第99話 敵は安い工場ではない

 南田板金から電話が入ったのは、翌朝のことだった。


 昨日の応急修正分は、無事に北河電機へ届いたらしい。


 田端商会の急ぎ便も間に合い、現場はひとまず止まらずに済んだ。


 それを聞いた時、直人は少しだけ安心した。


 だが、南田の声は明るくなかった。


「黒瀬さん、すんません。今日、少し来てもらえますか」


 受話器を持つ美智子の表情が変わる。


「何かありました?」


「昨日の別協力会社さんから連絡が来ました。うちが北河さんに何か言うたせいで、自分とこが悪者にされたと思ってはるみたいで」


 美智子は、受話器を押さえて隆夫と直人を見た。


「南田さんのところへ行った方がよさそうやね」


 隆夫は、作業台の予定表を見た。


 中川機械の部品。


 倉田精密の保管札。


 河島産業のC2とD2。


 黒瀬精機も暇ではない。


 だが、ここを放っておくと、黒瀬式が別の形で歪む。


 町工場を守るはずの仕組みが、町工場同士をぶつける道具になりかねない。


「森川、午前中だけ頼む」


「任せてください」


 森川修一は、すぐに頷いた。


「けど、直坊」


「うん」


「今日は、南田さんを守るだけやなくて、相手の工場も守らなあかんで」


 直人は、少しだけ息を呑んだ。


 森川の言う通りだった。


「うん。分かってる」


「安く受けた工場が敵やない。そこを間違えたら、黒瀬式は嫌なもんになる」


 その言葉を胸に置いたまま、直人は隆夫と南田板金へ向かった。


 南田板金の工場に着くと、入口近くに軽トラックが停まっていた。


 荷台には、昨日と同じような小さな金具の箱がいくつか積まれている。


 工場の中では、南田と見慣れない男が向かい合っていた。


 年は四十代後半くらい。


 作業着は少しくたびれていて、手には油と細かい傷が残っている。


 顔には怒りというより、焦りが出ていた。


 南田がこちらに気づき、手を上げた。


「黒瀬さん、すんません」


 男は、直人たちを見て少し身構えた。


「そちらが黒瀬さんですか」


 隆夫が頭を下げる。


「黒瀬精機の黒瀬隆夫です。こちらは息子の直人です」


「松原製作所の松原です」


 男は名刺を出した。


 松原製作所。


 東大阪の小さなプレス・板金加工業。


 北河電機が急ぎで別協力会社へ出したという、その工場だった。


 松原は名刺を渡すと、すぐに言った。


「先に言いますけど、うちは手を抜いたつもりはありません」


 南田は、苦い顔で頷いた。


「分かってます」


「分かってるなら、何で北河さんから『確認不足や』みたいに言われなあかんのですか」


 松原の声が少し大きくなった。


「図面と数量と納期だけ来て、急ぎや言われた。似たような金具やからいつもの感じでええ、と言われた。こっちはその範囲でやったんです。あとから曲げ方向が違う、バリがどう、梱包がどう言われても、最初に聞いてませんわ」


 直人は、黙って聞いた。


 その言葉には、昨日北河で見た金具の山とは違う痛みがあった。


 北河には北河の混乱がある。


 南田には南田の不安がある。


 そして松原には、松原の言い分がある。


 南田が言った。


「松原さん、うちは北河さんに、松原さんが悪いとは言ってません」


「でも、北河さんはそう受け取ってますやん。『南田さんが確認表で見たら、不足が出た』って」


 松原は、工場の床に置かれた箱を指した。


「その不足、うちの不足ですか。北河さんが言わんかった不足ですか。そこをごちゃ混ぜにされたら、うちはたまらんのです」


 隆夫が静かに言った。


「そこを分けるために、今日は来ました」


 松原は、少しだけ眉を寄せた。


「分ける?」


 直人は、持ってきた高井田確認項目表の控えを作業台に置いた。


「昨日、北河さんの現場で確認した時、こちらは『当初発注時、用途未提示』『梱包条件未提示』と書きました」


 松原の目が、その文字で止まった。


「うちの不備とは書いてない?」


「書いていません」


 直人は答えた。


「金具に不具合は出ました。でも、その原因を松原さんだけに寄せるのは違うと思っています」


 松原は、しばらく紙を見ていた。


 南田もその横で黙っている。


「……北河さんには、そう伝わってないです」


 松原の声は、少しだけ低くなった。


「昨日の夜、電話がありました。『次からはちゃんと確認してくれ』と。うちは、確認する材料をもらってへんのに」


 その時、工場の入口にもう一台車が停まった。


 北河電機の長沢だった。


 南田が呼んだのか、松原が呼んだのかは分からない。


 長沢は工場に入るなり、全員の顔を見て足を止めた。


「……皆さん、お揃いで」


 南田が言った。


「長沢さん、ちょうどよかった。昨日の件、松原さんとも確認した方がええと思ってました」


 長沢は、松原へ頭を下げた。


「松原さん、昨日はすみません。言い方が悪かったかもしれません」


 松原は、すぐには返事をしなかった。


 長沢は作業台の金具を見た。


「ただ、現場で使えないものが出たのも事実でして」


 松原の顔が硬くなる。


「それは分かってます。けど、曲げ方向の指定も、配線側のバリの指定も、梱包の指定も、最初の発注にはありませんでした」


 長沢は、少し沈黙した。


「図面は送りました」


「図面だけです。しかもFAXのコピーで、正面図だけでした。曲げがどっちへ立つか、現物見本がないと分かりにくい」


 南田が、横から金具を二つ並べた。


「長沢さん、これを見てください」


 見た目は似ている。


 だが、片方は曲げが手前に立ち、片方は奥へ立っている。


 図面の見方に慣れていない者なら、いや、慣れていても正面図だけなら迷う。


「使う側から見たら片方は正解、片方は不正解です。でも作る側から見たら、指定が曖昧ならどちらにもなり得ます」


 長沢は、黙って金具を見ていた。


 田端商会の田端も、いつの間にか工場へ来ていた。


 昨日の応急便の続きで、南田から呼ばれたらしい。


 田端は箱を覗き込み、言った。


「梱包も同じです。まとめ箱で、と言われたら、まとめて入れます。曲げを守るなら、曲げを守る入れ方を指定せんと」


 長沢は、深く息を吐いた。


「……こちらの出し方が足りませんでした」


 その一言で、工場の空気が少しだけ変わった。


 松原はまだ固い顔だったが、怒鳴り返すことはなかった。


 隆夫が静かに言った。


「ここで大事なのは、誰が悪いかを決めることやなくて、次から同じ出し方をしないことです」


 直人は頷き、確認表の空欄に書き込んだ。


 当初発注時。


 用途未提示。


 曲げ方向指定不足。


 配線接触側未指定。


 梱包条件未提示。


 現物見本なし。


 受注側。


 図面、数量、納期に基づき通常加工。


 松原が、その文字を見た。


「受注側って書くんですね」


「はい」


 直人は言った。


「外注先、ではなく、今回は受注側と書きます」


 松原は、小さく頷いた。


「その方がええです。外注先って書かれると、なんか下請けの責任だけみたいに見える」


 長沢は、少し気まずそうにした。


 だが、否定はしなかった。


 南田が言った。


「長沢さん、今回の選別と応急修正は、昨日うちで受けました。ただ、松原さんに無償で全部やり直せという話にはしない方がええと思います」


 松原が南田を見る。


 長沢も顔を上げた。


 南田は続けた。


「条件が足りなかった。松原さんは、その足りない条件の中で作った。使えないものが出たのは現実ですが、全部松原さん持ちにすると、また同じことになります」


 長沢は、少し迷った。


「では、どうすれば」


 直人は、白紙を一枚出した。


「今回分を分けます」


 使用可。


 修正可。


 使用不可。


 発注条件不足による判断保留。


 松原製作所で修正可能な範囲。


 南田板金で応急対応した範囲。


 北河電機が負担する選別、急ぎ対応。


 田端商会の再梱包、急ぎ搬送。


 長沢は、その紙をじっと見た。


「ずいぶん細かいですね」


 美智子がいれば、「細かいから揉めにくいんです」と言っただろう。


 代わりに、隆夫が言った。


「細かくしないと、全部どこか一社のせいになります」


 田端が頷いた。


「運送も、あとから一緒くたにされると困ります。箱の入れ方が悪かったんか、荷台で動いたんか、元から曲げが寝てたんか。分けんと分かりません」


 松原は、少し黙ってから言った。


「うちで直せる分は直します。ただ、曲げ方向が逆のものは、作り直しになります」


 長沢が言う。


「作り直し分の費用は?」


 松原の顔が強張る。


 その瞬間、また空気が尖った。


 直人は急いで言葉を挟んだ。


「そこも分けませんか」


 全員が直人を見る。


「図面と条件が不足していた分については、北河さん側の追加費用として見る。松原さん側の加工ミスとして明らかなものがあれば、それは松原さん側で見る。ただし、今回の話では、まず条件不足が大きいです」


 長沢は、すぐには答えなかった。


 松原も黙っている。


 南田は、直人を見て小さく頷いた。


 隆夫が続けた。


「長沢さん、ここで松原さんに全部持たせたら、松原さんは次から北河さんの仕事を受けにくくなります」


「それは困ります」


 長沢は即答した。


 松原が少し驚いたように長沢を見た。


 長沢は言った。


「うちも、急ぎに対応してくれる工場さんが減るのは困ります。南田さんだけに頼るわけにもいきません」


 田端がぼそっと言った。


「なら、急ぎの時ほど条件を削ったらあきませんわ」


 長沢は、苦笑するしかなかった。


「その通りです」


 結局、その場で簡単な分担が決まった。


 松原製作所は、修正可能分のうち自社で対応できるものを通常費用で直す。


 北河電機は、用途・曲げ方向・梱包条件を出し直し、条件不足によって生じた選別と急ぎ対応の費用を負担する。


 南田板金は、昨日の応急修正分と、南田でなければ間に合わない分だけを受ける。


 田端商会は、再梱包と急ぎ搬送を別費用で受ける。


 誰か一社が全部かぶる形にはしない。


 松原は、まだ完全に晴れた顔ではなかった。


 だが、最初に来た時のような刺々しさは薄れていた。


「正直、黒瀬式いうのは、うちらを縛る紙やと思ってました」


 松原が言った。


 直人は、何も言わずに聞いた。


「でも、今日みたいに書くなら、こっちも助かるかもしれません。『聞いてへん』が、ただの言い訳やなくなる」


 南田が言った。


「聞いてへん、を言い訳にせんための紙でもあるんやろな」


 直人は頷いた。


「聞いていないことと、確認を怠ったことを分ける紙です」


 長沢が、その言葉をメモした。


「聞いていないことと、確認を怠ったことを分ける」


 田端が笑った。


「また一つ増えましたな」


 南田も、ようやく少し笑った。


「黒瀬さんと付き合うと紙が増えるわ」


 直人は苦笑した。


「すみません」


「いや」


 松原が、金具を一つ手に取った。


「紙がないと、こっちは声の大きい方に負けることがある。今日みたいなんは、紙があった方がええ」


 その言葉は、直人の胸に残った。


 黒瀬精機へ戻ると、美智子は事務所で待っていた。


 直人が経緯を話すと、美智子は黙って聞き、赤鉛筆を持った。


「町工場同士をぶつけないための欄が要るね」


「うん」


 直人は頷いた。


 美智子は紙に書いた。


 条件不足を一社の責任にしない。


 発注側の未提示。


 受注側の確認範囲。


 運送側の扱い範囲。


 応急対応の範囲。


 費用負担の分け方。


 宮田悟が、それを清書しながら言った。


「黒瀬式が、どんどん町工場同士の仲裁みたいになってきましたね」


 森川が作業場から顔を出す。


「仲裁いうより、喧嘩になる前の線引きやろ」


 美智子が頷いた。


「喧嘩になってからやと遅いからね」


 隆夫は、少し疲れた顔で椅子に座った。


「今日は、南田さんだけ守ればええ話やなかったな」


「うん」


 直人は答えた。


「松原さんも守らなあかんかった」


「北河もな」


 隆夫が言った。


 直人は少し驚いて父を見た。


 隆夫は続けた。


「北河さんも、条件不足のまま安く出して、現場で困った。あれも守らなあかん相手や。責めるだけでは次につながらん」


 直人は、静かに頷いた。


 誰か一人を悪者にすれば、話は簡単になる。


 だが、現場は簡単ではない。


 発注側の焦り。


 受注側の不安。


 運送側の責任。


 現場の納期。


 全部が絡んで、安さは戻ってくる。


 夜、直人は高井田確認項目表のファイルを開いた。


 昨日書いた言葉の下に、新しい一行を足す。


 敵は、安い工場ではない。


 その下に、美智子が赤鉛筆で続けた。


 条件を省いたまま、安さだけを流すこと。


 直人は、その二行をじっと見た。


 松原は敵ではなかった。


 南田も敵ではなかった。


 北河も、完全な敵ではなかった。


 敵があるとすれば、それは見えない条件を誰かの中に押し込んだまま、安さだけを前へ流すことだった。


 それが、町工場同士をぶつける。


 それが、発注側と受注側を疑わせる。


 それが、運送や現場へ痛みを移す。


 黒瀬式は、そこに線を引かなければならない。


 後日、松原製作所にも簡易版の確認表を渡すことになった。


 南田だけではない。


 黒瀬だけでもない。


 町の中に、少しずつ紙が増えていく。


 面倒だ。


 間違いなく面倒だ。


 だが、その面倒が、誰か一人を悪者にしないためのものなら。


 直人は、鉛筆を置いた。


 黒瀬式は、また一つ別の役目を持ち始めた。


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