第98話 戻ってきた安さ

 北河電機からC案採用のFAXが届いた翌朝、黒瀬精機には少しだけ明るい空気があった。


 南田板金の仕事は、ひとまず残った。


 前回単価に全部を押し込まれず、条件と範囲を分けた形で進められる。


 完全な勝ちではない。


 それでも、飲まされなかった。


 森川修一は旋盤の前で、中川機械の追加部品を仕上げながら言った。


「昨日は、首の皮一枚でしたな」


 直人は、クロフィックスの保管札を数えながら頷いた。


「うん。けど、首の皮一枚でも残ったのは大きい」


 美智子は台帳を見ていた。


 北河電機。


 C案採用。


 小口試行。


 価格だけでなく、範囲を選ばせる。


 その文字の下に、赤鉛筆で小さく印が付いている。


 隆夫が作業場から戻ってきた。


「南田さん、今日は朝からC案の段取りに入る言うてたな」


「うん。小口試行やから、まず数を絞って作るって」


 直人が答えた時だった。


 事務所の電話が鳴った。


 美智子が受話器を取る。


「はい、黒瀬精機です。……はい、南田さん。おはようございます」


 その声が、すぐに変わった。


「……え? 北河さんから?」


 直人は顔を上げた。


 森川も旋盤の手を止める。


 美智子は少し黙って聞き、受話器を押さえた。


「隆夫さん、直人。南田さんが、北河電機の現場へ呼ばれてる。昨日のC案とは別の品番で、別協力会社から入った金具に不具合が出たらしい」


 隆夫の顔が少し険しくなった。


「昨日の今日でか」


「南田さんが、もし可能なら黒瀬さんにも来てほしいって。確認表の使い方に関わる話になりそうやと」


 直人の胸がざわついた。


 別協力会社。


 不具合。


 昨日、北河電機のFAXにあった言葉が頭に浮かんだ。


 次回以降は別協力会社への手配を検討します。


 検討だけではなかった。


 すでに、いくつかは流れていたのだ。


 隆夫は短く言った。


「行く。森川、午前中の分、頼む」


「任せてください」


 森川は頷いた。


「けど、直坊」


「何?」


「安いところが悪い、みたいな話にはせん方がええで」


 直人は、一瞬言葉に詰まった。


 森川は続けた。


「条件なしで安く出したら、どこがやっても危ない。そこを間違えたら、町工場同士で喧嘩になる」


 直人は深く頷いた。


「分かってる」


 その言葉は、胸に刻む必要があった。


 黒瀬式は、町工場を守るためのものだ。


 別の町工場を悪者にするためのものではない。


 隆夫と直人が北河電機へ着くと、南田はすでに資材置き場の一角にいた。


 南田が、確認表の件で黒瀬にも同席してもらうと長沢へ話を通していたらしい。


 北河電機の長沢という担当者が、困り果てた顔で箱を開けている。


 床には、小さなL字金具がいくつも並べられていた。


 見た目は単純だ。


 薄い鉄板。


 曲げが一か所。


 穴が二つ。


 昨日まで話していた東邦電装の金具と似ているが、品番は違うらしい。


 南田が、直人たちに小さく頭を下げた。


「すんません、来てもらって」


 隆夫が聞く。


「どういう状況ですか」


 長沢が、気まずそうに説明した。


「この金具は、急ぎで別の協力会社さんへお願いしたものです。南田さんの仕事とは別品番ですが、似たようなものなので、前回単価に近い条件で出しました」


「それで?」


 隆夫が促す。


 長沢は、箱の中から金具を取り出した。


「曲げ方向が混ざっています。あと、配線に当たる側のバリが残っているものがある。梱包中に曲げが少し潰れているものもあります」


 南田が並べた金具を指した。


「こっちが使える向き。こっちが逆。こっちは曲げが寝てる。こっちはバリがきつい」


 直人は、金具を手に取った。


 確かに、ひと目では分かりにくい。


 だが、使う向きが決まっているなら、逆曲げは使えない。


 バリも、配線に当たるなら危ない。


 曲げが少し潰れているものは、取り付け時に浮くだろう。


 田端商会の田端も来ていた。


 荷物を運んできたついでに呼ばれたらしい。


 田端は箱の中を見て、すぐに言った。


「これ、まとめて入れたんですな」


 長沢が頷く。


「はい。小さい金具なので、まとめ箱で」


「箱の中で動いてますわ。角同士が当たって、曲げが押されてる」


 田端は、金具をいくつか手に取って向きを変えた。


「これ、入れ方を決めてたら、少しは防げたと思います」


 長沢は黙り込んだ。


 直人は聞いた。


「発注時に、用途や曲げ方向、バリの範囲、梱包条件は伝えましたか」


 長沢は、目を伏せた。


「図面と数量、納期は出しました。用途までは……似た金具なので、分かると思っていました」


 南田が低く言った。


「分からんのです。似てても、使う向きと守る場所が違えば別物です」


 長沢は反論しなかった。


 その代わり、疲れた声で言った。


「相手の会社が悪いとは思っていません。急ぎで、安く、図面通りに、と頼んだのはこちらです」


 その言葉で、直人は少しだけ息を吐いた。


 責任を押しつける話にはなっていない。


 少なくとも、長沢はそこを理解している。


 隆夫が静かに言った。


「まず、使えるもの、修正できるもの、使わない方がいいものに分けましょう」


 南田が頷いた。


「それならできます。ただし、選別と修正は別費用です」


 長沢の顔が少し固くなった。


 だが、すぐに頷いた。


「分かっています。ラインが止まる方が困ります」


 田端が言う。


「運ぶ方も、修正後の梱包を変えた方がええです。せっかく直しても、また箱の中で曲がったら同じですわ」


 長沢は、今度はすぐにメモを取った。


 直人は、その様子を見ていた。


 昨日なら、北河電機は「前回単価で」と言った。


 今日は「別費用」を飲んでいる。


 安いところへ逃がした仕事が、別の形で戻ってきたからだ。


 だが、それを勝ち誇ってはいけない。


 これは、誰かが失敗したから笑う話ではない。


 条件を出さずに安く出した仕事が、現場で止まりかけているだけだ。


 南田は、金具を三つの山に分け始めた。


 使用可。


 修正可。


 使用不可。


 直人も手伝う。


 隆夫は、長沢と簡単な確認表を作った。


 品番。


 用途。


 配線束固定用。


 曲げ方向。


 現物見本で確認。


 配線接触側。


 バリ不可。


 梱包。


 曲げ部を潰さない向き。


 未記入理由。


 当初発注時、用途未提示。


 梱包条件未提示。


 直人は、その文字を見た。


 当初発注時、用途未提示。


 梱包条件未提示。


 それは、責めるための文字ではない。


 次に同じことを起こさないための文字だった。


 長沢が、ぽつりと言った。


「安くしたつもりが、高くつきましたね」


 南田は手を止めずに言った。


「安い会社が悪いわけやないです」


「はい」


「条件を省いた分が、後で戻ってきただけです」


 長沢は、深く息を吐いた。


「戻ってきた安さ、ですか」


 直人は、その言葉に顔を上げた。


 戻ってきた安さ。


 確かにそうだった。


 安さは消えない。


 どこかへ移るだけだ。


 受注側の手間になることもある。


 発注側の選別になることもある。


 現場の停止になることもある。


 運送中の傷になることもある。


 今回は、それが北河電機へ戻ってきた。


 南田は、修正可の山を見て言った。


「今日中に応急で使う分だけ直します。全部は無理です」


 長沢が頷く。


「何個いけますか」


「まず二十個。配線側のバリを落として、曲げを確認します。ただ、逆曲げのものは作り直しです」


「分かりました」


 田端が箱を見ながら言った。


「修正した二十個は、別箱で運びます。曲げが当たらんように向きを決めます。急ぎ便扱いです」


 長沢は、今度は聞き返さなかった。


「お願いします」


 南田は短く頷いた。


 急ぎ対応の見積もりは、その場で簡単に書かれた。


 選別費。


 応急修正費。


 再梱包費。


 急ぎ搬送費。


 使用不可分は、別途作り直し。


 美しくはない。


 だが、現場は動かさなければならない。


 黒瀬式は、その場で理屈を語るためのものではなく、こういう混乱を少しでも整理するためのものだった。


 昼過ぎ、南田板金の工場では、修正作業が始まった。


 直人と隆夫は、作業台の端で確認表を見直している。


 南田は金具のバリを落とし、曲げを確認しながら言った。


「昨日、北河さんのC案が残って、少しほっとしたんやけどな」


「うん」


 直人は頷いた。


「今日、別の形で来た」


「これが現実やな」


 南田は、金具を一つ箱へ入れた。


「全部の仕事が守れるわけやない。安いところへ出る仕事もある。そっちで揉めることもある。戻ってくることもある」


 隆夫が静かに言った。


「戻ってきた時に、ただ助けるだけやと、また同じになります」


「せやな」


 南田は頷いた。


「今回は、選別費も修正費も取る。田端さんの急ぎ便も別や。そこは飲まん」


 その言葉に、直人は少しだけ安心した。


 助ける。


 だが、ただでは助けない。


 それは冷たいのではない。


 次に同じ失敗を繰り返さないための線だった。


 夕方前、応急修正分の二十個が箱に入った。


 田端は箱の中を確認し、向きが揃っていることを見てから蓋をした。


「これなら荷台で暴れません」


 南田が、長沢へ電話をかけた。


「二十個、応急修正できました。田端さんが急ぎで運びます。残りは、使えるものと作り直しを明細で分けます。……はい。選別費と修正費、急ぎ搬送費は別でお願いします」


 電話の向こうで、長沢が何か言った。


 南田は少し黙り、やがて答えた。


「はい。次回からは、最初に用途と曲げ方向と梱包条件を出してください。こちらも、その条件で見積もります」


 電話を切ると、南田は深く息を吐いた。


「通った」


 直人は頷いた。


「よかった」


「よかったけど、しんどいな」


 南田は苦笑した。


「昨日からずっと、紙と電話と金具や」


 隆夫が言った。


「けど、今日は紙だけでは済まなかった。現物があった」


「それが大事なんやろな」


 南田は、使用不可の山を見た。


「紙の中身を見んかったら、こうなる。分かりやすい教材みたいなもんや。こっちは胃が痛いけどな」


 黒瀬精機へ戻ると、美智子はすぐに結果を聞いた。


 直人は、北河電機の応急対応メモを机に置いた。


 選別費。


 応急修正費。


 再梱包費。


 急ぎ搬送費。


 使用不可分は作り直し。


 美智子は、それを見て静かに言った。


「安くした分が、後で別の名前で戻ってきたんやね」


「うん」


 直人は答えた。


「戻ってきた安さ」


 宮田悟が、その言葉を書いた。


 戻ってきた安さ。


 森川が作業場から顔を出す。


「どうでした?」


「別協力会社が悪い話ではなかった」


 直人は最初にそれを言った。


「条件を出さずに安く出したら、選別と修正と急ぎ搬送で戻ってきた」


 森川は頷いた。


「そらそうやな。誰かが安く飲んだ分は、どこかで出る」


 美智子が赤鉛筆で一行を書いた。


 安さは消えない。場所を変える。


 直人は、その文字を見つめた。


 前回単価。


 面倒なら他へ。


 戻ってきた安さ。


 黒瀬式は、言葉だけを見ると少しずつ強くなっている。


 だが、その裏には現実の痛みがある。


 南田の不安。


 北河の混乱。


 条件を知らされないまま受けた別協力会社。


 田端の急ぎ便。


 それらが全部、今日の紙の中に入っている。


 夜、直人は高井田確認項目表のファイルを開いた。


 新しい項目を足す。


 安価発注後の戻り対応。


 選別費。


 修正費。


 再梱包費。


 急ぎ搬送費。


 作り直し範囲。


 発注時の条件不足。


 そして最後に、美智子が書いた言葉を写した。


 安さは消えない。場所を変える。


 直人は、鉛筆を置いた。


 今日は、誰も大きく勝っていない。


 北河も痛かった。


 南田も疲れた。


 田端も急ぎで走った。


 別協力会社も、おそらく十分な条件を知らされないまま仕事を受けた。


 それでも、一つだけは見えた。


 条件を省いた安さは、あとで必ずどこかへ戻ってくる。


 それを見える形にすることも、黒瀬式の仕事なのだと思った。


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