第101話 段取り役にも値段がある
北河電機の緊急五十個を納めた翌朝、黒瀬精機には疲れが残っていた。
機械はいつも通り動いている。
森川修一は中川機械の追加部品を旋盤にかけ、隆夫は河島産業向けのC2とD2の材料取りを確認していた。宮田悟は昨日の記録を清書し、美智子は台帳の数字を見ている。
だが、いつもの朝とは少し違った。
机の上には、昨日の分担表が残っている。
松原製作所。
南田板金。
黒瀬精機。
田端商会。
北河電機。
それぞれの横に、抜き、曲げ、当て具、搬送、受入確認という言葉が並んでいた。
町が一つの工場みたいに動いた。
美智子がそう言った時、直人は少し胸が熱くなった。
だが、一晩明けて見ると、その紙は別の顔をしていた。
誰が段取りを組んだのか。
誰が電話を受けたのか。
誰が各社の時間を合わせたのか。
誰が当て具を作ったのか。
誰が条件を紙にしたのか。
黒瀬精機は、昨日も通常仕事を止めている。
それを見落とすと、また同じことになる。
見えない手間が、どこかへ消える。
美智子が赤鉛筆を置いた。
「直人」
「何?」
「昨日の黒瀬の分、当て具代だけやと足らんよ」
直人は顔を上げた。
美智子は台帳を指した。
「端材代、工具の時間、森川さんの手、隆夫さんの手、あんたの確認、電話、記録。黒瀬は部品を作ったわけやないけど、昨日かなり動いてる」
森川が旋盤の音を止めずに言った。
「奥さん、その通りですわ。わし、昨日は松原さんとこまで行って、当て具作って、戻ってから自分とこの仕事も詰めましたからね」
隆夫が苦笑した。
「森川、恩着せがましいな」
「いや、恩やなくて仕事です」
森川はさらりと言った。
その一言に、事務所が少し静かになった。
恩ではなく、仕事。
昨日の動きは、確かに仕事だった。
だが、黒瀬精機の見積もりには、まだその名前がない。
直人は、昨日の分担表の下に書いた。
段取り。
条件整理。
当て具作成。
確認札。
工程間調整。
記録。
美智子がすぐに赤鉛筆で囲む。
「段取り役にも値段がいるね」
その時、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、北河電機さん。昨日はお疲れさまでした」
直人は、手を止めた。
美智子の表情は、すぐに仕事の顔になった。
「……はい。五十個は間に合った。……よかったです。……え? 次の二百個?」
森川の旋盤が止まった。
隆夫も振り返る。
宮田の鉛筆も止まった。
美智子は、少し黙って聞いた。
「……松原さん、南田さん、田端さんとの分担で、また黒瀬が段取りを……はい。……少々お待ちください」
美智子は受話器を押さえ、こちらを見た。
「北河さん、昨日の五十個がうまくいったから、次の二百個も同じ流れでやりたいって。黒瀬さんに段取りをお願いしたいと」
事務所の空気が、昨日とは違う重さで沈んだ。
成功した。
だから、また頼まれる。
それ自体は悪くない。
だが、黒瀬が無料で段取り役になるなら、それはまた別の飲み込みになる。
隆夫は静かに言った。
「美智子、代わる」
美智子が受話器を渡す。
隆夫は落ち着いた声で話した。
「黒瀬です。昨日は間に合ってよかったです。……はい。次の二百個ですね。……同じ流れで、ということですが、昨日の段取りは緊急対応です。正式に続けるなら、条件と費用を分ける必要があります」
電話の向こうで、長沢が何か言っている。
隆夫は頷きながら聞いた。
「はい。松原さん、南田さん、田端さん、それぞれの仕事は別です。それに加えて、黒瀬が段取りと当て具、確認表の整理をするなら、その分も仕事として扱わせてください」
森川が小さく頷いた。
美智子は、すぐに紙へ書く。
北河電機。
次回二百個。
段取り費。
条件整理費。
当て具費。
確認表作成。
工程間調整。
隆夫は続けた。
「いえ、手数料というより、段取り作業です。どこが何を見るか、どの順で流すか、どこで確認するか。それを決めないと、昨日のような緊急対応は再現できません」
直人は、父の横顔を見ていた。
隆夫は、もう遠慮だけで話していない。
黒瀬精機の仕事として、言うべきことを言っている。
「はい。いったん、黒瀬側で分担案と費用項目を作ります。ただし、松原さん、南田さん、田端さんにも確認が必要です。黒瀬だけで勝手に決めるものではありません。……はい。今日中に案を出します」
電話を置くと、隆夫は深く息を吐いた。
「向こうは、昨日みたいに動けばうまくいくと思ってる」
森川が腕を組む。
「昨日みたいに動くのが、一番しんどいんですけどね」
「そうや」
隆夫は頷いた。
「だから、昨日みたいにはしない。正式な流れにする」
直人は、紙に見出しを書いた。
北河電機 二百個対応案。
そこへ、美智子が横から一行足す。
緊急対応を、無料の標準にしない。
宮田が、思わず声に出した。
「これ、大事ですね」
「大事やで」
美智子は即答した。
「昨日できたから、次も同じように、ただで、早く、安く。そうなったら終わりや」
直人は頷いた。
仮を仮で終わらせる。
応急を正式にしない。
今度は、緊急対応を標準にしない。
全部、同じ根っこだった。
昼前、松原製作所、南田板金、田端商会が黒瀬精機へ集まった。
会議室ではない。
黒瀬精機の事務所だ。
机の上には、昨日の当て具の簡単な図と、北河電機の二百個対応案が置かれている。
松原は、少し疲れた顔で紙を見た。
「二百個ですか」
南田も腕を組む。
「昨日の五十個とは違うな」
田端は、帽子を脱いで言った。
「二百個を急ぎで二便三便に分けるなら、うちの定期便も動かさなあきません。昨日みたいな突発扱いとは違います」
直人は頷いた。
「だから、今日はまず分担を決めたいです」
紙には、五つの欄がある。
発注側。
松原製作所。
南田板金。
黒瀬精機。
田端商会。
発注側、北河電機。
用途、向き、使用場所、数量、納期、受入基準を提示。
費用承認。
松原製作所。
抜き、穴あけ、一次確認。
南田板金。
曲げ、配線側バリ取り、曲げ方向確認。
黒瀬精機。
当て具作成、確認札、確認表整理、工程分担表作成。
田端商会。
工程間搬送、箱向き管理、納入便の分割。
南田は黒瀬精機の欄を見て言った。
「黒瀬さんのところ、今回はちゃんと項目に入れたんやな」
「入れました」
直人は答えた。
「昨日は緊急だったので後追いになりました。でも次からは、黒瀬の段取りも仕事として入れます」
松原が、少し言いにくそうにした。
「それ、北河さんは払いますかね」
美智子が答えた。
「払わないなら、昨日みたいな段取りはできません」
その言い方はきつくなかった。
だが、線ははっきりしていた。
田端が笑う。
「奥さん、そこは早いな」
「早く決めないと、また誰かの中に消えるから」
松原は、黙って頷いた。
「うちも、昨日は抜きだけなら何とかと思ってました。でも一次確認まで入るなら、人を一人付けることになります。そこは費用に入れたいです」
「入れましょう」
直人はすぐに書いた。
松原製作所。
一次確認工数。
松原は、少し驚いた顔をした。
「すぐ入れるんですね」
「入れます。入れないと、また松原さんの中に消えます」
南田が言った。
「うちも、配線側バリ取りは通常とは別で見る。全部の角を丁寧にするわけやないけど、配線側だけは人の手が要る」
直人は書く。
南田板金。
配線側バリ取り追加。
曲げ方向確認。
田端も続けた。
「二百個なら箱数が増えます。向きをそろえるなら、箱詰めにも時間がかかる。うちが運ぶだけやなくて、箱の扱いを見ます」
直人は書いた。
田端商会。
箱向き管理。
便分割。
工程間待機時間。
田端はそれを見て、少し笑った。
「待機時間まで入れてくれるんですか」
「待ってる時間も、田端さんの車と人が止まってますから」
「よう言うてくれました」
田端は、少し真顔で頷いた。
その時、松原がぽつりと言った。
「黒瀬さん」
「はい」
「これ、北河さんに出したら、高いと言われるかもしれませんよ」
「言われると思います」
直人は正直に答えた。
「でも、ここを隠して安くすると、またどこかに戻ってきます」
松原は、昨日の言葉を思い出したように少し黙った。
戻ってきた安さ。
その実物を、誰より松原が知っている。
南田が言った。
「A案、B案、C案みたいにできんか」
直人は頷いた。
「できます」
美智子がすぐに紙を三つに分けた。
A案。
各社最小対応。
数量を絞る。
納期は長め。
梱包は簡易だが向き指定。
B案。
標準対応。
二百個。
工程分担。
当て具確認。
分割納品。
C案。
急ぎ対応。
二百個。
工程間待機あり。
便分割増。
追加費用あり。
松原が紙を見た。
「北河さんが選べる形にするんですね」
「はい」
直人は答えた。
「ただし、A案を選ぶなら、納期や保証範囲もA案になります。C案を選ぶなら、費用もC案です」
南田が笑った。
「前より言いやすいな」
「選択肢があると、こっちも怒らずに済みますわ」
田端も頷いた。
怒らずに済む。
その言葉は大事だった。
町工場は、怒りたいのではない。
ただ、飲み込まされるのが苦しいのだ。
選択肢があれば、怒鳴らずに条件を出せる。
午後、北河電機の長沢が黒瀬精機へ来た。
昨日の疲れはまだ顔に残っていたが、今日は最初からメモ帳を持っている。
隆夫が対応案を差し出した。
「昨日の緊急対応をそのまま標準にはできません。なので、三つの案に分けました」
長沢は、紙を一枚ずつ読んだ。
A案。
B案。
C案。
読み進めるほど、表情が険しくなる。
「C案は、かなり高くなりますね」
田端が言った。
「かなり速くなりますから」
松原も続ける。
「人を付けます。抜きっぱなしにはしません」
南田が言う。
「配線側のバリも見ます。曲げ方向も確認します」
直人は、最後に言った。
「黒瀬は、当て具と確認表、工程分担を見ます。昨日のように町が動くには、その段取りが必要です」
長沢は、黒瀬の欄を見た。
「段取り費、ですか」
その言葉には、少しだけ抵抗があった。
美智子が静かに言った。
「昨日、誰に何を頼むか決めずに動いていたら、五十個は間に合っていません」
長沢は何も言えなかった。
美智子は続けた。
「段取りは、見えにくいです。でも、見えないから無料にすると、次は誰かが倒れます」
長沢は、ゆっくり息を吐いた。
「分かりました。A案では間に合いません。C案は高い。B案で進めたいです。ただし、最初の五十個だけは早めに欲しい」
直人は、紙に書いた。
B案。
初回五十個を先行納品。
残り百五十個は通常分割。
田端が言った。
「初回五十個だけ、便を分けます。その分は追加です」
長沢は頷いた。
「お願いします」
松原が少し驚いた顔をした。
長沢がすぐに頷いたことに驚いたのだろう。
長沢はそれに気づいたのか、苦笑した。
「昨日、安くした分が戻ってきたので」
誰も笑わなかった。
だが、空気は少しだけ緩んだ。
美智子は台帳に書いた。
北河電機 二百個。
B案採用。
初回五十個先行。
黒瀬段取り費あり。
各社分担費あり。
田端便分割追加。
長沢が帰ったあと、松原がぽつりと言った。
「段取り費、通りましたね」
「通りました」
直人は頷いた。
「これが通らないと、黒瀬がただの便利屋になります」
森川が作業場から顔を出した。
「便利屋はあきませんな。うちは町工場です」
美智子がすぐに言う。
「町工場も、便利屋にされたらあかんよ」
森川は肩をすくめた。
「はい、奥さん」
そのやりとりに、松原が少し笑った。
南田も笑った。
田端は帽子をかぶり直しながら言った。
「ほな、町が動くにも運賃と段取りが要る、いうことで」
直人は頷いた。
「はい」
夕方、黒瀬精機の事務所には、北河電機の二百個対応案の控えが残った。
昨日の五十個は、町が動いた日だった。
今日は、その町の動きに値段を付けた日だった。
それは、少し怖いことでもある。
値段を付ければ、高いと言われる。
面倒だと言われる。
なら要らないと言われることもある。
だが、値段を付けなければ、誰かの中に消える。
松原の一次確認。
南田の配線側バリ取り。
田端の待機時間。
黒瀬の段取り。
それらは全部、昨日までは見えにくかった。
今日、少し見えた。
夜、直人は台帳の最後に書かれた美智子の文字を見た。
緊急対応を、無料の標準にしない。
その下に、宮田が清書した一行がある。
段取り役にも値段がある。
直人は、鉛筆を置いた。
町を一つの工場にする。
その言葉は格好いい。
けれど、本当に町を動かすなら、機械の時間も、人の手も、車の待ち時間も、電話一本の調整も、全部どこかにある。
それを見ないままなら、町はすぐ疲れて止まる。
見えるようにする。
値段を付ける。
選べるようにする。
黒瀬式は、また一つ地味な線を引いた。
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