第91話 最初の穴
高井田確認項目表の試作版は、思ったより早く黒瀬精機へ戻ってきた。
戻ってきたと言っても、完成したわけではない。
南田板金の南田は、紙の端に大きく「曲げ方向」と書いていた。
大西樹脂の大西は、薬品、熱、水分、割れ、変色を細かく分けていた。
吉岡メッキは、前処理、後処理、薬品残り、乾燥状態の4つだけを書き、余計な言葉をほとんど足していなかった。
小池製作所は、小物加工の欄に「小さいから楽ではない」と太い字で書いていた。
田端商会の田端は、搬送欄に「混載可否」「積み向き」「重ね可否」「濡れ可否」「荷下ろし場所」と並べ、最後に小さく「電話だけで決めんこと」と添えていた。
直人は、それらを作業台の上に広げた。
紙はばらばらだった。
字も、言葉も、考え方も違う。
でも、それが良かった。
最初からきれいに揃った紙は、たぶん現場から遠い。
森川修一が横から覗き込む。
「田端さんの『電話だけで決めんこと』、ええな」
「うん。いちばん現場っぽい」
「けど、これ全部まとめるんか。宮田、泣くで」
宮田悟は、すでに泣きそうな顔で鉛筆を持っていた。
「まとめます。でも、どれを残して、どれを消すかが難しいです」
美智子が赤鉛筆を置いた。
「消すんやなくて、まず重なるところを探そか」
隆夫も、旋盤の前から戻ってきた。
「今日は通常仕事もある。紙だけにかかりきりにはできんぞ」
「分かってる」
美智子は、予定表を指した。
中川機械の追加分。
倉田精密の保管札。
河島産業の先行分。
クロフィックスの小口セット。
それに、高井田確認項目表の試作版。
食わせる仕事と育てる仕事が、同じ机の上に並んでいる。
直人は、その並びを見て小さく息を吐いた。
ここを間違えると、また本末転倒になる。
「今日は、全部まとめるんじゃなくて、1件だけ実際の仕事に使ってみた方がええと思う」
直人が言うと、美智子が顔を上げた。
「試すってこと?」
「うん。紙の上でまとめても、現場で使えんかったら意味ないから」
森川が頷いた。
「使ってから直す方がええな。最初から完成品にしたら、どうせ重くなる」
その時、事務所の電話が鳴った。
美智子が受話器を取る。
「はい、黒瀬精機です。……はい、高田包装さん。いつもお世話になっております」
直人は、思わず宮田と目を合わせた。
高田包装。
今日の通常仕事にも名前がある。
美智子の声が少し変わった。
「……はい。ラインのガイドが削れている? ……今日中に見てほしい。……はい、現物は持ち込めますか」
森川が、もう工具を置いていた。
隆夫も事務所へ顔を出す。
美智子は受話器を押さえて、隆夫へ言った。
「高田さんの包装ライン。ガイド部品が削れて、袋が斜めに流れるらしいわ。現物を持ってくるって」
隆夫はすぐに答えた。
「見るだけなら見る。ただし、今日中に作れるかは現物次第や」
美智子は電話へ戻った。
「はい。現物を持ってきてください。ただ、今日中に対応できるかは、状態を見てからになります。……はい。お願いします」
電話を切ると、事務所に少しだけ緊張が走った。
通常仕事。
急ぎの保全品。
食わせる仕事の一つだ。
だが、ここで高井田確認項目表を使えるかもしれない。
直人は、作業台の上の紙を見た。
「これ、最初の試しにできると思う」
美智子が頷く。
「高田さんなら、普段の取引もあるし、いきなり大きな話にはならん。試すにはちょうどええかもしれんね」
森川は少し笑った。
「包装ラインやから食品まわりの機械寄りやな。汚れ、洗浄、樹脂、金属、搬送。いろいろ入るで」
「だから試せる」
直人は言った。
30分ほどして、高田包装の保全担当が現物を持ってきた。
古いアルミのガイド部品だった。
片側が削れ、表面に細かい傷がある。食品そのものに直接触れるものではないが、包装材の流れを案内する部品らしい。
担当者は、額の汗を拭きながら言った。
「すんません、急で。これがずれると袋が噛んで、ラインが止まるんですわ」
隆夫は部品を手に取り、角度を変えて見た。
「前にも似たようなもん作りましたね」
「はい。ただ、今回は前より削れが早い気がして」
森川が部品の端を指でなぞる。
「当たりが変わってるな。包装材がこっちへ寄ってるんちゃいますか」
担当者が頷く。
「最近、袋の材質が少し変わりました」
直人は、そこを聞いて顔を上げた。
「材質が変わったんですか」
「はい。仕入先が変わって、少し硬い感じになってます」
宮田が、すぐに鉛筆を走らせた。
包装材変更。
硬さ変化。
当たり位置変化の可能性。
美智子は、高井田確認項目表の試作版を1枚取り出した。
初回条件確認。
対象面確認。
前工程状態確認。
梱包確認。
搬送条件確認。
記録作成。
写真確認。
不具合時の戻り先。
用途区分。
直人は、担当者へ言った。
「高田さん、少し確認してもいいですか」
「はい」
「この部品は食品に直接触れますか」
「直接は触れません。包装材には触れます」
「洗浄はしますか」
「ライン清掃の時に拭きます。水でじゃぶじゃぶ洗う感じではないです」
「濡れる可能性は?」
「あります。けど、洗浄後に水が残るほどではないです」
「傷は、どこまで問題になりますか。見た目の傷ですか、包装材を削る傷ですか」
担当者は、少し考えた。
「見た目は正直そこまで気にしません。袋に傷がつくのが困ります」
直人は頷いた。
「つまり、守る面は包装材に触れる面です。外から見える面の小傷は、機能に関係なければ許容できる可能性があります」
「そうです」
森川が横から言う。
「ほな、全部ピカピカにする仕事やないな。袋が引っかからん面を作る仕事や」
担当者は、ぱっと顔を上げた。
「それです。それが欲しいです」
直人は、胸の中で小さく手応えを感じた。
これが、項目表の役目だ。
傷を全部同じに扱わない。
業界や用途で、何を守るかを分ける。
ただ、そこで直人の手が止まった。
項目表には、包装材の変更を書く欄がなかった。
前工程状態確認はある。
対象面確認もある。
でも、相手側の材料変更、使用物の変更、使用条件の変化。
それを受ける欄がない。
直人は、紙の余白に書いた。
相手側条件変更。
包装材変更。
材料変更。
使用速度変更。
森川がそれを見た。
「穴、見つかったな」
「うん」
直人は頷いた。
「高井田確認項目表に、変更履歴の欄が要る」
美智子もすぐに赤鉛筆で囲んだ。
変更履歴。
前回から何が変わったか。
材料。
速度。
洗浄方法。
作業者。
保管場所。
田端がいたら、搬送方法も入れろと言うだろう。
宮田が、それを見ながら言った。
「これ、かなり大事ですね。前回と同じ部品でも、使う側が変わっていたら、同じ見積もりにならないかもしれません」
「そうや」
隆夫は部品を置いた。
「前回同寸でええと思って受けたら、違う条件で使われてた、いうことになる」
担当者は、少し申し訳なさそうな顔をした。
「袋の材質変更までは、こちらも関係あると思ってませんでした」
「それが普通です」
直人は言った。
「だから、聞く欄が要るんやと思います」
森川が、古い部品を持ち上げた。
「これは、同じ形で作り直すだけやとまた削れるかもしれんな。袋が硬くなってるなら、当たり面を少し変えた方がええ」
隆夫が頷く。
「材質も見るか」
「今と同じアルミでいけるか、表面だけ逃がすか。そこは試した方がええですね」
高田包装の担当者は、すぐに言った。
「今日中に1個だけでも欲しいです。ラインを止めたくないんで」
そこに、いつもの急ぎ仕事の圧があった。
黒瀬精機にとっては食わせる仕事。
相手にとっては止めたくない現場。
ここで全部を確認してからと言うと、ラインが止まる。
かといって、何も決めずに作れば、また同じことが起きる。
直人は隆夫を見た。
隆夫は少し考え、言った。
「応急用を1個作ります。ただし、前回同寸ではなく、当たり面だけ少し逃がします。正式な改善版は、包装材のサンプルをもらってから」
担当者はほっとした顔をした。
「それでお願いします」
美智子がすぐに確認する。
「応急用と改善版を分けます。今日出すのは応急用。正式改善版は別見積もりです。それでよろしいですか」
「はい」
「書面は簡単でいいので、今ここで確認を書いてもらえますか。包装材変更あり、応急用1個、改善版は後日サンプル確認後」
担当者は、すぐに頷いた。
「書きます」
森川が小さく言った。
「奥さん、早いな」
美智子は平然としている。
「ここを書かんかったら、今日の応急品が正式品になります」
直人は、心の中で頷いた。
その通りだ。
応急用。
改善版。
この2つを分けなければ、また数字も責任も混ざる。
森川と隆夫はすぐに加工に入った。
通常仕事の合間に、急ぎの保全品を差し込む。
段取りは少し崩れる。
けれど、高田包装は昔からの取引先だ。ラインを止めないための急ぎには、対応する価値がある。
ただし、ただ飲み込むのではない。
応急用として線を引く。
直人は、宮田と一緒に項目表の余白を整理した。
用途区分。
食品包装機械。
対象面。
包装材に触れる面。
許容傷。
見た目の小傷は可。
包装材を削る傷は不可。
変更履歴。
包装材変更あり。
応急対応。
1個。
改善版。
包装材サンプル確認後。
宮田は書きながら言った。
「項目表、いきなり穴だらけですね」
「それでええと思う」
直人は答えた。
「穴が見つかるための試作版やから」
宮田は少し考え、頷いた。
「完璧な紙を作るんじゃなくて、穴を見つける紙ですか」
「うん。最初はそれでええ」
夕方前、応急用のガイド部品が1個仕上がった。
森川が布で軽く拭き、当たり面を確認する。
「完全やないで」
担当者にそう言った。
「応急用ですからね」
担当者は、今度はすぐに頷いた。
「分かっています。改善版はサンプルを持ってきます」
美智子が控えを渡した。
応急用。
包装材変更あり。
改善版は別見積もり。
担当者はそれに署名し、部品を受け取った。
「助かりました」
隆夫は頷いた。
「急ぎは急ぎとして受けます。ただ、次はサンプルをお願いします」
「はい。今度から、変更があったら先に言います」
その言葉で、直人はまた一つ小さな手応えを感じた。
高田包装の担当者が帰った後、黒瀬精機の作業台には、項目表の試作版が残っていた。
そこには赤鉛筆で、新しい欄が加えられている。
変更履歴。
前回から何が変わったか。
材料。
速度。
洗浄方法。
作業者。
保管場所。
搬送方法。
森川がそれを見ながら言った。
「初日から穴が見つかったな」
「うん」
直人は頷いた。
「でも、見つかってよかった」
美智子が赤鉛筆で、さらに書き足した。
応急用と正式品を分ける。
隆夫がそれを読んで、深く頷いた。
「これも要るな」
「要る」
美智子は言った。
「町工場は、急ぎやからで受けることが多い。でも、急ぎで作ったものが、いつの間にか正式品扱いになることがある」
森川が苦笑した。
「あるなあ。仮で作ったやつが、ずっと使われてるやつ」
「それを止める欄やね」
直人は言った。
高井田確認項目表は、少しだけ形を変えた。
点数表ではない。
金額表でもない。
だが、今日、現場で1つ穴を見つけた。
そして、その穴を埋める言葉が増えた。
夜、田端が戻り便のついでに顔を出した時、美智子はさっそく変更履歴の欄を見せた。
田端は、それを見るなり言った。
「搬送方法は絶対入れてください。前は平積みやったのに、次から立てて運べ言われることありますから」
「入れた」
「さすが奥さん」
田端は笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「応急用と正式品を分ける、これもええですわ。運ぶ方も、仮の箱がそのまま本番箱にされることありますから」
森川が言う。
「どこも同じやな」
「同じですわ。仮ほど長生きするもんはない」
その言葉に、全員が妙に納得した。
仮ほど長生きする。
直人は、その言葉も紙の端に書きたくなった。
だが、美智子が先に赤鉛筆で書いていた。
仮を仮のまま残さない。
直人は笑った。
「おかん、早いな」
「大事な言葉やから」
作業台の上には、今日の応急仕事の控えと、高井田確認項目表の試作版が並んでいた。
中川機械の繰り返し仕事。
倉田精密の保管札。
河島産業の赤と青。
高田包装の応急用。
全部が、少しずつつながっている。
町工場の仕事は、予定通りに進むものばかりではない。
急ぎもある。
仮もある。
前回同寸だと思ったら、使う側の条件が変わっていることもある。
だから、紙は完璧でなくていい。
穴を見つけて、直していけばいい。
直人は、高井田確認項目表の余白を見た。
まだ空白は多い。
でも、空白があるから次を書ける。
町で作る表は、今日、最初の穴を見つけた。
それは失敗ではない。
始まった証拠だった。
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