第107話 請求書で止めない

 北河電機の色札表が受入場に貼られ、担当者への説明も終わった翌日、黒瀬精機には少しだけ落ち着いた朝が戻っていた。


 森川修一は、中川機械の追加部品を納品箱に並べている。


 隆夫は、河島産業向けのC2とD2の寸法を見直し、直人は倉田精密向けの保管札の控えを宮田悟と照合していた。


 美智子は、北河電機の対応記録を台帳に綴じている。


 赤札。


 黄札。


 青札。


 札なし。


 止め方。


 貼り方。


 説明した人。


 聞いた人。


 ようやく、紙が現場に届き始めた。


 直人は、少しだけ息をついた。


 だが、美智子はそこで手を止めた。


「まだ終わってへんよ」


 直人は顔を上げる。


「何が?」


「お金」


 美智子は台帳を指で叩いた。


「待機十八分、待機二十一分。束ね直し。色札説明。黒瀬の電話対応。これ、誰がどう請求するか決まってへん」


 森川が、納品箱の蓋を閉めながら言った。


「出た。最後は金ですな」


「最後やない。最初から金や」


 美智子は即答した。


「現場で動いたものは、最後に請求書に乗る。そこで揉めたら、結局またただ働きになる」


 直人は、台帳の数字を見た。


 十八分。


 二十一分。


 束ね直し。


 色札表の説明。


 どれも大きな金額ではない。


 だが、これを無料にしたら、次から待機も説明も「普通」になる。


 そして、普通になったものは消える。


 その時、事務所の電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、長沢さん。お世話になっております」


 直人は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


 長沢の電話は、最近いつも何かを連れてくる。


 美智子の表情が、少し硬くなった。


「……請求書が戻された? ……はい。待機費と説明費が、購買で確認できない。……はい」


 森川が、小さく「来たな」と言った。


 隆夫も手を止める。


 美智子は受話器を押さえた。


「北河さんの購買で、田端さんの待機費と、松原さんの束ね直し費、あと黒瀬の段取り説明対応費が止まってるらしいわ。通常加工費と一緒の請求やから、確認が取れるまで支払い処理を止めるって」


 直人は、思わず声を出した。


「全部?」


「全部みたいやね」


 森川の顔が曇った。


「それはあかんやつですわ」


 美智子は受話器に戻った。


「長沢さん、その請求全体を止めるのは困ります。通常加工分と、追加対応分を分けてください。……はい。黒瀬からも整理紙を出します。……ええ、今日中に」


 電話を置くと、事務所の空気が重くなった。


 紙一枚で入金を止めない。


 少し前に書いた言葉が、今度は請求書の形で戻ってきている。


 確認表ではなく、請求書で止まった。


 隆夫が低く言った。


「通常加工分まで止めたらあかん」


「うん」


 直人は頷いた。


「揉めてるのは追加対応の部分や。加工した分まで止めたら、松原さんも南田さんも田端さんも困る」


 美智子は白紙を出した。


 請求の分け方。


 一、通常加工費。


 二、追加確認費。


 三、待機費。


 四、束ね直し費。


 五、段取り説明対応費。


 六、未承認項目。


「これも分ける」


 美智子は言った。


「全部まとめて止まるから揉める。揉めてるところだけ分ける」


 宮田がすぐに書き始めた。


 争いのない分は支払う。


 確認中の分だけ別枠。


 直人は、その文字を見て頷いた。


 これだ。


 止め方と同じだ。


 赤止め。


 黄止め。


 確認付き流し。


 請求書にも、同じ考え方がいる。


 全部を止めるのではなく、確認が必要な項目だけ分ける。


 田端商会へ連絡すると、田端はすぐに黒瀬精機へ来た。


 帽子を手に持ち、いつもより少し険しい顔をしている。


「待機費、止まったんですか」


「止まってます」


 美智子が答えた。


「しかも、通常運賃ごと止まりかけています」


 田端は、さすがに顔をしかめた。


「それは困りますわ。運賃まで止められたら、うちも次の便が組めません」


 直人は、田端の控えを見た。


 通常運賃。


 工程間搬送。


 待機十八分。


 待機二十一分。


 どれも同じ紙に並んでいる。


 田端が悪いわけではない。


 急いで請求したなら、そうなる。


 だが、北河の購買から見れば、通常運賃と待機費が混ざって見える。


 混ざると止まる。


 止まると入金が遅れる。


「田端さん」


 直人は言った。


「通常運賃と待機費を、請求書の中で分けられますか」


「分けられます」


 田端は即答した。


「ただ、今までは小さい待機は入れてませんでした。今回から入れたんで、向こうが驚いたんでしょう」


「なら、待機費は別枠にしましょう。通常運賃は止めない。待機費は、発生理由と承認者を付ける」


 田端は少し考えた。


「承認者?」


「はい。誰の判断で待機が発生したのか。北河側の受入誤認なのか。松原さん側の束ね直しなのか。南田さん側の確認なのか。それを付けないと、購買で止まります」


 田端は、深く息を吐いた。


「また面倒なことが増えましたな」


「増やしたいわけじゃないです」


 直人は言った。


「払ってもらうためです」


 その言葉に、田端は少しだけ笑った。


「それならやりますわ」


 昼前、松原製作所の松原と南田板金の南田も黒瀬精機に来た。


 松原は、北河への請求書の控えを持っていた。


 抜き、穴あけ加工費。


 一次確認費。


 束ね直し費。


 簡易札付け替え。


 その下に、小さく「今回のみ」と書いてある。


 南田も、曲げ加工費の横に、配線側バリ取り確認費と黄止め確認対応を入れていた。


 松原は、作業台に紙を置いて言った。


「黒瀬さん、これ、やっぱりまずかったですかね」


「まずいというより、見え方が混ざっています」


 直人は答えた。


「加工費と追加対応費が同じ顔で並ぶと、向こうは全部まとめて確認したくなります」


 南田が腕を組んだ。


「でも、分けたら分けたで、追加分だけ削られるんちゃうか」


「削られるかもしれません」


 直人は正直に言った。


「でも、通常加工費まで止められるよりましです」


 その言葉に、二人とも黙った。


 通常加工費は、食わせる金だ。


 追加対応費は、育てる金だ。


 どちらも大事だが、同じ止まり方をしてはいけない。


 美智子が、白紙に大きく書いた。


 通常分を止めない。


 追加分は理由で見る。


 南田が、それを見て言った。


「請求書にも、赤と黄が要るんやな」


 直人は頷いた。


「近いと思います。全部止める赤ではなく、追加分だけ確認する黄にする」


 松原が苦笑した。


「請求書まで黄止めか」


「そうです」


 美智子は平然と言った。


「お金の黄止めです」


 森川が作業場から顔を出した。


「奥さん、また強い言葉作りましたな」


「分かりやすい方がええ」


 宮田は、すぐに清書していた。


 請求黄止め。


 確認中の追加項目だけ別枠。


 通常加工費、通常運賃は止めない。


 追加項目には、発生理由、発生時間、承認者を書く。


 発注側理由の待機は、発注側負担。


 受注側理由の手直しは、受注側で確認。


 南田が、それを読んで頷いた。


「これなら、北河さんにも説明しやすい」


 松原は少し不安そうだった。


「でも、北河さんの購買が飲みますか」


「分かりません」


 直人は答えた。


「だから、今日話します」


 午後、黒瀬精機の事務所に北河電機の長沢と、購買担当の女性が来た。


 名は佐伯といった。


 きちんとした紺色の作業服を着て、手には請求書の束を持っている。


 長沢は少し申し訳なさそうに頭を下げた。


「今日はすみません」


 佐伯は淡々としていた。


「こちらも、支払いを止めたいわけではありません。ただ、請求書に通常加工費以外の項目が増えています。購買としては、根拠がないものをそのまま通すことはできません」


 言い方は冷たいが、筋は通っていた。


 直人は、佐伯を責める気にはならなかった。


 むしろ、必要な人だと思った。


 現場が動いても、購買が通せなければ金は払われない。


 ならば、購買にも分かる形にしなければならない。


 隆夫が言った。


「佐伯さんのおっしゃることは分かります。ただ、通常加工費まで止めると、町工場側の資金繰りに響きます」


 佐伯は少し眉を動かした。


「通常分と追加分が同じ請求書に入っていましたので」


「そこはこちらも整理します」


 直人は、机の上に整理紙を置いた。


 通常加工費。


 通常運賃。


 追加確認費。


 待機費。


 束ね直し費。


 段取り説明対応費。


 発生理由。


 承認者。


「今後は、通常分と追加対応分を分けます。確認が必要な追加対応分だけを保留にしてください。通常加工費と通常運賃は、検収済みなら止めない形にしていただきたいです」


 佐伯は紙をじっと見た。


「承認者とは、誰を想定していますか」


 長沢が少し身を硬くした。


 直人は答えた。


「北河さん側の受入誤認や判断待ちで発生した待機なら、北河さん側の担当者。今回なら長沢さんか、受入責任者です」


 佐伯は長沢を見た。


 長沢は頷いた。


「今回の十八分と二十一分は、北河側の受入共有不足です。私の確認不足です」


 佐伯は、手元の請求書へ視線を落とした。


「では、田端商会さんの待機費は北河側理由として処理できます。ただ、松原製作所さんの束ね直し費はどうですか」


 松原が、少し緊張した顔で答えた。


「束ね方が紛らわしかったのは、うちの作業です。ただ、最初の指示では束ね札の向きまでは決まっていませんでした。今回の止めで決まりました」


 佐伯は、すぐには頷かなかった。


「つまり、初回運用で決まっていなかった項目ということですね」


「はい」


 直人は言った。


「そこは、今回限りの初回立ち上げ調整に入れるか、松原さん側の一次確認に含めるかを北河さんと松原さんで決める必要があります」


 南田が口を挟んだ。


「ただ、次回からは松原さん側の一次確認に入ります。だから、今回と次回以降を分けた方がええです」


 佐伯は、そこで初めて少しだけ表情を変えた。


「今回限りと、次回以降」


「はい」


 美智子が言った。


「そこを分けないと、初回の穴埋めが、ずっと無料になるか、ずっと追加料金になるかのどちらかになります」


 佐伯は、ゆっくり頷いた。


「それは困りますね」


 直人は、少しだけ息を吐いた。


 佐伯は敵ではない。


 数字を通すために、線を欲しがっている。


 長沢が言った。


「佐伯さん、今回の初回立ち上げ調整は、北河として認めたいです。色札表の説明不足、受入側の誤認、束ね札の向き。どれも、こちらも含めて運用が固まっていなかった部分です」


 佐伯は、長沢の言葉を聞いてから、請求書を一枚ずつ分けた。


「分かりました。通常加工費、通常運賃は先に処理します。田端商会さんの待機費は、北河側理由として追加処理。松原製作所さんの束ね直し費は、初回立ち上げ調整として長沢さん承認。次回以降は、一次確認に含める」


 松原の肩から、少し力が抜けた。


 南田も小さく頷いた。


 佐伯は続けた。


「ただし、今後は追加対応が発生した時点で、誰が承認するかを決めてください。請求書で初めて見えると、購買では止めざるを得ません」


「そこも決めます」


 直人は答えた。


 美智子はすぐに書いた。


 追加対応は、発生時に承認者を決める。


 請求書で初めて出さない。


 森川が、作業場からぼそっと言った。


「あと出しは嫌われる、いうことやな」


「そうです」


 佐伯は、意外にも森川の言葉に頷いた。


「購買はあと出しに弱いです。現場が必要だったと言っても、後から出ると確認が難しい」


 森川は少し驚いた顔をした。


「購買さんも大変なんですな」


「はい」


 佐伯は淡々と答えた。


「現場と請求書の間にいますので」


 その一言に、直人は少しだけ見方を変えた。


 佐伯もまた、挟まれている。


 現場が動く。


 町工場が請求する。


 会社の金を通す。


 その間で、根拠のないものは通せない。


 黒瀬式は、現場だけを見ていても足りない。


 請求書が通るところまで見なければ、仕事は終わらない。


 会議が終わる頃、美智子の紙には新しい見出しができていた。


 請求時の線。


 通常分を止めない。


 追加分は理由で見る。


 発生時に承認者を決める。


 請求書で初めて出さない。


 今回限りと次回以降を分ける。


 佐伯は、その紙を見て言った。


「この形なら、購買でも扱いやすいです」


 長沢が安堵したように息を吐いた。


「助かります」


 田端が笑った。


「こっちも助かりますわ。運んだ分の金が止まると、ほんま困りますから」


 松原も、少しだけ笑った。


「請求書まで勉強せなあかんとは思わんかった」


 南田が言う。


「仕事は納めて終わりやないんやな」


 隆夫が静かに頷いた。


「金が入って終わりや」


 その言葉に、全員が少し黙った。


 町工場にとって、それは冗談ではない。


 作る。


 運ぶ。


 納める。


 確認する。


 そして、入金される。


 そこまでが仕事だ。


 夜、黒瀬精機の作業台には、北河電機から持ち帰った請求書の控えが並んでいた。


 通常加工費。


 通常運賃。


 待機費。


 束ね直し費。


 初回立ち上げ調整。


 今朝まで一つの束に見えていた紙が、今は少し違って見える。


 直人は、台帳の最後に書いた。


 請求書で全部止めない。


 美智子が、その下に赤鉛筆で足した。


 通常分を止めない。追加分は理由で見る。


 森川が、それを見て言った。


「また線が増えましたな」


「増えたけど、これは要る」


 直人は答えた。


「金が止まったら、町は動けん」


 森川は、少しだけ真面目な顔で頷いた。


「ほんまです」


 直人は、請求書の控えを見つめた。


 紙は、人に届いて初めて道具になる。


 だが、金に届かなければ、仕事は続かない。


 黒瀬式は、また一つ、生々しい場所へ進んだ。


 現場の札。


 運送の待機。


 購買の承認。


 請求書。


 それらがつながって初めて、町工場は次の仕事へ向かえる。


 黒瀬精機は今日、作ることの先にある、支払われるまでの線を見た。


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