第100話 町が動く日
松原製作所にも簡易版の確認表を渡すことになった翌朝、黒瀬精機の机の上には、また一枚新しい紙が置かれていた。
高井田確認項目表 簡易版。
用途。
守る面。
曲げ方向。
バリの範囲。
梱包条件。
未記入理由。
たったそれだけの紙だ。
だが、そのたったそれだけを昨日まで誰も書いていなかった。
森川修一が、旋盤の前からちらりと見た。
「また紙ですか」
「また紙や」
直人は苦笑した。
「でも、今日は紙だけで終わらせたくない」
「ほう」
森川が少しだけ笑う。
「直坊がそう言う時は、だいたい面倒なことが来る」
その言葉が終わる前に、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、南田さん。おはようございます」
直人は顔を上げた。
美智子の返事が短くなる。
「……今日中に? ……五十個。……松原さんも?」
森川が旋盤を止めた。
隆夫も作業場から顔を出す。
美智子は受話器を押さえた。
「北河電機さん、昨日の金具の件で追加。現場で使える分が足らんらしいわ。明日の朝までに五十個ほしいって。松原さんのところに材料と抜きはできる段取りがある。南田さんは曲げとバリ取りなら見られる。でも一社だけでは今日中はきつい」
直人は、すぐに昨日の金具を思い出した。
曲げ方向。
配線側のバリ。
梱包。
安く流した仕事が戻ってきて、昨日は二十個だけ応急修正した。
それでも足りなかったのだ。
隆夫は短く言った。
「南田さんは何て?」
美智子は受話器に戻った。
「はい。……黒瀬でできること? 少し待ってください」
直人は、作業台の上の端材を見た。
薄板のL字金具。
形は単純だ。
だが、向きが混ざると使えない。
バリが残ると配線を傷つける。
曲げが潰れると取り付け時に浮く。
そこで必要なのは、大げさな治具ではない。
誰でも迷わず見るための、簡単な当て具だ。
「おとん」
「何や」
「うちで検査用の当て具を作れへんかな。曲げ方向と高さを見るだけの簡単なやつ。松原さんが抜きと穴、南田さんが曲げとバリ取り、最後に当て具で向きと曲げ高さを見る」
隆夫の目が細くなる。
「いける。端材で作れる」
森川も近づいてきた。
「配線側のバリを見るなら、触る場所を決めた札も要るな。全部の角を同じだけ仕上げるんやなくて、触る側だけ見落とさんようにする」
美智子が受話器を押さえたまま頷いた。
「田端さんは?」
「呼んだ方がいい」
直人は言った。
「松原さんから南田さんへ、南田さんから北河さんへ。途中で箱の向きが崩れたらまた同じことになる」
美智子は電話へ戻った。
「南田さん、黒瀬では検査用の当て具と札を作れます。田端さんにも入ってもらって、松原さんから南田さん、南田さんから北河さんへ分けて運ぶ形なら……はい。黒瀬もそちらへ向かいます」
電話を置くと、事務所が一気に動き出した。
隆夫は端材を取り出す。
森川は小さな角材と板を探す。
宮田悟は簡易版の確認表を数枚、机に並べた。
美智子は赤鉛筆で大きく書いた。
北河電機 緊急五十個。
松原製作所。
南田板金。
黒瀬精機。
田端商会。
分担。
直人は、その文字を見た。
昨日まで、黒瀬式は紙で揉め事を分けていた。
今日は違う。
町が動こうとしている。
隆夫と直人、そして当て具作りのために森川も一緒に松原製作所へ向かった。
松原製作所へ着くと、すでに工場の中ではプレス機の音が鳴っていた。
松原は額に汗を浮かべ、薄板を送りながらこちらへ目を向けた。
「黒瀬さん、すんません。昨日の今日で」
「いえ。状況は聞いてます」
南田も来ていた。
田端商会の軽トラックは、工場の外で荷台を開けている。
北河電機の長沢も立っていた。
昨日より顔色は悪い。
だが、逃げるような顔ではなかった。
「黒瀬さん、急なお願いですみません」
隆夫は首を振った。
「まず、条件を確認しましょう。急ぎほど、ここを飛ばしたらまた同じになります」
直人は、簡易版の確認表を作業台に置いた。
用途。
北河電機の制御盤内、配線束固定。
守る面。
配線に触れる側。
曲げ方向。
現物見本に合わせる。
バリの範囲。
配線接触側は不可。
非接触側は通常範囲。
梱包条件。
曲げ部を潰さない向きで箱詰め。
未記入理由。
なし。
長沢は、それを見て小さく頷いた。
「今回は、こちらで用途と向きを確認しました」
松原が、少し硬い顔のまま言う。
「それなら作れます。昨日みたいに『似たような感じで』では困りますけど」
「はい」
長沢は、はっきり答えた。
「昨日の出し方はこちらが悪かったです」
その一言で、松原の肩から少し力が抜けた。
南田が言った。
「時間がない。分担決めましょう」
直人は紙に線を引く。
松原製作所。
抜き、穴あけ、一次確認。
南田板金。
曲げ、配線側バリ取り、曲げ方向確認。
黒瀬精機。
当て具、確認札、最終確認補助。
田端商会。
工程間搬送、箱向き管理、北河納入。
北河電機。
用途、向き、受入確認、費用承認。
長沢は、費用承認の文字を見て、少しだけ苦い顔をした。
だが、すぐに頷いた。
「承認します。選別、当て具、急ぎ搬送、全部別で見ます」
美智子がいれば、赤鉛筆で大きく丸を付けただろう。
直人は、心の中でそう思った。
黒瀬精機に戻る時間はない。
隆夫と森川が持ってきた端材を、その場で簡単な当て具にすることになった。
松原製作所の作業台の端を借り、隆夫が金具を置くための板を切る。
直人は現物見本を当て、曲げが正しい向きに立つ位置に線を引いた。
森川は、曲げ高さを見るための小さな止め板を取り付ける。
複雑なものではない。
ただ、逆向きなら置けない。
曲げが寝ていれば隙間が出る。
それだけの当て具だった。
松原が、それを見て言った。
「こんなんで分かるんですか」
森川が答える。
「こんなんやから、分かるんです。難しいゲージは、急ぎの現場では使われません」
直人は札を作った。
配線側。
こちらを触る。
こちらは通常。
赤い線を一本引き、配線に触れる側だけを示す。
松原が抜いた板を、南田が曲げる。
曲げたものを当て具に置く。
向きが合えば、すっと収まる。
逆なら、置けない。
曲げが寝ていれば、止め板に当たらない。
南田が一つ目を確認して、短く言った。
「これなら速い」
松原も頷いた。
「うちでも一次確認できますね」
「できます」
直人は答えた。
「ただし、最終の配線側バリ取りは南田さん側で見た方がいいです。松原さんのところでは抜きと一次確認まで。全部を一社で抱えない」
松原は、少しだけ驚いた顔をした。
「うちが全部見なくてもいいんですか」
南田が横から言った。
「今回は急ぎや。松原さんは抜きと穴で速度を出す。うちは曲げと配線側の仕上げを見る。そう分けた方が間に合う」
松原は、しばらく南田を見ていた。
昨日まで、ぶつかりかけていた相手だ。
だが今は、同じ金具を間に挟んで、作業を分けている。
「分かりました」
松原は、短く答えた。
そこからは、町工場の時間だった。
松原製作所のプレスが薄板を抜く。
松原の若い職人が、抜いた板を十枚ずつ並べる。
直人が一次確認の札を置く。
田端が最初の箱を南田板金へ走らせる。
南田板金では、南田が曲げに入り、配線側のバリを確認する。
黒瀬から持ってきた当て具が、作業台の真ん中に置かれる。
合うもの。
合わないもの。
修正するもの。
それが迷わず分けられていく。
昼過ぎには、二十個が形になった。
田端は箱の中に仕切りを入れ、曲げがぶつからない向きに並べる。
「これなら荷台で暴れません」
長沢は、箱の中をじっと見ていた。
「昨日、これを最初からやるべきでした」
「昨日は昨日です」
隆夫が言った。
「今日は、次に同じことをしないための日です」
長沢は、深く頭を下げた。
午後、作業はさらに進んだ。
松原の抜きが少し遅れた時、南田は待つのではなく、先にバリ取りの範囲を確認し直した。
田端は、南田板金から北河電機への最終便を二回に分ける判断をした。
一度に五十個を待つのではなく、二十五個ずつ先に入れる。
北河の現場が先に使い始められるからだ。
直人は、その判断を聞いて頷いた。
「全部そろってから一括納品じゃなくて、使える分から入れるんですね」
田端は笑った。
「急ぎ便いうのは、ただ速く走るだけやないです。どの順で入れたら現場が止まらんかを見るんですわ」
その言葉も、確認表に入れたいくらいだった。
だが、今日は書くより先に動く日だった。
夕方前、五十個目の金具が当て具に収まった。
南田が、最後のバリを指で確認する。
「いける」
松原は、息を吐くように笑った。
「間に合ったか」
田端はすぐに箱を閉じた。
「二便目、出します」
長沢は、箱の横で頭を下げた。
「皆さん、本当に助かりました」
南田が言った。
「助けたんやなくて、仕事です。見積もりは分けて出します」
「分かっています」
長沢は、今度は迷わず答えた。
「松原さん、南田さん、田端さん、黒瀬さん、それぞれの分でお願いします」
松原が、少しだけ目を丸くした。
南田も黙った。
昨日までなら、一つの金額に押し込まれていたかもしれない。
今日は違う。
抜き。
曲げ。
バリ取り。
当て具。
梱包。
急ぎ搬送。
それぞれが仕事として扱われる。
完璧ではない。
それでも、昨日よりずっとましだった。
田端の軽トラックが出ていくと、松原製作所の工場には機械の余韻だけが残った。
松原は、当て具を見ながら言った。
「黒瀬さん、これ、うちでも作れますか」
直人は頷いた。
「作れます。難しいものではないです」
「ほな、簡易版の確認表と一緒に、こういう当て具の考え方も教えてもらえますか」
南田が、少し笑った。
「松原さんも紙が増えるで」
松原は苦笑した。
「紙だけなら嫌です。でも今日みたいに、間違いが減るなら要りますわ」
直人は、その言葉を聞いて胸が熱くなった。
昨日は、黒瀬式が縛る紙に見えていた。
今日は、作業を分ける紙になった。
そして、当て具という形になった。
紙だけではなく、現物に触れたのだ。
黒瀬精機へ戻った頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。
美智子は事務所で待っていた。
宮田悟も、清書用の紙を並べている。
「どうやった?」
美智子が聞く。
隆夫は椅子に座りながら答えた。
「五十個、間に合った。二便に分けて北河へ入れた」
森川が作業場から顔を出す。
「おお、間に合ったんか」
「間に合いました」
直人は、当て具の簡単な図を机に置いた。
「松原さんと南田さんで分担して、田端さんが二便に分けて運びました。うちは当て具と札」
美智子は、その紙を見た。
抜き。
曲げ。
バリ取り。
当て具確認。
梱包。
急ぎ搬送。
受入確認。
それぞれの横に、会社名が書かれている。
松原製作所。
南田板金。
黒瀬精機。
田端商会。
北河電機。
美智子は、静かに言った。
「町が一つの工場みたいに動いたんやね」
その言葉で、事務所が少し静かになった。
直人は、作業台の上の札を見た。
赤と青の札。
クロフィックスの保管札。
高井田確認項目表。
そして今日の当て具の簡単な図。
どれも小さい。
だが、小さいものが線になり、線がつながると、人と工場が動く。
宮田が、今日の記録を書いた。
北河電機緊急五十個。
松原製作所、抜き、穴あけ。
南田板金、曲げ、配線側バリ取り。
黒瀬精機、当て具、確認札。
田端商会、工程間搬送、急ぎ二便。
北河電機、用途、向き、費用承認、受入確認。
森川が、それを見て言った。
「黒瀬式、えらい大きなってきたな」
「大きいようで、やってることは小さいです」
直人は答えた。
「向きを間違えない。触る面を決める。箱の中で暴れないようにする。誰が何を見るか分ける。それだけです」
隆夫が静かに言った。
「その『それだけ』を、今まで誰も残してこなかったんやな」
直人は頷いた。
そうだ。
黒瀬式は、魔法ではない。
未来の技術でもない。
ただ、見えないものを見えるようにして、誰か一人に押し込まないようにするだけだ。
でも、それだけで町は少し動いた。
美智子は、赤鉛筆で今日の記録の最後に一行を書いた。
一社で抱えず、町で分ける。
直人は、その文字を見つめた。
町工場は小さい。
機械も、人も、時間も限られている。
けれど、町には何社もある。
抜く工場。
曲げる工場。
磨く工場。
運ぶ人。
記録する人。
条件を出す発注側。
その全部が、最初からきちんとつながれば、一社ではできない仕事も動く。
夜、直人は台帳の最後に、もう一行だけ書いた。
町を一つの工場にする。
その言葉は、いつか遠い夢のように聞こえたかもしれない。
だが今日、五十個の小さなL字金具が、それを少しだけ現実にした。
黒瀬精機は、まだ小さな町工場だ。
それでも、町は動いた。
紙の上だけではなく。
機械の音と、荷台の上と、人の手の中で。
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