第103話 止めた人を責めない

 黒瀬精機が北河電機の現場に常駐しないと決めた翌朝、直人はいつもより早く工場へ入った。


 作業場には、すでに森川修一がいた。


 中川機械の追加部品を並べ、切削前の確認をしている。


「早いな、直坊」


「気になって」


「北河さんの件か」


「うん」


 直人は正直に頷いた。


 昨日、黒瀬は初回立ち上げ確認だけを行い、南田板金に後続の確認を任せて戻った。


 常駐しない。


 立ち上げる。


 黒瀬精機の仕事を止めない。


 そう決めた。


 だが、決めたからといって不安が消えるわけではない。


 松原製作所で抜きと穴あけ。


 南田板金で曲げと配線側バリ取り、当て具確認。


 田端商会で工程間搬送と納入。


 北河電機で受入確認。


 その流れが、黒瀬抜きで本当に回るのか。


 直人は、頭では分かっている。


 任せなければ、仕組みにはならない。


 けれど、胸の奥は落ち着かなかった。


 森川は、そんな直人の顔を見て小さく笑った。


「行きたい顔してるで」


「……行った方がええかな」


「行ったらあかんやろ」


 森川は即答した。


「昨日、常駐せんって決めたんやろ。なら、今日は行ったらあかん日や」


 直人は言葉に詰まった。


 森川は続けた。


「心配やから見に行く。これを一回やると、次も見に来てくれると思われますわ」


「そうやな」


「黒瀬式を広げるなら、黒瀬がおらん場所で動くかどうかを見なあかん」


 その言葉は、少し痛かった。


 だが、正しい。


 直人は、作業台の上の予定表を見た。


 中川機械。


 河島産業。


 倉田精密。


 黒瀬精機には黒瀬精機の仕事がある。


 美智子が事務所へ入ってきて、予定表を見るなり言った。


「今日は、北河さんのところへ行かない日やね」


「分かってる」


「分かってる顔してへん」


 森川が笑った。


「奥さんも同じこと言うてますわ」


 美智子は赤鉛筆で予定表に線を引いた。


 午前。


 黒瀬通常仕事。


 北河対応は連絡のみ。


 現地確認なし。


「連絡は受ける。でも、現地に行かない」


 美智子は言った。


「ただし、変更が出た時は別。昨日決めた通り、変更時確認になる」


 直人は頷いた。


「変更時確認」


「そう。心配やから行くのと、変更があったから行くのは違う」


 その線引きも必要だった。


 不安で動くと、黒瀬は便利屋になる。


 条件で動くなら、仕事になる。


 朝八時半、松原製作所では、北河電機向けの残り分の抜き作業が始まっていた。


 松原は、昨日黒瀬から渡された簡易版の確認表を作業台の端に貼っていた。


 用途。


 配線束固定用。


 守る面。


 配線に触れる側。


 曲げ方向。


 南田板金で当て具確認。


 梱包条件。


 曲げ部を潰さない向き。


 それだけの紙だ。


 だが、あるのとないのとでは違った。


 若い職人が抜き終えた金具を十個ずつ重ね、札を付けていく。


 松原一次確認済。


 抜き、穴あけ確認済。


 配線側目印確認済。


 最初の束は問題なかった。


 二つ目も問題なかった。


 三つ目の束で、若い職人の手が止まった。


「社長、これ、札の向き合ってますか」


 松原は、作業台へ寄った。


 抜きと穴の位置は合っている。


 板の向きも、図面と照らせば間違っていない。


 だが、十個ずつ束ねた時、配線側を示す赤線の札が逆向きに見える。


 このまま南田板金へ送ると、南田が曲げた後に配線側を確認する時、迷うかもしれない。


 部品はまだ曲がっていない。


 だから、当て具には通せない。


 しかし、次の工程で見るべき面を迷わせる渡し方になっている。


 以前なら、そのまま流していたかもしれない。


 抜きは合っている。


 穴も合っている。


 札の向きくらい、向こうで見れば分かる。


 そう考えてしまう。


 だが、昨日の黒瀬の言葉が松原の頭に残っていた。


 誰が何を見るかを分ける。


 分けたなら、次の人が迷わないように渡す。


 松原は、束を手に取り、しばらく見た。


「止める」


 若い職人が顔を上げた。


「全部ですか」


「この束から一回止める。南田さんに確認する」


「でも、納期が」


「止める」


 松原は、もう一度言った。


「迷ったまま流したら、昨日と同じになる」


 松原はすぐに電話を取った。


 南田板金へかける。


「南田さん、松原です。抜きと穴は合ってます。ただ、束ね札の向きが紛らわしい。配線側の赤線が、曲げた後に逆へ見えそうな束があります。……はい。流す前に止めてます」


 電話の向こうで、南田が少し黙った。


 そして言った。


「止めて正解や。今から見に行く」


 松原は、ふっと息を吐いた。


 止めて正解。


 その一言が、思ったよりありがたかった。


 南田は十五分ほどで松原製作所へ来た。


 田端商会の田端も、ちょうど工程間搬送の時間で到着した。


 軽トラックの荷台は空だ。


 金具を積むつもりで来ていた。


 田端は、作業台の前で止まっている箱を見るなり言った。


「何か出ましたか」


 松原が説明する。


「抜きと穴は合ってます。でも束ね札の赤線が逆に見える。これをそのまま流すと、南田さん側で配線側を取り違えるかもしれません」


 南田は未曲げの板を一枚取り、曲げ予定の位置と赤線の札を見比べた。


「確かに、これは紛らわしい」


 田端も覗き込む。


「運ぶ方からすると、箱を開けた時の上面と札の向きも関係しますな」


 松原は顔をしかめた。


「そこまで見るんですか」


「見ます。箱を開けた人が、どっちから見てるかで迷うことありますから」


 南田は、すぐに決めた。


「束ね方を変えよう。配線側の目印が、曲げた後にこっちへ来るようにそろえる。箱に入れる時も、赤線が上から見える向きでそろえる」


 松原は頷いた。


「分かりました」


 田端が箱を持ち上げた。


「ほな、箱の側面にも赤線を入れましょう。開ける向きが分かるように」


「そこまで必要か」


 松原が少し驚く。


 田端は言った。


「必要かどうかは、今決めるんです。開けた時に迷うなら、今やっといた方が早い」


 南田は小さく笑った。


「田端さんまで黒瀬みたいなこと言うようになったな」


「嫌やなあ」


 田端は笑った。


「荷台で揉めたくないだけですわ」


 松原製作所では、止まっていた束の札を付け直した。


 箱の側面にも赤線を入れる。


 田端は、荷台に積む向きまで確認した。


 その間、軽トラックは待っている。


 以前なら、この待ち時間は何となく消えていただろう。


 田端は、帽子のつばを上げて言った。


「松原さん、南田さん。今日の待機、十分超えたら記録しときますわ」


 松原は一瞬、申し訳なさそうな顔をした。


「すみません」


「謝らんでええです。止めた理由があるなら、待機も仕事です」


 南田が頷いた。


「それも北河さんに報告する。止めた理由がある待機や」


 松原は、少しだけ目を細めた。


 止めた理由がある待機。


 その言葉は、工場の空気を変えた。


 止めることは、悪いことではない。


 理由なく止まるのが困る。


 理由を残して止めるなら、それは次の失敗を防ぐ仕事になる。


 黒瀬精機に最初の電話が入ったのは、午前十時過ぎだった。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、南田さん」


 直人は反射的に顔を上げた。


 美智子は、すぐに手で制した。


 行かない。


 その合図だった。


「……はい。松原さんのところで束ね札の向きが紛らわしかった。……抜きと穴は合っている。……束ね方と箱の赤線を追加。……田端さんの待機十分超え。……分かりました」


 美智子は受話器を置くと、直人を見た。


「報告だけ」


「行かなくていい?」


「行かなくていい」


 美智子ははっきり言った。


「松原さん、南田さん、田端さんで止めて直した。黒瀬が行くところじゃない」


 直人は、胸の奥の力が少し抜けるのを感じた。


 心配はある。


 だが、それ以上に、嬉しさがあった。


 黒瀬がいない場所で、止まった。


 そして、直した。


 森川が旋盤の前から言った。


「ほら、回ってるやないですか」


「うん」


「行かんでよかったな」


「うん」


 美智子は台帳に書いた。


 松原製作所。


 束ね札向き不明瞭。


 松原で停止。


 南田確認。


 田端、箱向き追加。


 黒瀬現地対応なし。


 報告のみ。


 宮田悟が、その横に小さく書いた。


 止めた人を責めない。


 直人は、その文字を見た。


「宮田、それええな」


 宮田は少し驚いた顔をした。


「え、そうですか」


「うん。今日の大事なところやと思う」


 森川が頷いた。


「現場で止めたやつを責めたら、次から黙って流しますからね」


 その言葉は重かった。


 黙って流す。


 町工場にとって、それは恐ろしい。


 間に合わないから。


 怒られるから。


 余計なことを言うなと言われるから。


 そうして、迷いがそのまま次の工程へ流れる。


 そして最後に、誰かが大きな不具合として受け取る。


 午後、北河電機からも電話が入った。


 長沢だった。


 美智子が受け、隆夫へ代わる。


「黒瀬です。……はい、聞いています。束ね札の件ですね」


 直人は、作業をしながら耳だけを向けていた。


 隆夫は落ち着いて話す。


「止めたのは松原さんです。現物不良ではなく、次工程で迷う可能性があったから止めた。南田さんと田端さんで処置した。これは、止めてよかった案件やと思います」


 電話の向こうで、長沢が何か言った。


 隆夫は頷く。


「はい。待機時間は田端さんから出ます。束ね直しは松原さん側の一次確認に含めるか、今回から追加項目にするかは、松原さんと確認してください。……はい。黒瀬から言うなら、止めたこと自体は責めないでください」


 直人は、父の横顔を見た。


 隆夫は続けた。


「止めた人を責めると、次から止まりません。止まらないまま流れた方が高くつきます」


 その言葉に、森川が小さく頷いた。


 電話を置いたあと、隆夫は少し息を吐いた。


「長沢さんも分かった。待機と束ね直しは、松原さん、田端さんと分けて話すそうや」


 美智子が台帳に追記した。


 北河へ説明。


 停止判断は妥当。


 待機費、束ね直し費は別途整理。


 止めた人を責めない。


 夕方、田端が北河への便を終えて黒瀬精機へ寄った。


 いつものように、戻りの荷物が少しだけある。


「今日の分、無事入りました」


 田端は帽子を脱ぎながら言った。


「北河さん、箱の赤線を見てましたわ」


「反応は?」


 直人が聞くと、田端は少し笑った。


「最初は『そこまでやるんですか』いう顔でした。でも、現場の人が開けてすぐ向きが分かったんで、納得してました」


 森川が言った。


「現場の人が納得するのが一番早いですわ」


「ほんまそれです」


 田端は、持ってきた控えを机に置いた。


 箱向き赤線。


 工程間待機十二分。


 束ね直し後搬送。


 初回二十五個納入。


 受入確認済。


 美智子がそれを見て、少しだけ眉を上げた。


「十二分、ちゃんと書いてる」


「奥さんに言われる前に書きました」


 田端は笑った。


「待機も仕事ですから」


 直人は、その控えを見ていた。


 十二分。


 数字だけ見れば小さい。


 だが、そこには意味がある。


 止めた時間。


 迷いを流さなかった時間。


 次の不具合を防いだ時間。


 その十二分が記録に残ることが、黒瀬式にとって大事だった。


 夜、松原からFAXが届いた。


 簡単な報告書だった。


 束ね札向き不明瞭。


 松原側で停止。


 南田板金と確認。


 箱赤線追加。


 以後、同じ向きで束ねる。


 松原製作所 松原。


 字は相変わらず少し荒い。


 だが、十分だった。


 直人は、そのFAXをしばらく見つめた。


 黒瀬が書いた報告ではない。


 松原が自分で書いた報告だ。


 それが何より大きかった。


 美智子が、赤鉛筆で今日の記録の最後に一行を書いた。


 止めた理由を残す。


 宮田が、その下に清書した。


 止めた人を責めない。


 森川が作業場から戻ってきて、その二行を見た。


「ええやないですか」


「うん」


 直人は頷いた。


「今日、黒瀬は現場に行ってない。でも、止まって、直って、流れた」


「それが仕組みやろ」


 森川は言った。


「直坊が行かんでも動いたなら、一歩進んだんや」


 隆夫も静かに頷いた。


「黒瀬式は、黒瀬がおる時だけ動くもんではあかん」


 その通りだった。


 黒瀬がいれば動く。


 黒瀬が見れば止まる。


 黒瀬が紙を書けば分かる。


 それでは、結局また一社に寄ってしまう。


 町を一つの工場にするなら、各工場が自分で止め、自分で理由を書き、自分で次へ渡せるようにならなければならない。


 夜、直人は台帳の最後に書いた。


 黒瀬がいなくても、止まれること。


 その下に、美智子が赤鉛筆で足した。


 止めた人を責めない。止めた理由を見る。


 直人は、その二行をじっと見た。


 町が動くというのは、走ることだけではない。


 必要な時に止まれることでもある。


 止まった人を責めず、止まった理由を見る。


 その線があれば、次の工程へ迷いを流さずに済む。


 黒瀬精機は、今日、現場へ行かなかった。


 それでも、町は止まり、直し、また動いた。


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