第105話 札は増やさない
黒瀬精機の朝は、いつも通りの機械音で始まった。
森川修一は中川機械の部品を旋盤にかけ、隆夫は河島産業向けのC2とD2の寸法を確認している。
宮田悟は、倉田精密へ納めた保管札の控えを台帳に挟み、美智子は北河電機の対応記録を見直していた。
赤止め。
黄止め。
確認付き流し。
昨日決めたばかりの止め方の区分は、机の上では分かりやすく見えた。
だが、直人は少し気になっていた。
紙の上で分かりやすいものが、現場でそのまま分かりやすいとは限らない。
美智子も同じことを考えていたのか、赤鉛筆を持ったまま言った。
「直人」
「何?」
「赤、黄、確認付き。これ、現場でちゃんと使えるかな」
「うん。そこ、気になってた」
森川が旋盤の音を止めた。
「また増やす気か?」
「いや、増やしたらあかんと思ってる」
直人が答えると、森川は少しだけ安心した顔をした。
「それならええ。札は増えたら読まれへんようになります」
宮田が顔を上げた。
「読まれないんですか」
「読まれん」
森川は即答した。
「忙しい時に、赤札、黄札、確認札、保留札、未確定札、そんなん並んだら、結局誰かが『これは何や』って聞きに来る。聞きに来るなら、札の意味がない」
美智子が頷いた。
「札は、説明を減らすためのものやね。説明が増える札はあかん」
直人は台帳に書いた。
札は説明を減らすため。
説明が増える札は、失敗。
その時、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、田端さん。おはようございます」
直人は顔を上げた。
田端商会からの電話は、だいたい現場の空気をそのまま運んでくる。
美智子は少し聞いて、眉を寄せた。
「……北河さんで? ……黄札の箱が、赤止め扱いで止まってる? ……はい。……長沢さんは?」
直人と隆夫が顔を見合わせた。
美智子は受話器を押さえた。
「今朝、田端さんが北河さんへ入れた黄札付きの箱を、受入の別の担当者が赤止めと同じように扱って、ほかの箱まで止めたらしいわ。田端さんの車が今、受入場で待ってる」
森川が低く言った。
「来ましたな」
直人は小さく息を吐いた。
やはり来た。
止め方を分けた。
だが、分けた意味が伝わらなければ、現場では全部同じ「止める札」になる。
隆夫が言った。
「美智子、田端さんに聞いて。箱に何て書いてある?」
美智子は受話器に戻った。
「田端さん、その黄色い札、文言は何て書いてあります? ……『黄止め・外観確認』。……他には? ……『黒跡確認済』と『北河判断待ち』も付いてる?」
美智子は、受話器を押さえてため息をついた。
「札が三枚付いてる」
直人は目を閉じた。
黄止め。
黒跡確認済。
北河判断待ち。
意味は分かる。
だが、箱を受け取る人には多い。
読まなければならない札が三枚ある時点で、もう迷う。
隆夫は静かに言った。
「長沢さんに代われるか聞いて」
美智子は電話へ戻った。
「田端さん、長沢さんは近くにいます? ……はい。お願いします」
少し待って、電話の向こうの声が変わった。
美智子は受話器を隆夫へ渡した。
「黒瀬です。……はい、状況は聞きました。黄色い札の箱ですね。……はい。昨日の区分では、黄止めは全停止ではありません。該当分だけ分けて確認する扱いです。……ええ、ただ、札が多すぎました。こちらも整理します」
直人は、机の上に白紙を出した。
美智子がすぐに赤鉛筆を置く。
宮田も清書用紙を出した。
隆夫は続ける。
「今は、黄色い札の箱だけ受入確認してください。ほかの箱は予定通り入れてください。田端さんの車を全部止める必要はありません。……はい。黄色い箱だけ長沢さんが確認。それ以外は通常受入でお願いします」
電話を置くと、隆夫は短く言った。
「田端さんの待機は続いてるが、全部止めは解除した」
「よかった」
直人は答えた。
だが、これで終わりではない。
むしろ、ここからが本題だった。
美智子が、机の上の紙を指で叩いた。
「札が多い」
「うん」
「色の意味も、まだ弱い」
「うん」
「それと、箱に貼る札と、台帳に残す情報が混ざってる」
直人は顔を上げた。
それだ。
現場で見る札と、後で読む記録。
その二つを同じ場所に貼ってしまっている。
田端が北河の受入場で待っている間にも、黒瀬精機では紙が増えていた。
だが、今日やるべきことは紙を増やすことではない。
紙を減らすことだった。
直人は書いた。
現場札。
ひと目で分かる。
台帳。
理由を残す。
宮田が頷いた。
「箱に貼るのは、現場札だけにするということですか」
「そう」
直人は答えた。
「詳しい理由は台帳か控えに残す。箱に貼るのは、次の人が今すぐどう動くかだけ」
森川が言った。
「それなら使える」
美智子は赤鉛筆で線を引いた。
赤札。
止める。開けずに責任者確認。
黄札。
分ける。この箱だけ確認。
青札。
注意して流す。次工程で見る。
通常品。
札なし。
森川が紙を覗き込んだ。
「青も増やすんか」
「増やすんやない」
直人は答えた。
「今まで言葉だけで残っていた確認付き流しを、青にまとめる。代わりに通常品には札を付けない」
美智子が頷いた。
「全部に札を付けたら、札が普通になってしまう。札なしが通常。色札は、いつもと違う時だけ」
宮田が清書しながら言った。
「赤、黄、青。通常は札なし」
森川は少し考えてから頷いた。
「それなら、現場でも覚えられる」
隆夫が言った。
「文言も短くしよう。長い文章は読まれん」
直人は書き直した。
赤。
止める。
黄。
分けて確認。
青。
注意して流す。
札なし。
通常。
美智子が赤鉛筆で丸を付けた。
「これでええ。理由は別紙」
そこへ、再び電話が鳴った。
田端だった。
美智子が受ける。
「はい。……ああ、動きましたか。……黄色い箱だけ確認。ほかは納入済み。……待機は?」
田端の声が、受話器越しにも少し聞こえるほど大きかった。
美智子は、思わず笑った。
「十八分。分かりました。書いておいてください」
電話を切ると、美智子は言った。
「田端さん、十八分待機。黄色い箱だけ確認して、ほかは入ったって」
「十八分か」
直人は紙に書いた。
北河受入。
黄札誤認。
全停止扱い。
黒瀬電話説明。
黄箱のみ確認。
他箱納入。
田端待機十八分。
森川が言った。
「十八分、無駄に見えるけど、今日の授業料やな」
「授業料にするには、残さなあかんね」
美智子はすぐに答えた。
午前中の仕事を終える頃、長沢からFAXが届いた。
北河電機の受入場で混乱したことへの簡単な報告だった。
黄札の意味を受入担当が赤止めと誤認。
全箱停止。
黒瀬精機へ確認後、黄札箱のみ確認。
他箱通常受入。
今後、受入側にも色札の意味を周知。
直人は、その最後の一行を見た。
受入側にも周知。
大事だった。
作る側、運ぶ側だけが知っていても足りない。
受ける側も知らなければ、札はそこで止まる。
隆夫が言った。
「北河さんにも、色札表を渡そう」
「うん」
直人は頷いた。
「松原さん、南田さん、田端さん、北河さん。全員同じ表を持つ」
美智子が付け加えた。
「ただし、一枚だけ。細かい説明付きの表は黒瀬の控え。現場へ渡すのは短い方」
宮田が、すぐに二種類を清書した。
現場用。
赤 止める。
黄 分けて確認。
青 注意して流す。
札なし 通常。
控え用。
赤止め。
全体停止。責任者確認。図面不一致、安全、機能不明。
黄止め。
該当分隔離。外観確認、用途面外の傷、判断待ち。
確認付き流し。
青札。次工程で見る。注意内容、数量、場所を記録。
通常。
札なし。余計な札を付けない。
森川が現場用を見た。
「これやったら、壁に貼れる」
「貼ってもらおう」
直人は言った。
「机の中に入れたら意味がない」
昼過ぎ、田端が黒瀬精機へ戻ってきた。
いつもより少し疲れた顔をしている。
「今日は札に振り回されましたわ」
「すみません」
直人が頭を下げると、田端は首を振った。
「いや、今日で決めといた方がええです。走る方からすると、止める箱と流す箱がはっきりしてたら助かります」
美智子は、現場用の色札表を田端へ渡した。
「これ、田端さんの車にも置いてください」
田端は紙を見て、すぐに頷いた。
「赤、止める。黄、分けて確認。青、注意して流す。札なし、通常。これなら分かります」
「待機十八分は、北河さんへ出してください」
美智子が言うと、田端は少し驚いた顔をした。
「出してええんですか」
「出してください。黄札誤認で全停止になった待機です。記録があります」
田端は、少しだけ笑った。
「奥さん、ほんま容赦ないな」
「容赦やなくて、次から迷わんためです」
「それなら出します」
田端は、現場用の表を大事そうに畳んだ。
「これ、うちの運転席にも貼っときますわ」
そのあと、南田板金からも電話が入った。
南田は、現場用の色札表を見て言った。
「これ、うちの若いのにも見せます。昨日から止めるのが怖い顔してたけど、赤と黄が分かれたら少し楽やと思います」
「止めた人を責めないのは変わりません」
直人は言った。
「ただ、止め方は分けます」
「分かりました。うちでは、まず黄で分ける癖を付けます。赤はほんまに全体を止める時だけ」
「それがええと思います」
電話を切ると、直人は少しだけ肩の力を抜いた。
午後の黒瀬精機は、ようやく通常仕事に戻った。
中川機械の部品を森川が仕上げ、隆夫は河島産業の材料取りを終える。
宮田は倉田精密の追加保管札の控えを封筒に入れ、美智子は北河対応の待機時間を台帳へ転記した。
直人は、作業台の上に並んだ色札を見た。
赤。
黄。
青。
そして、札なし。
最初は、札があれば分かると思っていた。
だが、札が増えれば迷う。
説明が増えれば止まる。
色が増えれば覚えられない。
だから減らす。
黒瀬式は、足すだけでは駄目なのだ。
夕方、北河電機の長沢が黒瀬精機へ寄った。
手には、黒瀬がFAXで送った現場用の色札表がある。
「受入場に貼りました」
長沢は言った。
「それと、今日の田端さんの待機十八分は、こちらで見ます。受入側の誤認でした」
田端がいたら、帽子を取って笑っただろう。
美智子は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
長沢は、少し苦笑した。
「正直、札が付いていると全部問題品に見えました。でも、札なしが通常、色札は状態を示すだけ、と説明したら現場も納得しました」
直人は、その言葉を聞いて頷いた。
札は、罰ではない。
札は、状態だ。
それも大事な線だった。
直人は紙に書いた。
札は罰ではない。
状態を示す。
長沢は、その文字を見て言った。
「それ、こちらでも使わせてください」
「はい」
直人は答えた。
「ぜひ」
長沢が帰ったあと、美智子は台帳を閉じながら言った。
「今日は、増やす日やなくて減らす日やったね」
「うん」
「黒瀬式、放っておいたら増えるわ」
「増える」
直人は苦笑した。
「でも、増えすぎたら使えない」
森川が作業場から戻ってきた。
「道具と同じですわ。便利やからいうて、全部の工具を腰にぶら下げたら動けません」
隆夫が笑った。
「そらそうや」
森川は続けた。
「使うもんだけ持つ。あとは棚に置く。札も一緒でしょう」
直人は、その言葉を今日の記録に書いた。
使う札だけ現場へ。
詳しい理由は台帳へ。
美智子が、その下に赤鉛筆で足した。
札は増やさない。
夜、直人は色札表をもう一度見た。
赤 止める。
黄 分けて確認。
青 注意して流す。
札なし 通常。
たった四つ。
だが、現場で使うなら、これくらいがいい。
黒瀬式は、現場を縛るためのものではない。
現場が迷わず動くためのものだ。
そのためには、線を引くことだけでなく、線を減らすことも必要だった。
足す勇気。
止める勇気。
そして、減らす勇気。
黒瀬精機は、今日また一つ、地味なことを覚えた。
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