第106話 貼っただけでは動かない

 北河電機の受入場に色札表が貼られてから、三日が過ぎた。


 赤。


 止める。


 黄。


 分けて確認。


 青。


 注意して流す。


 札なし。


 通常。


 その四つに絞った表は、黒瀬精機の机の上で見る限り、ずいぶんすっきりしていた。


 実際、最初の二日はうまく回った。


 松原製作所は、抜きと穴あけを十個ずつ束ね、必要な時だけ黄札を付けた。


 南田板金は、曲げ方向と配線側のバリ取りを確認し、問題のない箱は札なしで田端商会へ渡した。


 田端は、赤、黄、青の箱だけ荷台の端へ分け、札なしの通常品は予定通りに積んだ。


 北河電機の長沢からも、初日は「分かりやすくなりました」と電話があった。


 だが、三日目の午前、田端商会から黒瀬精機へ電話が入った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、田端さん」


 直人は、作業台で河島産業向けの保管札を確認していた。


 森川修一は中川機械の部品を仕上げ、隆夫は倉田精密向けの保管札の穴位置を見ている。


 美智子の声が少し低くなった。


「……札なしの箱が、北河さんで止まってる? ……はい。……ええ、札なしは通常扱いです。……担当者が違う?」


 直人は顔を上げた。


 森川が、機械を止める。


「今度は札なしですか」


 美智子は受話器を押さえた。


「北河さんの受入で、いつもの担当者と違う人が出てきたらしいわ。札なしの箱を見て、『確認済みの札がない』と思って止めたって」


 直人は、思わず額に手を当てた。


 札を減らした。


 通常品には札を付けない。


 それ自体は間違っていない。


 だが、受ける側が「札なしは通常」と知らなければ、札なしはただの空白になる。


 空白は、不安になる。


 不安になると、人は止める。


 隆夫が静かに言った。


「長沢さんは?」


「今日は別ラインの立ち会いで、受入場にはおらんらしい」


 森川が低く笑った。


「貼っただけでは、あかんかったんやな」


 直人は、その言葉を聞いて頷いた。


 そうだ。


 壁に貼っただけでは、人は動かない。


 読んでくれるとは限らない。


 読んでも、忙しい時に思い出せるとは限らない。


 隆夫は受話器を受け取った。


「黒瀬です。……田端さん、今は全部止まってますか。……札なしの通常品が四箱。青札が一箱。……分かりました。青札だけ分けて、札なし四箱は通常受入でええはずです。長沢さんに連絡は?」


 電話の向こうで田端が何か言った。


 隆夫は少し黙ってから答えた。


「分かりました。では、こちらから長沢さんへ電話します。田端さん、車はどれくらい待てますか」


 また少し沈黙。


「十五分まで。分かりました」


 電話を置くと、隆夫はすぐに北河電機へ電話をかけた。


 だが、長沢はすぐには出なかった。


 代わりに、若い事務員が取り次ぎ、少し待たされる。


 その間、田端の軽トラックは北河の受入場で止まっている。


 十五分。


 黒瀬精機の事務所では、その十五分が妙に長く感じられた。


 森川が、布で手を拭きながら言った。


「これ、北河さんの中で回ってないんやな」


「うん」


 直人は答えた。


「長沢さんだけが分かってても、現場が変わったら止まる」


 宮田悟が台帳を開いた。


「色札表は渡しましたよね」


「渡した」


「受入場にも貼った」


「貼った」


 宮田は少し考えてから言った。


「でも、誰が説明したかは残っていません」


 その一言に、事務所が静かになった。


 美智子が赤鉛筆を持ったまま、宮田を見た。


「悟くん、それやね」


 直人も頷いた。


「表を渡した。壁に貼った。でも、誰に説明したか、誰が聞いたかがない」


 説明したつもり。


 分かったつもり。


 貼ってあるから大丈夫。


 その「つもり」が、また現場を止めた。


 隆夫の電話がようやくつながった。


「長沢さん、黒瀬です。……はい。受入場の札なし箱の件です。……はい。札なしは通常扱いです。青札だけ分けてください。……ええ。今、田端さんの車が止まっています」


 隆夫は、少しだけ声を強めた。


「長沢さん、今回は受入側の共有不足です。待機時間は田端さんに出してください」


 電話の向こうで長沢が何か言う。


 隆夫は頷いた。


「それと、色札表を貼るだけでは足りません。受入担当者全員へ、三分でええので説明してください。……はい。黒瀬から簡単な説明紙を出します」


 電話を置くと、隆夫は深く息を吐いた。


「動く。札なし四箱は通常受入。青札だけ確認」


 美智子はすぐに台帳へ書いた。


 北河電機。


 札なし箱を未確認扱いで停止。


 受入担当者変更。


 色札表の説明不足。


 田端待機。


 札なしは通常扱い。


 青札のみ分離。


 そして、赤鉛筆で一行を足した。


 貼っただけでは動かない。


 直人は、その文字を見ていた。


 まさに今日の話だった。


 色札表を作った。


 渡した。


 貼った。


 それで終わりではない。


 人が変われば、また止まる。


 朝礼で言うのか。


 引き継ぎで言うのか。


 誰が聞いたのか。


 どこに貼るのか。


 それを決めなければ、紙は壁の飾りになる。


 美智子は白紙を出した。


「説明紙を作るよ」


「現場用?」


「現場用。長いのはいらん」


 直人は頷いた。


 宮田が鉛筆を持つ。


 森川が横から言った。


「三分で読めるやつにしてください。三十分の説明は聞かれへん」


「三分も長いかもしれん」


 美智子は即答した。


「でも、最初は三分」


 直人は考えながら言った。


「まず、札なしは通常。これを一番上に書く」


 宮田が書く。


 札なしは通常品。


 色札が付いた箱だけ、いつもと違う。


 赤は止める。


 黄は分けて確認。


 青は注意して流す。


 分からなければ、箱ごと全部止めず、担当者へ確認。


 森川が頷いた。


「最後が大事やな。分からん時に全部止めるんやなくて、担当者を呼ぶ」


 田端がいたら、車を止める前に呼んでくれと言うだろう。


 美智子は赤鉛筆で、さらに書いた。


 説明者。


 聞いた人。


 貼る場所。


 確認日。


 宮田が顔を上げた。


「そこまで書くんですか」


「書く」


 美智子は迷わなかった。


「誰に説明したか分からんかったら、また同じことになる」


 直人は、少しだけ苦笑した。


 また紙が増える。


 だが、今日はただ増やすのではない。


 紙が読まれる場所まで決めるための紙だ。


 昼前、長沢からFAXが届いた。


 田端の待機は二十一分。


 受入側の共有不足として北河負担。


 札なし四箱は通常受入済。


 青札一箱は担当者確認後、受入済。


 受入場で色札表の説明を行う予定。


 直人は、二十一分という数字に目を止めた。


 十八分の次は、二十一分。


 待機時間は短くない。


 だが、今日はただ止まった時間ではない。


 色札表が現場へ本当に届いていないことを見つけた時間だった。


 田端は昼過ぎに黒瀬精機へ寄った。


 いつもより少し渋い顔をしている。


「今日は、札なしで止まりましたわ」


「すみません」


 直人が言うと、田端は首を振った。


「黒瀬さんだけのせいとちゃいます。うちも運ぶ時に、受け場の人が分かってる前提で渡してました」


 美智子が、三分説明紙を田端へ渡す。


「これ、どう思います?」


 田端は紙を読んだ。


 札なしは通常品。


 色札が付いた箱だけ、いつもと違う。


 赤は止める。


 黄は分けて確認。


 青は注意して流す。


 分からなければ、箱ごと全部止めず、担当者へ確認。


 田端は、少し考えた。


「ええと思います。ただ、運ぶ側にも一言入れてください」


「何を?」


「受け場で迷われたら、その場で色札表を見せる。分からん時は、荷物を全部下ろす前に担当者を呼ぶ」


 宮田がすぐに書いた。


 運ぶ側。


 受け場で迷われたら、色札表を見せる。


 全部下ろす前に担当者確認。


 田端は頷いた。


「これがあると助かります。降ろしてから止められると、積み直しが手間ですわ」


 森川が笑った。


「運送にも段取りがあるな」


「ありますわ。荷台の中にも順番がありますから」


 直人は、その言葉を台帳に書いた。


 荷台の中にも順番がある。


 また一つ、現場の言葉が増えた。


 午後、長沢が黒瀬精機へ来た。


 少し疲れた顔をしていた。


「今日は、ご迷惑をおかけしました」


 隆夫は首を振った。


「迷惑というより、運用の穴が見つかりました」


 長沢は、苦笑した。


「穴ばかり見つかりますね」


「見つからん方が怖いです」


 直人が言うと、長沢は少しだけ笑った。


「確かに」


 田端は、戻り便の控えを美智子と確認していたため、まだ事務所に残っていた。


 美智子は、三分説明紙を机の中央へ置いた。


「北河さんの受入場で、これを説明してください」


 長沢は紙を読んだ。


「札なしは通常品。色札が付いた箱だけ、いつもと違う」


 長沢は、その一行で頷いた。


「これを最初に言えばよかったんですね」


「はい」


 直人は答えた。


「色の意味より先に、札なしの意味です」


 長沢は、少し考え込んだ。


「こちらは、札があるものに目が行っていました。だから、札なしが普通だという説明が抜けた」


「現場では、何も付いていないものほど不安になることがあります」


「分かります」


 長沢は静かに言った。


「特に、いつもと違う仕組みが始まった直後は」


 隆夫が言った。


「だから、最初の説明が要ります。三分でいい。ただ、誰が聞いたかは残してください」


 長沢は少し驚いた顔をした。


「聞いた人までですか」


 美智子が即答した。


「はい。説明した人だけ残しても、現場で誰が知っているか分かりません」


 長沢は少し黙ったあと、頷いた。


「分かりました。今日の夕方、受入担当者と現場班長に説明します。聞いた人の名前も残します」


 田端が言った。


「長沢さん、受け場の人にも言うといてください。分からん時は、荷物を全部下ろす前に呼んでください。下ろしてから止まると、戻すのが大変なんですわ」


 長沢は、田端へ頭を下げた。


「分かりました。そこも伝えます」


 直人は、そのやり取りを見ながら思った。


 色札表は、黒瀬精機の紙ではなくなりつつある。


 運ぶ人。


 受ける人。


 作る人。


 確認する人。


 それぞれが、自分の困るところを足していく。


 それは良いことだ。


 ただし、足しすぎてはいけない。


 だから、現場用は短くする。


 詳しい理由は台帳へ残す。


 夕方、北河電機から再びFAXが来た。


 色札表説明実施。


 説明者、長沢。


 対象、受入担当三名、現場班長二名。


 内容。


 札なしは通常。


 赤、黄、青の意味。


 迷った時は担当者確認。


 運送車両を全停止させない。


 聞いた人の名前が、五人分並んでいた。


 直人は、その紙を見て小さく息を吐いた。


 ようやく、紙が人に届いた。


 森川が覗き込む。


「名前まで書いてある」


「うん」


「ここまでして、やっと動くんやな」


「たぶん」


 直人は答えた。


「貼っただけでは動かない。説明して、聞いた人がいて、置き場にあって、ようやく動く」


 宮田が台帳に書いた。


 貼る。


 説明する。


 聞いた人を残す。


 運ぶ側も確認する。


 美智子が、その下に赤鉛筆で一行を書いた。


 紙は、人に届いて初めて道具になる。


 直人は、その文字をじっと見た。


 紙を作ること。


 札を減らすこと。


 色を決めること。


 それだけでは足りない。


 人に届く形にする。


 忙しい現場でも思い出せる形にする。


 知らない人が来ても、最初に何を見ればいいか分かる形にする。


 黒瀬式は、また少し面倒になった。


 だが、少しだけ使えるものにもなった。


 夜、黒瀬精機の机には、二種類の紙が並んでいた。


 短い現場用。


 詳しい控え用。


 そして、北河電機から届いた説明実施のFAX。


 直人は、その三枚を見比べた。


 現場で使う紙は、短く。


 理由を残す紙は、詳しく。


 説明したことは、人の名前で残す。


 当たり前のようで、今まで抜けていた。


 美智子が、今日の最後に赤鉛筆で書いた。


 貼っただけでは動かない。


 直人は頷いた。


 町が動くためには、紙も人も動かなければならない。


 壁に貼られた紙は、まだ半分。


 それを誰かが読み、誰かに伝え、現場の手が迷わず動いて、初めて仕組みになる。


 黒瀬精機は、今日もまた、紙の先に人がいることを覚えた。


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