第104話 止めるにも線がいる

 翌朝、黒瀬精機の事務所には、昨日のFAXがまだ机の端に置かれていた。


 松原製作所から届いた報告書。


 束ね札向き不明瞭。


 松原側で停止。


 南田板金と確認。


 箱赤線追加。


 以後、同じ向きで束ねる。


 直人は、その紙を見ながら、胸の奥に残る小さな熱を感じていた。


 黒瀬がいなくても、松原は止めた。


 南田と田端が確認し、北河へ流した。


 止めた人を責めない。


 止めた理由を見る。


 それは、昨日の黒瀬式にとって大きな一歩だった。


 だが、美智子は朝から渋い顔をしていた。


「直人」


「何?」


「昨日のこれは良かった。でも、次に出るのはたぶん逆やで」


「逆?」


「止めすぎる」


 直人は、少し黙った。


 美智子は赤鉛筆でFAXの隅を叩いた。


「止めた人を責めない。これは大事。でも、それだけやと、怖くなった人が全部止めるかもしれん」


 森川修一が、旋盤の前から顔を上げた。


「奥さん、それ分かりますわ。怒られるのが怖い現場やと、黙って流す。責められんと分かった現場やと、今度は何でも止める。どっちも困る」


 宮田悟が、清書用の紙を持ったまま言った。


「止める基準が必要ということですか」


「そうやね」


 美智子は言った。


「止める理由を残すだけやなくて、どこまで止めるのかも決めなあかん」


 直人は、昨日の記録の下に書いた。


 止める基準。


 全停止。


 部分停止。


 確認付きで流す。


 その三つを書いただけで、少し見え方が変わった。


 止めるとは、全部を止めることではない。


 どこを止めるのか。


 何を流すのか。


 誰に確認するのか。


 それを決めなければ、止めること自体がまた現場の負担になる。


 その時、事務所の電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、南田さん。おはようございます」


 直人は顔を上げた。


 美智子は、すぐに直人と隆夫を見た。


「……ええ。……また止まった? ……今度は松原さんではなく、南田さんのところで?」


 森川が小さく息を吐いた。


「来たな」


 美智子は、少し聞いてから受話器を押さえた。


「北河の200個対応、南田さんのところで止まってる。松原さんから来た未曲げ品のうち、穴の周りに黒い焼けみたいな跡がある束があったらしい。寸法は合ってる。でも、南田さんのところの若い職人さんが『これ配線に触れたらまずいのでは』って止めたって」


 隆夫が聞いた。


「配線に触れる場所なんか?」


「南田さんは、触れん場所やと思うって。ただ、昨日『止めた人を責めない』って話があったから、現場の子が全部止めたらしい」


 直人は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 美智子が言った通りだった。


 止めた人を責めない。


 その言葉は正しい。


 だが、止め方を教えなければ、現場は怖くて全部止める。


 隆夫はすぐに言った。


「南田さんに言うてくれ。黒瀬は現地に行かん。まず、問題の束だけ分ける。他の束は作業を進めてええか、南田さんの判断で見てほしい」


 美智子は受話器に戻った。


「南田さん、黒瀬からです。まず問題の束だけ分けてください。他の束まで全部止めずに、南田さんの判断で進められるものは進めてください。……はい。黒瀬は現地には行きません。サンプルだけ、田端さんの便でこちらへ回せますか。……はい。確認します」


 受話器を置くと、美智子は直人を見た。


「行きたいやろ」


「行きたい」


 直人は正直に答えた。


「でも、行ったらあかんやつやな」


「そう」


 美智子は頷いた。


「これは変更時確認ではなく、止め方の確認や。現場へ飛んでいったら、また黒瀬待ちになる」


 森川が言った。


「サンプルだけ見て、基準を返すんがええでしょうね」


 直人は頷いた。


 午前10時前、田端商会の軽トラックが黒瀬精機へ寄った。


 田端は、小さな紙箱を一つ持って事務所へ入ってきた。


「南田さんとこからです。問題の束から3枚だけ抜いてきました。ほかの分は、南田さんの判断で進めてます」


 直人は、少しだけ安心した。


 全部は止まっていない。


 それだけでも大きい。


 箱を開けると、未曲げの板が3枚入っていた。


 穴の周りに、確かに黒っぽい跡がある。


 焼けというより、抜き加工時の油汚れと擦れが混ざったようなものだった。


 森川が手に取って、指で軽くこする。


「油と擦れやな。深い傷ではなさそうや」


 隆夫も確認する。


「穴位置は?」


 宮田がノギスを持ってきた。


 寸法を測る。


「図面範囲内です」


 直人は、簡易版の確認表を開いた。


 用途。


 配線束固定用。


 守る面。


 配線に触れる側。


 今回の黒い跡は、曲げた後にどこへ来るのか。


 直人は当て具の簡単な図を見ながら、板を想像上で曲げた。


 黒い跡は、配線に触れる側ではない。


 取り付け穴の周辺で、制御盤側に向く。


 外観として気にするかどうかは北河の判断だが、配線被覆を傷つける問題とは別だった。


 森川が言った。


「これは、配線側のバリとは別やな」


「うん」


 直人は頷いた。


「止めたのは悪くない。でも、全部止める案件ではない」


 美智子が赤鉛筆を持った。


「ほな、どう書く?」


 直人は紙に書いた。


 今回の黒い跡。


 寸法内。


 配線接触側ではない。


 バリではない。


 外観許容は北河確認。


 該当束のみ確認。


 他束は継続可。


 宮田がそれを見て言った。


「つまり、全停止ではなく、部分停止ですね」


「そう」


 直人は答えた。


「問題のある束だけ分ける。他は流す。北河に外観として気にするか確認する」


 田端が頷いた。


「運ぶ方も、その方が助かります。全部止まると、車も人も空く。問題の箱だけ分けてくれたら、ほかは予定通り動かせます」


 美智子は、新しい紙の見出しを書いた。


 止め方の区分。


 一、赤止め。


 全体を止める。


 二、黄止め。


 該当分だけ分ける。


 三、確認付き流し。


 流しながら次工程へ注意を渡す。


 森川が紙を覗いた。


「赤と黄ですか」


「分かりやすいやろ」


 美智子は言った。


「赤は止める。黄は分ける。確認付きは、札を付けて流す」


 直人は、それを見て頷いた。


 赤止め。


 図面不一致。


 曲げ方向不明。


 安全・機能に関わる不明点。


 次工程で判断できないもの。


 黄止め。


 該当束だけ分ける。


 寸法内だが外観確認が必要。


 用途面ではない傷や汚れ。


 判断者へ確認すれば流せるもの。


 確認付き流し。


 次工程が見れば判断できるもの。


 注意札を付ける。


 数量、場所、理由を残す。


 美智子が赤鉛筆で線を引いた。


「止めた人を責めない。でも、止め方は見る」


 宮田が、そのまま清書した。


 止めた人を責めない。


 止め方を育てる。


 直人は、その言葉を見て小さく頷いた。


 止める勇気を潰してはいけない。


 だが、止め方を教えなければ、現場は止まりすぎる。


 午後前、南田板金へFAXを送った。


 赤止め。


 黄止め。


 確認付き流し。


 その区分を書いた簡単な紙だった。


 すぐに南田から電話が返ってきた。


「黒瀬さん、見ました。今回のは黄止めでええんですね」


 隆夫が受話器を取る。


「はい。該当束だけ分けて、北河さんへ外観確認。ほかは進めてください」


「分かりました。現場の若い子には、止めた判断は悪くない。ただ、全部止めるんやなくて分けるんや、と伝えます」


「それがええと思います」


 南田は少し笑った。


「止めるにも段取りが要るんですな」


「要りますね」


 隆夫も苦笑した。


 電話を切ったあと、直人は作業場へ戻った。


 中川機械の部品が待っている。


 森川は、すでに次の加工に入っていた。


「北河、動きましたか」


「うん。問題の束だけ分けて、ほかは進める」


「ええことです」


 森川は、刃物の音を聞きながら言った。


「止めるんは大事。でも、全部止める癖がついたら、それはそれで現場が怖がりますからね」


「うん」


「止めた人を責めない。けど、止め方は教える。これ、よう覚えとかなあかん」


 直人は頷いた。


 午後3時過ぎ、北河電機の長沢から電話が入った。


 美智子が受け、直人に代わる。


「黒瀬です」


「長沢です。南田さんから確認が来ました。穴周りの黒い跡ですが、今回は制御盤内部で見えない場所ですし、配線にも触れないので問題なしとします」


「分かりました」


「ただ、次回からは、外観で気にする範囲も先に書いた方がいいですね」


 直人は、少しだけ笑った。


「はい。それがええと思います」


 長沢は続けた。


「それと、南田さんの若い方が止めたことについては、こちらからも責めないよう伝えます。止めてくれたから、外観の許容範囲が抜けていたことに気づけました」


「ありがとうございます」


 電話を置いたあと、直人は美智子に内容を伝えた。


 美智子は台帳に書いた。


 北河電機。


 外観許容範囲追加。


 今回黒跡、機能影響なし。


 黄止めで処理。


 他束は継続。


 森川が作業場から言った。


「黄止め、使えましたな」


「うん」


 直人は答えた。


「止めすぎずに済んだ」


 夕方、田端が南田板金からの荷を北河へ入れた帰りに、また黒瀬精機へ寄った。


 今日は少し機嫌がよさそうだった。


「今日は全部止まらんかったですわ」


 田端は帽子を脱ぎながら言った。


「問題の束だけ黄色い札付けて、ほかは予定通り積みました。北河さんも、黄色い札の箱だけ先に確認してました」


 美智子が聞く。


「待機は?」


「今日は5分です。黄色い札の確認だけ」


「書いてる?」


「もちろん」


 田端は控えを出した。


 黄止め箱。


 黒跡確認。


 他箱予定通り搬送。


 待機5分。


 北河外観確認済。


 直人は、その控えを見ていた。


 昨日の12分。


 今日の5分。


 どちらも小さな時間だ。


 だが、昨日は迷いを流さないための12分。


 今日は全部を止めずに済ませるための5分。


 同じ待機でも、中身が違う。


 それが紙に残る。


 松原からも、夕方に短いFAXが届いた。


 黒跡について、次回より抜き後に油汚れ確認。


 配線側でない場合は黄止め扱い。


 配線側の場合は赤止め確認。


 松原製作所 松原。


 昨日より少しだけ、字が丁寧になっている気がした。


 宮田がそれを見て言った。


「松原さん、もう自分で区分を書いてますね」


「うん」


 直人は頷いた。


「黒瀬が書かなくても、松原さんが書いてる」


 それは、小さなことではなかった。


 黒瀬式が、黒瀬の手を離れ始めている。


 ただし、好き勝手に走っているのではない。


 赤止め。


 黄止め。


 確認付き流し。


 その線を使って、現場が自分で判断しようとしている。


 夜、黒瀬精機の事務所では、今日の記録が一枚にまとめられた。


 止め方の区分。


 赤止め。


 全体停止。


 黄止め。


 該当分隔離。


 確認付き流し。


 注意札付きで次工程へ。


 その横に、美智子が赤鉛筆で書いた。


 止めた人を責めない。


 止め方を見る。


 宮田が、その下に清書した。


 止めるにも線がいる。


 直人は、その文字を見ていた。


 止めることは悪くない。


 むしろ、必要な時に止まれない現場は危ない。


 だが、止めることが目的になると、現場は固まる。


 全部を止めるのか。


 一部を分けるのか。


 注意を付けて流すのか。


 そこに線がいる。


 町が動くというのは、走ることだけではない。


 止まることだけでもない。


 どこを止め、どこを流すかを、自分たちで決められることだ。


 黒瀬精機は、今日も現場へ行かなかった。


 それでも、町は一度止まり、分けて、また流れた。


 昨日より少しだけ、止まり方が上手くなった。


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