第108話 遅れかけた札
北河電機の請求書騒ぎから、二週間が過ぎた。
田端商会の通常運賃は止まらなかった。
松原製作所の通常加工費も通った。
南田板金の曲げ加工費も、追加対応分とは別に処理された。
北河電機の購買部からは、次回以降の現場承認欄を準備するというFAXも届いている。
それだけ見れば、黒瀬式は一歩進んだように見えた。
実際、町の中で黒瀬精機の名前を聞く機会は増えていた。
東大阪商工会議所からの紹介。
北河電機経由の相談。
松原や南田から聞いたという小さな工場。
高井田町工場連絡会の確認項目表を見たいという会社。
黒瀬精機の黒電話は、以前よりよく鳴るようになった。
その朝も、事務所の電話は八時を少し過ぎたところで鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい。確認表の件ですか」
直人は、作業台の横でクロフィックスの保管札を数えていた。
洗浄前。
洗浄後。
保管済。
確認待ち。
倉田精密向けの交換札だった。
いつもの仕事だ。
数は多くない。
けれど、倉田精密の現場では、札が足りなければ保管箱が止まる。
止まれば、洗浄前と洗浄後の区別が曖昧になる。
曖昧になれば、現場は余計に神経を使う。
直人はそれを分かっていた。
分かっていたのに、手元の札はまだ箱に入っていなかった。
宮田悟は、隣の机でFAXの控えを整理している。
北河電機。
田端商会。
松原製作所。
南田板金。
その上に、昨日届いた新しい相談の紙が乗っていた。
確認表だけ先に見せてほしい。
一度、無料で相談したい。
既存の外注先に使えるか判断したい。
どれも、どこかで聞いた言葉だった。
美智子の声が、少しだけ硬くなる。
「申し訳ありません。確認表だけをお渡しすることはしていません。使い方の説明とセットになります。……はい、有償相談です」
受話器の向こうで、相手が何か言っている。
美智子は、淡々と聞いていた。
「はい。急ぎであれば、まず相談内容をFAXしてください。ただし、今週の新規相談枠は埋まっています」
直人は、その言葉を聞いて顔を上げた。
新規相談枠。
昨日、美智子が台帳の端に書いたばかりの言葉だった。
まだ、正式に決めたものではない。
だが、もう使わなければならないほど、電話は増えていた。
美智子は受話器を置いた。
「また相談?」
隆夫が聞く。
「確認表だけ欲しいって」
森川修一が、旋盤の前から鼻を鳴らした。
「表だけ持って帰っても、たぶん違うもんになりますな」
「だから断った」
美智子は、そう言ってから直人の手元を見た。
「直人、倉田さんの札は?」
「今、箱に入れてる」
「田端さんの便、何時?」
直人の手が止まった。
宮田が、はっとして予定表を見た。
「九時半です」
壁の時計は、九時十分を過ぎていた。
事務所の空気が、一瞬だけ固まる。
美智子は静かに言った。
「あと二十分」
宮田の顔から血の気が引いた。
「すみません。昨日届いた北河さんの控えを先に整理していて……倉田さんの分、箱詰めは午後やと思っていました」
「午後やない」
美智子の声は荒くない。
だから余計に重かった。
「倉田さんの保管札は、今日の午前便」
直人は、すぐに札を数え直した。
洗浄前。
洗浄後。
保管済。
確認待ち。
五組ずつ。
数は合っている。
だが、箱に入れる順番と控えの照合がまだだった。
倉田精密向けは、雑に詰めていいものではない。
札が一枚違えば、現場で間違える。
しかも、倉田精密は黒瀬式が外へ広がる前から、ずっと継続して使ってくれている取引先だった。
その仕事を落としかけている。
森川が機械を止めた。
「こっち手伝うわ」
直人は首を振った。
「森川さんは中川機械の部品をお願いします。そっちも今日中です」
「けど」
「こっちは俺と宮田くんでやります」
隆夫が頷いた。
「森川は通常仕事を止めるな。直人、宮田、札を先に通せ」
「はい」
宮田は急いで立ち上がり、控えを取った。
手が少し震えている。
直人は短く言った。
「焦らんでええ。急ぐけど、飛ばさん」
「はい」
「一組ずつ読む。俺が札を見る。宮田くんが控えに丸を付ける」
「はい」
洗浄前。
「あります」
洗浄後。
「あります」
保管済。
「あります」
確認待ち。
「あります」
一組。
二組。
三組。
四組。
五組。
単純な確認だ。
だが、単純なことほど、急ぐと飛ぶ。
飛べば、あとで現場が困る。
直人は、自分に言い聞かせるように札を読んだ。
九時二十五分。
田端商会の軽トラックが工場前に停まった。
田端が入口から顔を出す。
「おはようございます。倉田さんの荷物、ありますか」
美智子が、すぐに答えた。
「今、最終確認中です。あと五分ください」
田端は、事務所の中を見て、空気を読んだ。
「分かりました。五分なら待ちます」
「待機費、付けてください」
美智子が言うと、田端は一瞬だけ目を丸くした。
「五分ですで?」
「黒瀬側の遅れです」
事務所が静かになる。
田端は、少しだけ帽子を持ち直した。
「……分かりました。今日は付けます」
直人は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥が重くなった。
黒瀬式で、待機費には理由と承認者を付けると言った。
なら、自分たちが待たせた時も同じだ。
田端の待機は、田端の好意で消していいものではない。
九時三十二分。
倉田精密向けの保管札セットは、ようやく箱に収まった。
宮田が控えに時刻を書く。
九時三十二分。
黒瀬側確認遅れ。
田端商会待機七分。
承認者、黒瀬美智子。
田端は箱を受け取り、荷札を確認した。
「倉田精密さん。保管札セット。五組。確認済み」
「お願いします」
美智子が頭を下げる。
田端は、いつものように軽く笑わなかった。
ただ、真面目な顔で頷いた。
「運びます」
軽トラックが出ていくと、事務所には機械音だけが戻った。
宮田は、控えを握ったまま立っていた。
「すみませんでした」
美智子は、すぐには答えなかった。
代わりに、机の上の新規相談のFAXを一枚、宮田の前に置いた。
「悟くん、これを先に処理してたんやね」
「はい」
「北河さんの控えも?」
「はい」
「倉田さんの札の午前便を、午後やと思い込んだ」
「はい」
宮田の声は小さかった。
直人は、横から口を挟みたくなった。
自分も同じだった。
電話に気を取られていた。
新しい相談に目が行っていた。
倉田精密の札を、いつもの仕事だからと軽く見ていた。
だが、美智子は宮田だけを責めなかった。
「これは悟くん一人の失敗やない」
宮田が顔を上げる。
美智子は、台帳を開いた。
「新規相談の紙、北河さんの控え、田端さんの請求、倉田さんの通常仕事。全部が同じ机に乗ってる。それを一人で順番に見てたら、いつか落ちる」
森川が、作業場から低く言った。
「刃物も同じやな」
直人は森川を見る。
森川は旋盤の前で、手を布で拭きながら続けた。
「押せば早いように見える。でも押しすぎたら刃が欠ける。人も同じや。宮田に全部押し込んだら、どっか欠ける」
宮田は、何か言おうとして黙った。
直人の胸に、その言葉が刺さった。
刃物は、無理に押すな。
ずっと前に聞いた言葉が、今度は人に向いている。
隆夫が、椅子に腰を下ろした。
「黒瀬式が広がってきた。それはええ。けど、黒瀬精機の仕事が遅れたら意味がない」
「うん」
直人は頷いた。
「倉田さんの札は、食わせる仕事や」
「それも、信用で食わせてくれる仕事や」
隆夫は言った。
「新しい相談より軽く扱ったらあかん」
その時、電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、杉本さん。お世話になっております」
倉田精密の杉本だった。
直人の背中に、少し緊張が走った。
美智子は、短く相槌を打つ。
「はい。田端さんの便で今出ました。……はい。申し訳ありません。こちらの確認が遅れまして、いつもの便に少し待っていただきました」
電話の向こうの声は聞こえない。
だが、美智子の表情が、いつもより少し真剣になる。
「はい。今後は通常納品分を新規相談より先に確認します。……はい。ありがとうございます」
美智子は受話器を置いた。
「杉本さん、何て?」
直人が聞くと、美智子は静かに答えた。
「『最近、黒瀬さんはお忙しそうですね』って」
それだけだった。
怒鳴られたわけではない。
納品を拒まれたわけでもない。
だが、その一言は重かった。
黒瀬精機の変化を、継続先は見ている。
黒瀬式が町で評判になっていることも、電話が増えていることも、たぶん知っている。
その上で、杉本は釘を刺したのだ。
黒瀬さん、うちの現場も止まりますよ。
そう言わずに、そう言った。
直人は、机の上の新規相談FAXを見た。
確認表だけください。
一度、無料で見てください。
急ぎで相談したい。
どれも、放っておくと机に積もる。
積もれば、倉田精密の札が下に沈む。
黒瀬式が正しくても、黒瀬精機が遅れたら信用を失う。
直人は、それをようやく腹で理解した。
美智子が、白紙を一枚出した。
「新規相談の受け方を決めます」
森川が小さく笑った。
「また紙ですか」
「今回は紙だけやない」
美智子は言った。
「時間を決める」
直人は頷いた。
「相談枠やな」
「うん」
美智子は書いた。
黒瀬式相談枠。
週二回。
火曜午後。
金曜午後。
各一件。
事前FAX必須。
無料相談なし。
通常納品優先。
緊急相談は、通常納期へ影響する場合は受けない。
宮田が、その文字をじっと見ていた。
美智子は続ける。
「それと、通常仕事の朝確認」
「朝確認?」
「その日に出す荷物、午前便、午後便、今日中加工。これを朝一番で確認する。相談FAXを見る前に」
直人は、すぐに頷いた。
「今日みたいなことを防ぐためやな」
「うん」
美智子は、宮田を見た。
「悟くん、朝一番に見る紙を変えるよ」
「はい」
「新規相談の控えは、朝確認が終わってから」
「はい」
「それと、相談FAXの整理は悟くん一人に背負わせない。直人も見る。私も見る。隆夫さんにも、受けるかどうか確認する」
隆夫が頷く。
「相談は仕事や。仕事なら、受けるか断るかを社長が決める」
森川が言った。
「現場の機械時間も見てからにしてくださいよ」
「もちろん」
美智子は答えた。
宮田は、少しだけ目を赤くしながら言った。
「すみませんでした。でも、助かります」
「謝るのは一回でええ」
美智子は言った。
「次に落とさん形を作る」
その言葉に、直人は胸の奥が少し熱くなった。
責めるのではない。
形を変える。
ただし、今回は町工場全体の仕組みではない。
黒瀬精機自身を守る形だった。
昼前、別の会社からFAXが届いた。
確認表を見たい。
できれば今週中に相談したい。
美智子は、その場で返信を書いた。
黒瀬式の相談は、事前FAX確認後、有償相談枠で対応いたします。
今週分の新規相談枠は埋まっております。
通常納品および既存取引を優先するため、次回相談枠は来週火曜午後以降となります。
直人は、その文面を見た。
以前なら、少しでも早く対応しようとしたかもしれない。
今は違う。
断っているのではない。
並べ直している。
黒瀬精機が食っていく仕事を守り、その上で育てる仕事を受ける。
その順番を、相手にも見せている。
美智子はFAXを送った。
送信音が終わると、事務所の中に少しだけ静けさが戻った。
森川の旋盤の音。
隆夫のフライス盤の音。
宮田が控えを整える紙の音。
直人は、朝の倉田精密向けの控えを見た。
九時三十二分。
黒瀬側確認遅れ。
田端商会待機七分。
承認者、黒瀬美智子。
痛い記録だ。
だが、消してはいけない。
黒瀬式が広がった最初の副作用として、残しておくべき記録だった。
午後、田端から電話が入った。
「倉田さん、無事納品できました。杉本さんから、次はいつもの時間でお願いします、とのことです」
美智子は、目を閉じるように頷いた。
「ありがとうございます。田端さん、今日の待機七分、付けてください」
「ほんまに付けますよ」
「付けてください。黒瀬の遅れです」
「分かりました」
電話を切ると、直人は少しだけ息を吐いた。
助かった。
だが、助かっただけだ。
信用は、少し削れた。
削れたものは、次の納品で戻すしかない。
夕方、黒瀬精機の作業台には、新しい予定表が置かれていた。
朝確認。
午前便。
午後便。
今日中加工。
通常納品優先。
相談枠。
火曜午後。
金曜午後。
有償。
事前FAX必須。
通常仕事へ影響が出る場合は受けない。
森川がそれを見て、少しだけ笑った。
「今度は黒瀬自身の札ですな」
「そうかもしれん」
直人は答えた。
「黒瀬自身を止める札や」
「止めるんか」
「押しすぎないために」
森川は、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
「それなら要りますな」
宮田は、新しい朝確認の用紙を棚に入れた。
その動きは、朝より少しだけ落ち着いていた。
美智子は最後に、台帳へ一行を書いた。
黒瀬式は、黒瀬精機を削ってまで広げない。
直人は、その文字を見つめた。
町を助ける仕組み。
現場を守る札。
請求を止めない紙。
それらは大事だ。
だが、それを作る黒瀬精機が欠けたら、何も続かない。
刃物を無理に押せば欠ける。
人も、工場も、仕事も同じだ。
黒瀬精機は今日、町へ広げる前に、自分自身へ線を引いた。
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