朝確認の下に小さく書いた。
伝えたではなく、届いたかを見る。
直人は、その文字を見た。
昨日なら、宮田はたぶん自分を責める言葉を書いていた。
今日は違う。
次に落とさないための言葉を書いている。
それは、宮田自身が少し前へ進んだ証拠でもあった。
午前十時半、中川機械の担当者が軸受け部品を取りに来た。
森川は、予定通り二本を仕上げていた。
「今日は早いですね」
担当者が言うと、森川はいつもの調子で返した。
「朝に順番決めましたからね」
「朝礼ですか」
「まあ、黒瀬式朝礼みたいなもんですわ」
担当者は笑った。
「黒瀬さんとこ、何でも名前が付きますね」
「名前が付いたら、逃げにくくなるんです」
森川がそう言うので、直人は少し笑いそうになった。
けれど、確かにそうだった。
朝確認。
相談枠。
通常納品優先。
言葉にすると、面倒だ。
だが、言葉にしないと、また誰かの頭の中だけで消える。
昼前、北河からもう一枚FAXが入った。
今度は長沢からの短い報告だった。
午前受入分、色札誤認なし。
札なし通常品、停止なし。
黄札品、一箱のみ分離確認。
午後担当へ昼礼で引き継ぎ済み。
田端商会待機なし。
田端がいれば、きっと笑っただろう。
待機なし。
その四文字は、運送側にとって大きい。
森川がFAXを見て言った。
「朝礼で待機が減るんやな」
「減る」
直人は頷いた。
「止めるべきものを止めて、流していいものを流せるなら、荷台も止まらん」
美智子は、FAXを台帳へ綴じた。
「北河さんの記録、これは残すよ」
「うん」
直人は言った。
「朝礼で変わった最初の記録や」
午後、黒瀬精機にも朝確認の効果が出た。
高田包装の改善版ガイド部品三個は、午後三時の田端便に間に合った。
西尾プレスの当て板は、急ぎではないため、無理に夕方便へ押し込まず翌朝引き取りに回した。
新規相談のFAXには、午後四時にまとめて返事をした。
午前中のように、電話が鳴るたびに手を止めることはなかった。
もちろん、すべてがきれいに回ったわけではない。
宮田は途中で、中川機械の控えを倉田精密のファイルへ入れかけた。
直人が気づいて止めた。
森川は、相談枠の紙を見て「うちは病院になったんか」とぼやいた。
美智子は「病院より予約は少ない」と返した。
それでも、昨日とは違った。
誰か一人が抱えて落とす前に、全員が見える場所に置いた。
夕方、田端が高田包装向けの箱を積み込んだ。
「今日は待機なしですな」
「はい」
宮田が答えた。
「朝確認のおかげです」
田端は、少しだけ真面目な顔になった。
「それ、うちもやろうかな」
「田端さんも?」
「朝、今日の便と待機しそうな荷物だけ見るんですわ。黒瀬さんと北河さん見てたら、運ぶ側も要る気がしてきました」
直人は頷いた。
「田端さんの朝礼ですね」
「そんな立派なもんやないですけどな」
田端は笑った。
「でも、荷台に積む前に分かってたら、防げる待ち時間もありますわ」
美智子が、それを台帳に書こうとした。
田端が慌てて言う。
「奥さん、まだ書かんといてください。うちで考えてからにします」
「分かりました」
美智子は、赤鉛筆を置いた。
「でも、考えるなら相談料もらうよ」
田端は、今度こそ声を出して笑った。
「それは分かってます。もう無料で聞ける空気やないですから」
その笑いで、少しだけ事務所の空気がほどけた。
夜、黒瀬精機の作業台には、三枚の紙が並んでいた。
黒瀬精機の朝確認。
北河電機の受入朝礼記録。
長沢からの待機なし報告。
どれも、同じことを言っていた。
紙を貼るだけでは動かない。
担当者に言うだけでも足りない。
朝に、誰が聞いたかを見る。
聞いていない人へ、いつ渡すかを決める。
そして、その日の仕事の順番を、全員で見る。
直人は、宮田が書いた一行を見た。
伝えたではなく、届いたかを見る。
その言葉は、黒瀬式の次の芯になる気がした。
美智子が、最後に台帳へ書いた。
朝礼は、紙を人に届かせる道である。
直人は、その文字をしばらく見ていた。
黒瀬式は、紙を増やすためのものではない。
札を増やすためでもない。
人が迷わず動くために、紙を人へ届かせる。
そのために、朝の短い時間がある。
明日の朝も、黒瀬精機は朝確認から始めることになった。
大げさではない。
派手でもない。
だが、昨日より少しだけ、仕事の落ちる穴は小さくなっていた。
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