第90話 点数表ではない
藤野から届いた封筒には、いつもの照会票とは違う紙が入っていた。
東大阪商工会議所。
高井田町工場連絡会 確認項目整理案。
題名だけ見れば、ずいぶん真面目な紙だった。
だが、その下に並んだ言葉を見た瞬間、直人は少しだけ眉を寄せた。
初回条件確認。
記録作成。
写真確認。
梱包確認。
搬送条件確認。
不具合時調査。
その横に、鉛筆で薄く数字が書かれている。
1点。
2点。
3点。
5点。
直人は、紙を机に置いた。
「点数?」
美智子が横から覗き込む。
「藤野さん、思い切ったね」
隆夫も手を止めた。
「何や、これは」
直人は同封の手紙を読んだ。
古川研磨の見積もりに条件確認費が入ったことを受け、会議所側でも、町工場の見えにくい手間を説明しやすくするため、確認項目を一覧化できないか検討したい。
単価表ではない。
強制ではない。
まずは項目の整理から。
藤野の手紙には、そう書かれていた。
けれど、紙の端に薄く書かれた点数は、妙に強く見えた。
森川修一が、旋盤の前から顔を出す。
「今度は何の紙です?」
「確認項目の点数表みたいなもん」
直人が言うと、森川は顔をしかめた。
「点数?」
「うん。条件確認が何点、写真が何点、梱包確認が何点、みたいに」
森川は、少し考えてから言った。
「分かりやすいようで、怖いな」
「うん」
直人はすぐに頷いた。
「便利やけど、怖い」
宮田悟が棚から黒瀬式のファイルを持ってきた。
「項目だけなら、整理しやすいと思います。でも、点数になると、見積もりにそのまま使われるかもしれません」
美智子が赤鉛筆を持つ。
「そのまま使われるだけならまだええ。下げる材料にもなる」
隆夫が低く言った。
「この確認は3点やろ。ほな、そんなに払えん。1点でやれ。そう言われるかもしれん、いうことか」
「そう」
直人は紙の上の薄い数字を指した。
「点数が決まれば、言いやすくなる。でも、点数だけが歩いたら、仕事の中身が見えなくなる」
美智子は、手紙の最後を読んだ。
「午後に商工会議所で相談やね。藤野さん、白井さん、南田さん、大西さん、吉岡さん、小池さん、田端さんも呼んでる」
「広げる前に、こっちで止めるとこ止めなあかんな」
隆夫が言った。
直人は頷いた。
黒瀬式が、また一段外へ出ようとしている。
それ自体は悪くない。
古川研磨のように、言うべき値段を言える工場が増えるなら意味はある。
だが、点数表は強い。
強いものは、使い方を間違えると人を縛る。
午後、東大阪商工会議所の小会議室には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
黒瀬精機からは隆夫、直人、美智子、森川、宮田。通常仕事の段取りを先に済ませ、工場を空ける時間を最小限にして来ている。
南田板金の南田、大西樹脂の大西、吉岡メッキの吉岡、小池製作所の小池、田端商会の田端。藤野と白井も、資料を前にして待っていた。
南田板金の南田は、資料を見るなり腕を組んだ。
「これ、便利そうやけど危ないな」
大西樹脂の大西も頷く。
「樹脂の確認と金属の確認では、同じ写真確認でも手間が違います」
吉岡メッキは、短く言った。
「表面処理も同じや。濡れと薬品があるだけで、見る場所が変わる」
小池製作所の小池は、紙を指で叩いた。
「けど、項目があるのは助かる。今までは『何となく手間』で終わってたからな」
田端商会の田端も言った。
「運送も、搬送条件確認と一口に言うても、近場の混載と、傷つけたらあかん専用扱いでは違いますわ」
藤野は、全員の反応を見ながら頭を下げた。
「私も、いきなり点数表として使うのは危ないと思っています。ただ、古川さんの件で、発注側も受注側も『何に費用がかかるのか』を言葉にする必要があると感じました」
白井が続ける。
「金融機関としても、項目があると見積もりや資金繰りの説明はしやすくなります。ただ、点数が硬すぎると、逆に現場に合わない数字が一人歩きします」
直人は、その言葉を聞きながら、机の上の紙を見ていた。
点数化。
それは、見えない手間を見えるようにする力を持つ。
同時に、見えたものだけを削る力も持つ。
南田が言った。
「もしこれをやるなら、点数より先に項目やろ」
大西も続けた。
「項目名と、確認範囲ですね。何を見たらその項目になるのか。そこがないと、同じ点数でも中身がばらばらになります」
吉岡が、静かに紙を見ている。
「あと、業界で違う。造船向けなら多少の傷や濡れは許されることがある。医療系や洗浄後の部品なら許されん。全部同じ点数は無理や」
直人は、そこで顔を上げた。
「そこです」
全員の視線が集まる。
直人は、ゆっくり言った。
「点数を先に決めるんじゃなくて、まず『何を見るか』と『どの用途か』を分けた方がいいと思います」
藤野がペンを構える。
「用途を分ける?」
「はい。たとえば、傷確認でも、どの業界でも同じ意味ではありません。医療系、食品機械、造船、一般機械、保全修理。必要な厳しさが違います」
吉岡が頷いた。
「そうやな」
「だから、点数表ではなく、最初は確認項目表にします。点数はまだ付けない」
小池が聞く。
「点数なしで、値段の話になるんか」
「なります」
直人は答えた。
「項目があれば、各工場が自分の時間単価と手間で見積もれます。点数を共通にすると、便利な反面、安く使われる危険があります」
田端が腕を組んだ。
「つまり、道路地図は共有するけど、運賃表までは一緒にせん、いう感じですか」
「近いと思います」
直人は頷いた。
「どこを見るべきかは共通にする。でも、いくらで受けるかは、工場ごと、仕事ごとに違っていい」
藤野は、紙に大きく書いた。
点数表ではなく、確認項目表。
その文字を見て、会議室の空気が少し変わった。
点数表という言葉が持っていた強さが、少しだけ弱まる。
美智子が、赤鉛筆で別の紙に書いた。
高井田確認項目表。
初回条件確認。
対象面確認。
前工程状態確認。
梱包確認。
搬送条件確認。
記録作成。
写真確認。
不具合時の戻り先。
用途区分。
医療系。
食品機械。
一般機械。
保全修理。
重量物、屋外使用。
南田が紙を覗き込む。
「重量物、屋外使用も要るな。傷より歪みや錆の方が大事な場合もある」
大西が言う。
「樹脂なら、薬品、熱、水分、割れ、変色も要ります」
吉岡が短く足す。
「表面処理なら、前処理と後処理。そこを分ける」
田端が言った。
「運送なら、混載可否、濡れ可否、積み向き、箱の重ね可否」
宮田が忙しく書いている。
藤野も追いつこうとしていたが、途中で苦笑した。
「これは、思ったより大きいですね」
「大きくしすぎると使えません」
直人は言った。
「最初は小さくした方がいいです。全部を入れようとすると、誰も書けなくなります」
白井が頷く。
「まずは試行ですね。正式な制度ではなく、連絡会の試用表として」
「はい」
直人は藤野を見た。
「高井田町工場連絡会の中だけで試す。外へ出す時は、項目表として出す。点数や金額は付けない。各工場が、自分の見積もりの中で使う」
藤野は、少し考えてから頷いた。
「分かりました。会議所としても、最初から点数化するのはやめます。まずは確認項目表として作ります」
小池が、ほっとしたように息を吐いた。
「点数まで決められたら、こっちの首が締まるとこやった」
南田が笑う。
「せやけど、項目だけなら助かる。言い訳やなくて、説明になる」
古川研磨の話が、そこで出た。
古川は今日の場には来ていないが、彼の見積もりが変わったことは、藤野から連絡会へ伝わっていた。
値段を下げるのではなく、確認範囲を削った。
その事実は、工場主たちにとって分かりやすかった。
大西が静かに言った。
「確認範囲を削れば値段が変わる。そう言えるのは大事ですね」
森川が腕を組む。
「全部安くせえ、やなくて、何を見んでええか決めてくれ、になるわけや」
「そう」
直人は頷いた。
「それが言えるようにするための項目表です」
美智子が、そこで口を開いた。
「ただし、もう一つ要ります」
藤野が顔を上げる。
「何でしょうか」
「見直しです」
会議室が少し静かになる。
美智子は続けた。
「項目表を作ったら、それで終わりにしたらあかんと思います。使ってみて、足りないところ、細かすぎるところ、発注側に悪用されそうなところを、定期的に見直す必要があります」
白井が頷いた。
「それは大事です。作りっぱなしの表は、すぐ現場に合わなくなります」
藤野はメモを取る。
「半年に1回、連絡会で見直す形でしょうか」
「最初は3か月でもええかもしれません」
美智子は言った。
「使い始めが一番、変なところが出るので」
隆夫が少し笑った。
「美智子の言う通りやな。最初から完璧な紙なんかない」
田端が笑う。
「黒瀬さんとこが言うと説得力ありますわ」
会議室に小さな笑いが起きた。
だが、直人は笑いながらも、少し怖さを感じていた。
項目表。
見直し。
試用。
言葉は整ってきた。
だが、整いすぎたものは、いつか制度の顔をする。
制度の顔をし始めた時、誰が運用するのか。
誰が正当か判断するのか。
町工場側に、それを扱える人がいるのか。
発注側に、その項目の意味を分かる人がいるのか。
そこを飛ばしたら、黒瀬式はまた別の縄になる。
直人は、手元の紙に小さく書いた。
運用する人が要る。
判断する人が要る。
その文字を、白井が見つけた。
「黒瀬さん、それも重要です」
直人は頷いた。
「項目表を作っても、意味を分かる人がいなかったら、ただのチェック欄になります」
藤野が顔を上げる。
「会議所側にも、勉強が必要ですね」
「うちにも必要です」
直人は言った。
「黒瀬精機も、全部分かってるわけじゃありません。医療系なら倉田さんと積み重ねたことがある。でも造船や大型物は分かりません。田端さんの運送も、吉岡さんの表面処理も、それぞれ分かる人がいます」
吉岡が短く言った。
「一社で作る表やないな」
「はい」
直人は答えた。
「町で作る表やと思います」
その言葉に、藤野のペンが止まった。
町で作る表。
東大阪商工会議所の小会議室に、しばらく機械音のない沈黙が落ちた。
やがて藤野が、ゆっくり言った。
「では、高井田確認項目表の試作版を、連絡会で作りましょう。黒瀬精機さんだけでなく、南田さん、大西さん、吉岡さん、小池さん、田端さんにも、それぞれの項目を出していただく形で」
南田が頷いた。
「やるなら、現場の言葉でな」
大西も言う。
「はい。難しすぎると使えません」
田端が笑った。
「運送欄は、わしが書きますわ。積み向きと混載だけは入れさせてください」
小池がぼそっと言う。
「小物加工は、小さいから楽やと思われがちやからな。そこも書く」
吉岡は短く頷いた。
「表面処理は、前と後を分ける」
隆夫は、その顔ぶれを見ていた。
「町で作る表か」
直人は父の声を聞いた。
その声には、少しだけ感慨が混じっていた。
黒瀬精機だけではない。
町の工場が、自分たちの手間を言葉にしようとしている。
大きな制度ではない。
まだ、ただの試作版だ。
だが、古川研磨が見積もりに書いた一行から、また一つ先へ進んだ。
黒瀬精機へ戻ると、美智子はすぐに台帳を開いた。
高井田確認項目表。
試作版。
点数なし。
金額なし。
項目と確認範囲のみ。
3か月後に見直し。
各業種から項目提出。
直人は、その横で赤と青の札を見た。
河島産業の現場から始まった形。
桐島機工の説明会で守った線。
古川研磨の見積もりに入った値段。
そして今度は、町で作る項目表。
少しずつ、黒瀬式は広がっている。
でも、広がるたびに危うさも増える。
森川が、作業場から戻ってきて言った。
「直坊、今日は点数表にならんで済んだんか」
「うん。項目表になった」
「それでも面倒そうやな」
「面倒やと思う」
「ええんか」
直人は少し考えた。
「面倒でも、値段を言える面倒ならええと思う。何も言えずに飲み込むよりは」
森川は、しばらく直人を見てから笑った。
「また面倒なこと言うてるわ」
美智子が赤鉛筆で最後に一行を書いた。
点数にする前に、現場の言葉にする。
直人は、その文字を見て頷いた。
数字は強い。
だからこそ、急いで数字にしてはいけない。
まず、何を見ているのか。
何を守っているのか。
何を削ると危ないのか。
そこを現場の言葉で出す。
町工場が値段を言えるようになる道は、まだ遠い。
けれど今日、黒瀬精機だけの紙ではなくなった。
町の紙になり始めた。
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