第102話 常駐はしない
北河電機の二百個対応がB案で決まった翌朝、黒瀬精機には三種類の紙が並んでいた。
一つは、北河電機向けの工程分担表。
一つは、黒瀬精機の通常仕事の予定表。
もう一つは、美智子が新しく作った黒瀬段取り表だった。
北河電機。
初回五十個先行。
残り百五十個は通常分割。
黒瀬精機。
当て具作成。
確認札。
工程分担表。
初回立ち上げ確認。
その最後の一行を、直人はじっと見ていた。
初回立ち上げ確認。
美智子が赤鉛筆を持ったまま言った。
「ここ、大事やね」
「うん」
「黒瀬が全部の便に付き添うわけやない。最初に流れを作る。あとは松原さん、南田さん、田端さん、北河さんが自分たちで回す」
森川修一が旋盤の前から言った。
「そらそうです。直坊が毎回ついて回ったら、うちの機械が止まりますわ」
直人は苦笑した。
「分かってる」
「分かってる顔やないで」
森川は遠慮なく言った。
「町を動かすのはええ。けど、黒瀬精機まで止まったら、何してるか分からん」
隆夫も、作業場から戻ってきた。
「今日は中川機械の追加分、河島産業のC2とD2、倉田精密の保管札がある。北河の段取りに全部持っていかれたら困る」
「うん」
直人は予定表を見た。
中川機械の追加部品は、いつもの食わせる仕事だ。
河島産業のC2とD2は、赤と青の流れを崩さないための仕事。
倉田精密の保管札は、クロフィックスにもつながる。
そして北河電機の二百個対応は、町工場連携の実例になる。
全部大事だ。
だが、全部に全力で張り付けば、黒瀬精機が壊れる。
美智子が、予定表に縦線を一本引いた。
午前。
黒瀬通常仕事。
午後一番。
北河初回立ち上げ確認。
夕方。
記録整理。
「黒瀬の段取り時間は、ここまで」
美智子は言った。
「これ以上かかるなら、別料金というより、別日程やね。時間は増やせん」
その言い方に、直人は少し驚いた。
値段ではなく、日程。
確かに、いくら値段を付けても、人と機械の時間は増えない。
そこを忘れると、ただ高い便利屋になる。
午前中、黒瀬精機は通常仕事に集中した。
森川は中川機械の部品を仕上げ、隆夫は河島産業のC2とD2の材料取りを進める。
宮田悟は、倉田精密の保管札を確認していた。
保管札には、使用範囲、保管場所、戻し先、確認日が入る。
倉田精密の杉本からは、前日に電話が入っていた。
試作品の保管棚で、札が足りなくなりそうだという。
杉本は、いつも落ち着いた声で話す女性だ。
だが昨日の電話では、少しだけ急ぎの色があった。
「黒瀬さん、北河さんの件でお忙しいのは聞いています。ただ、こちらの保管札も、今週中に必要です。札がないまま棚に戻すと、また混ざりますので」
その一言は、直人の胸に残っていた。
北河の緊急対応は目立つ。
町が動く。
人が走る。
成果が見える。
だが、倉田精密の保管札も同じくらい大事だ。
派手ではない。
でも、混ざれば事故につながる。
黒瀬精機がやるべき仕事は、派手な段取りだけではない。
昼前、松原製作所から電話が入った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、松原さん」
直人は、思わず顔を上げた。
美智子は少し聞いてから、受話器を押さえた。
「初回五十個の抜きは終わったって。これから南田さんへ流すけど、黒瀬さんも最初から見に来てもらえますか、やって」
森川が、すぐに言った。
「最初から見に行ったら、また最後までおることになりますよ」
隆夫が頷いた。
「当て具はもう渡してある。一次確認のやり方も昨日伝えた。黒瀬が見るのは、南田さんのところで最初の十個が当て具に合うかどうかでええ」
直人も頷いた。
「おかん、そう伝えて」
美智子は受話器に戻った。
「松原さん、黒瀬は南田さんのところで最初の十個だけ立ち上げ確認します。同じ品番なので、松原さんの一次確認は、昨日の当て具でお願いします。……はい。合わないものが出た場合は、その時点で連絡ください。……はい、お願いします」
電話を置くと、森川が少し笑った。
「断れたやないか」
「断ったわけじゃない」
直人は言った。
「見る場所を決めただけ」
「それが大事なんや」
森川は、また旋盤に向かった。
午後一番、直人と隆夫は南田板金へ向かった。
南田の作業台には、松原製作所から届いた初回分が並んでいる。
十個ずつ束にされ、簡易札が付いていた。
松原一次確認済。
抜き、穴あけ確認済。
曲げ方向、当て具通過。
松原の字は少し荒いが、意味は分かる。
南田がその札を見て言った。
「松原さん、ちゃんと書いてきたな」
「昨日よりずっと見やすいです」
直人は答えた。
北河電機の長沢も来ていた。
今日は焦っていない。
代わりに、手元に確認表を持っている。
田端商会の田端は、外で箱の向きを見ていた。
南田が一つ目の金具を曲げ、当て具に置く。
すっと収まる。
曲げ方向は正しい。
次に、配線側のバリを確認する。
森川が作った札の赤い線が、作業台の上で効いていた。
ここを見る。
ここは通常。
それだけで、目が迷わない。
二つ目。
三つ目。
十個目まで、大きな問題はなかった。
南田が顔を上げる。
「これなら流せる」
長沢がほっと息を吐いた。
「よかった」
直人は確認表に書いた。
初回十個確認。
曲げ方向問題なし。
配線側バリ取り範囲確認済。
以後、南田板金で継続確認。
黒瀬常駐なし。
長沢が、その最後の一行を見た。
「黒瀬常駐なし、ですか」
「はい」
直人ははっきり答えた。
「立ち上げ確認はしました。ここから先は、南田さんの確認で回せます。黒瀬が毎回見る形にすると、黒瀬精機の仕事が止まります」
長沢は、少し言いにくそうにした。
「こちらとしては、黒瀬さんが見てくれると安心なんですが」
隆夫が静かに言った。
「安心にも値段と時間があります」
長沢は黙った。
隆夫は続けた。
「黒瀬が全部見れば、確かに安心かもしれません。ただ、その分、黒瀬の人と時間を使います。必要なら常駐確認として別の仕事になります。でも今回のB案は、初回立ち上げ確認までです」
田端が外から戻ってきて言った。
「運送も同じです。毎便わしが箱詰めまで見たら安心でしょうけど、それは運ぶだけとは別の仕事ですわ」
南田も頷いた。
「うちも、曲げた後の確認はやる。けど、黒瀬さんが毎回横におらな動かんようでは、うちの仕事にならん」
長沢は、確認表を見下ろした。
松原。
南田。
黒瀬。
田端。
北河。
それぞれの欄に、役割が書かれている。
黒瀬の欄には、初回立ち上げ確認とある。
常駐とは書いていない。
「分かりました」
長沢は、ゆっくり頷いた。
「今回はB案でした。常駐確認ではありませんね」
直人は少しだけ息を吐いた。
ここを曖昧にすると、また緊急対応が標準になる。
段取り費をもらっても、範囲が曖昧なら飲み込まれる。
南田は、その後の十個を続けて曲げた。
直人たちは、しばらく見たが、同じ流れで問題なく進んでいる。
そこで隆夫が言った。
「戻るぞ」
「うん」
直人は頷いた。
長沢が少し驚いた顔をした。
「もう戻られるんですか」
隆夫は穏やかに答えた。
「はい。黒瀬精機にも納期がありますので」
その一言で、長沢はようやく小さく頭を下げた。
「失礼しました。ありがとうございました」
黒瀬精機へ戻ると、森川がちょうど中川機械の部品を仕上げていた。
「早かったな」
「初回だけ見て戻った」
「ええことです」
森川は、仕上げた部品を布で拭きながら言った。
「黒瀬精機は、黒瀬精機の仕事せなあかん」
宮田が倉田精密の保管札を並べている。
「杉本さんの分、あと少しです」
直人は、すぐにそちらへ入った。
保管札の確認。
戻し先。
使用範囲。
確認日。
それぞれを宮田と一緒に見ていく。
北河の金具ほど派手ではない。
だが、これも黒瀬精機の仕事だ。
夕方、倉田精密の杉本が黒瀬精機へ来た。
淡い色の作業着に、いつもの黒い鞄を持っている。
「お忙しいところ、すみません」
美智子が笑って迎えた。
「こちらこそ、少しお待たせしました」
杉本は、机の上の保管札を見て頷いた。
「これです。これがないと、現場で『とりあえずここへ置く』が増えます」
直人は、その言葉に笑った。
「とりあえずは長生きしますからね」
「本当に」
杉本も少し笑った。
「黒瀬さん、最近は町全体の段取りまで見ていると聞きました」
直人は、少し身構えた。
杉本は続けた。
「でも、こういう札をきちんと納めていただけるなら安心です」
その言葉に、直人は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「町をつなぐのも大事だと思います。ただ、黒瀬精機さんが何でも屋になってしまうと、こういう地味な仕事が遅れるのではないかと少し心配していました」
美智子が、直人をちらりと見た。
森川も作業場から聞いている。
隆夫は黙って杉本の話を受け止めていた。
直人は答えた。
「今日、まさにそこを考えていました。黒瀬が全部に常駐すると、黒瀬自身の仕事が止まる。だから、見る場所と時間を決める必要があります」
杉本は頷いた。
「それは大事ですね。医療系の現場でも、確認者が増えすぎると安心に見えて、逆に責任が曖昧になることがあります」
直人は、その言葉を紙に書きたくなった。
確認者が増えすぎると、責任が曖昧になる。
だが、今は杉本との納品確認が先だった。
保管札の内容を一枚ずつ確認し、杉本は受領印を押した。
「助かります。これで棚の戻し先を固められます」
杉本が帰ったあと、事務所には少しだけ静かな空気が残った。
森川が言った。
「杉本さん、よう見てはるな」
「うん」
直人は答えた。
「黒瀬が何でも屋になりかけてるのを、外から見ても分かるんやと思う」
美智子が台帳を開いた。
「だから、決めよう」
「何を?」
「黒瀬段取りの受け方」
美智子は、赤鉛筆で書き始めた。
黒瀬段取り。
一、初回立ち上げ確認。
二、変更時確認。
三、常駐確認。
四、緊急対応。
五、記録整理。
それぞれ別項目。
直人は、その文字を見て頷いた。
初回だけ見るのか。
変更があった時だけ見るのか。
常駐するのか。
緊急で動くのか。
記録だけ整理するのか。
全部違う仕事だ。
全部を「段取り」でまとめると、またどこかへ消える。
宮田が清書しながら言った。
「黒瀬式の中でも、段取りを分けるんですね」
「分ける」
美智子は言った。
「分けんと、あんたらが倒れる」
森川が笑った。
「奥さん、今日は優しいな」
「倒れられたら困るだけです」
「ほら、優しくない」
そのやりとりに、事務所の空気が少し緩んだ。
夜、直人は今日の記録を見直した。
北河電機。
初回十個立ち上げ確認。
以後、南田板金で継続確認。
黒瀬常駐なし。
倉田精密。
保管札納品。
戻し先、使用範囲、確認日。
杉本受領。
どちらも大事な仕事だった。
片方は町を動かす段取り。
片方は棚の中の札。
見た目の派手さは違う。
でも、どちらも黒瀬精機が守る線だった。
直人は台帳の最後に書いた。
常駐しない。立ち上げる。
その下に、美智子が赤鉛筆で足した。
黒瀬精機の仕事を止めない。
直人は、その二行を見つめた。
町を一つの工場にする。
そのためには、黒瀬精機が町の真ん中で走り回るだけでは足りない。
各工場が、自分の持ち場を自分で回せるようにする。
黒瀬は、その立ち上がりを助ける。
必要な線を引く。
でも、常駐はしない。
黒瀬精機は、黒瀬精機として物を作り続ける。
その線を守れなければ、黒瀬式はまた別の無理になる。
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