第92話 仮を仮で終わらせる

 高田包装から電話が入ったのは、翌朝の8時を少し過ぎた頃だった。


 黒瀬精機では、森川修一が中川機械の追加部品を旋盤にかけ、隆夫が河島産業向けのC2とD2の段取りを見ていた。宮田悟は、昨日書き足したばかりの高井田確認項目表を清書している。


 変更履歴。


 前回から何が変わったか。


 応急用と正式品を分ける。


 仮を仮のまま残さない。


 その文字は、まだ新しい。


 美智子が受話器を取った。


「はい、黒瀬精機です。……はい、高田さん。昨日はありがとうございました」


 直人は、手元のクロフィックス保管札を箱へ入れながら、少しだけ顔を上げた。


 美智子の声が、わずかに硬くなった。


「……はい。昨日の応急用でラインが動いた。……よかったです。……同じものをあと5個?」


 森川の手が止まった。


 隆夫も、ゆっくり顔を上げた。


 直人は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 来た。


 昨日、書いたばかりの穴だった。


 仮ほど長生きする。


 応急用が動いた瞬間、それは正式品になりかける。


 美智子は、受話器を押さえて隆夫を見た。


「高田さん、昨日の応急用が具合ええから、同じものをあと5個欲しいって」


 隆夫はすぐには答えなかった。


 昨日の応急用は、ラインを止めないためのものだ。


 前回同寸ではなく、当たり面だけ少し逃がした。だが、包装材のサンプルを見た正式な改善版ではない。


 森川が低く言った。


「動いたからいうて、正式品にしたらあかんやつやな」


「うん」


 直人は頷いた。


 美智子は受話器に戻った。


「高田さん、昨日の部品は応急用としてお渡ししています。同じ形で5個作ると、それが正式品扱いになってしまいます。……はい。昨日の確認書にも、改善版は包装材サンプル確認後と書いています」


 電話の向こうで、相手が何か言っている。


 美智子は少し黙って聞いた。


「ラインを止めたくないのは分かります。では、今日、包装材のサンプルを持って来ていただけますか。応急用の追加ではなく、改善版の確認に入ります」


 隆夫が小さく頷いた。


 直人も息を吐いた。


 美智子は、最後に言った。


「はい。急ぎとして見ることはできます。ただし、応急用の量産ではなく、改善版の先行確認です。……はい。お願いします」


 電話を置くと、事務所に少しだけ沈黙が落ちた。


 森川が、旋盤のチャックを締め直しながら言う。


「昨日の今日で来たな」


「来ると思ってた」


 直人は言った。


「応急品が動いたら、そら欲しくなる」


 隆夫は腕を組んだ。


「こっちも助けたい気持ちはある。せやけど、応急品をそのまま5個作ったら、昨日の線が消える」


 美智子が赤鉛筆で台帳に書いた。


 高田包装。


 応急用追加希望。


 改善版確認へ切替。


 包装材サンプル待ち。


「言い方は大事やね」


 美智子は言った。


「断るんやなくて、改善版へ進める」


 直人は頷いた。


「仮を仮で終わらせる」


 その言葉に、宮田の鉛筆が止まった。


「見出しみたいですね」


 森川が笑った。


「また宮田が書く気や」


 宮田は少し照れたが、もう紙の端に書いていた。


 仮を仮で終わらせる。


 午前10時前、高田包装の保全担当が、包装材のサンプルを抱えてやって来た。


 昨日よりも少し落ち着いているが、顔には急ぎの色が残っている。


「すんません。昨日のやつで、とりあえずラインは動いてます。ただ、現場から、同じ予備が欲しいと言われまして」


 隆夫が頷く。


「気持ちは分かります」


 森川も古いガイド部品と昨日の応急品を並べた。


「昨日のは、あくまで当たりを逃がした応急や。これでずっと使う前提やと、どこが削れるかまだ見えてへん」


 担当者は、包装材のサンプルを作業台に置いた。


 直人はそれを手に取った。


 薄い。


 だが、思ったより張りがある。


 前のものより硬いという担当者の話は、触ると少し分かった。端を軽く曲げた時の戻りが強い。


 森川が包装材を指で弾いた。


「確かに硬いな」


 隆夫は、古いガイド部品の削れた部分へ包装材を当てた。


「ここで当たってる」


 直人は、高井田確認項目表を横に置いた。


 用途区分。


 食品包装機械。


 対象面。


 包装材に触れる面。


 変更履歴。


 包装材変更あり。


 応急用。


 正式改善版。


 昨日足した欄が、さっそく生きている。


「高田さん、昨日の応急用を5個作ることはできます。でも、それはおすすめしません」


 直人が言うと、担当者は少し困った顔をした。


「やっぱり、あかんですか」


「あかんというより、もったいないです。今、包装材のサンプルがあります。だったら、応急品を増やすより、改善版を1個作って、現場で当たりを見た方がええと思います」


 担当者は、サンプルと応急品を見比べた。


「でも、現場は予備が欲しいんです」


「予備は要ります」


 直人は否定しなかった。


「ただ、応急品の予備を増やすのか、改善版の予備を作るのかで、次が変わります」


 森川が横から言った。


「昨日のやつを5個作ったら、現場はたぶんそれを正式に使いますよ。そしたら、次に削れた時に『黒瀬が作った正式品がすぐ削れた』になる」


 担当者は、はっとした顔をした。


「そうか……応急用って言っても、現場に5個並んだら正式みたいに見えますね」


「そうです」


 直人は頷いた。


「だから、応急用は1個のままにした方がいいです。今日作るなら、改善版試作1個。現場確認後に先行分を決める。そう分けたいです」


 担当者は、少し黙った。


 急ぎたい。


 でも、昨日の説明も分かっている。


 その顔だった。


 隆夫が静かに言った。


「高田さん、ラインを止めんための応急は、うちも協力します。ただ、応急を正式にするなら話は別です。そこは書面で分けさせてください」


 担当者は、ようやく頷いた。


「分かりました。改善版試作1個でお願いします。現場には、応急品の追加ではないと伝えます」


 美智子がすぐに紙を出した。


 高田包装 改善版試作。


 包装材サンプル確認あり。


 応急用追加なし。


 改善版試作1個。


 現場確認後、先行分判断。


「ここに、確認お願いします」


 担当者は紙を読んでから、署名した。


 その動きに迷いは少なかった。


 直人は、少しだけ胸をなで下ろした。


 言うべきことを言った。


 相手も飲み込んだ。


 そこから、黒瀬精機は改善版の加工に入った。


 森川は、古い部品、昨日の応急品、包装材サンプルを作業台に並べた。


「同じ形で逃がすだけやと芸がないな」


 隆夫が図面の端へ線を引く。


「当たり面を少し広げて、角を丸める。包装材が走るところだけ、引っかかりを消す」


 直人は包装材をガイドに沿わせて動かした。


「袋が触る場所だけを守る。外側は見た目より、清掃しやすさ優先でいいと思う」


 森川が頷く。


「食品まわりやから、削り粉が溜まる形は嫌やな」


「うん。溝を深くしすぎると掃除しにくい」


 担当者が横から聞いていた。


「そこまで見てもらえるんですか」


 森川が少し笑った。


「見んかったら、また戻ってきますからね」


 担当者は苦笑した。


「確かに」


 美智子は、その会話を確認項目表の横へ書き込んでいた。


 改善版試作。


 当たり面拡大。


 角丸め。


 清掃性確認。


 削り粉溜まり不可。


 包装材サンプルで動き確認。


 美智子は、さらに別の欄へ書いた。


 応急用は現場保管期限を決める。


 直人がその文字を見て、顔を上げた。


「おかん、それ大事や」


「仮を仮で終わらせるなら、いつまで仮か決めなあかん」


 美智子は当然のように言った。


 担当者が、少し驚いた顔をする。


「保管期限ですか」


「はい。改善版が通ったら、応急用は予備として残すのか、廃棄するのか、返却するのかを決めた方がええです」


 隆夫も頷いた。


「応急用が現場に残っていると、いつか誰かが正式品と間違えて使います」


 担当者は、ゆっくり頷いた。


「ありますね。古い部品、引き出しに残ってたりします」


「それを止めます」


 直人は言った。


「応急用は、改善版確認後に返却か、赤札で応急保管。期限を決める。これも項目表に入れたいです」


 宮田がすぐに書いた。


 応急品の扱い。


 返却。


 廃棄。


 期限付き保管。


 正式品との識別。


 森川が、少し呆れたように笑った。


「また穴が増えたな」


「穴というより、蓋かもしれん」


 直人が言うと、森川は首を傾げた。


「蓋?」


「仮が勝手に残る穴に、蓋をする欄」


 美智子が赤鉛筆でそれを囲む。


「ええね」


 森川は苦笑した。


「もう何でも紙になるな」


「紙にしとかんと忘れる」


 美智子が即答すると、森川は何も言わず笑った。


 午後、改善版の試作品が1個仕上がった。


 昨日の応急用より、当たり面がなだらかになっている。包装材が触れる場所だけが丁寧に逃がされ、外側は掃除しやすい形に残してある。


 森川は包装材サンプルを当て、何度も滑らせた。


「昨日のより引っかかりは少ないな」


 隆夫も触って確認する。


「これなら、現場で試す価値はある」


 直人は、高田の担当者に確認した。


「これは改善版試作です。正式品ではありません」


「はい」


「現場で1日使って、包装材の擦れ、袋の流れ、清掃後の汚れ残りを見てください」


「分かりました」


「昨日の応急用は、改善版確認が終わるまで応急予備として保管。ただし、正式品と混ぜないでください」


「赤札を付けます」


 担当者が自分から言った。


 直人は頷いた。


「お願いします」


 美智子が控えを渡す。


 改善版試作。


 応急品は期限付き保管。


 正式品と混在不可。


 現場確認後、先行分判断。


 担当者は、それに署名した。


「黒瀬さん、正直、最初は面倒やと思いました」


 帰り際、担当者が言った。


「でも、昨日の応急品をそのまま5個頼んでたら、たぶん現場では正式品扱いになってました。それでまた削れたら、こっちも困ってたと思います」


 隆夫が静かに頷いた。


「そうなる前に分けられてよかったです」


 担当者は、改善版試作を箱に入れた。


「明日、結果を持ってきます」


「お願いします」


 高田包装の軽トラックが出ていったあと、黒瀬精機の中に少しだけ安堵が残った。


 森川が、作業台に残った応急用の控えを見ながら言った。


「昨日の穴、今日もう一個深くなったな」


「うん」


 直人は答えた。


「応急用と正式品を分けるだけじゃ足りんかった。応急用をいつまで残すかも要る」


 宮田が、清書した項目表に新しい欄を足した。


 応急品の扱い。


 保管期限。


 識別札。


 返却、廃棄、予備化。


 正式品との混在不可。


 美智子は、その横にさらに書いた。


 仮を仮で終わらせる。


 森川がそれを見て、腕を組む。


「ええ言葉やけど、難しいな」


「難しい」


 直人は素直に言った。


「現場は、動いたものを残したがる。壊れても、使えるうちは捨てにくい。でも、それが次の混乱になる」


 隆夫が古いガイド部品を手に取った。


「町工場も同じやな。昔のやり方が動いてるうちは、なかなか変えられん」


 美智子は台帳を閉じた。


「でも、動いてるだけと、続けていいは違う」


 その言葉に、直人は静かに頷いた。


 仮のまま残ったもの。


 応急のまま正式になったもの。


 サービスのまま当然になったもの。


 前の人生には、そういうものが山ほどあった。


 全部、最初は小さな仮だった。


 ちょっとだけ。


 今回だけ。


 急ぎだから。


 無料でいいから。


 それがいつの間にか、当たり前になる。


 だから、仮を仮で終わらせる線がいる。


 その夜、黒瀬精機の作業台には、昨日より少し厚くなった高井田確認項目表が置かれていた。


 変更履歴。


 応急用と正式品。


 応急品の扱い。


 保管期限。


 混在不可。


 どれも、高田包装の小さなガイド部品から出てきた言葉だった。


 大きな制度ではない。


 まだ、町の試作表だ。


 けれど、現場で1つずつ穴を見つけ、蓋をしている。


 直人は、最後に赤鉛筆で囲まれた言葉を見た。


 仮を仮で終わらせる。


 それは部品だけの話ではない。


 仕事の受け方も、値段の付け方も、町工場の我慢も同じだった。


 仮の我慢を、当たり前にしない。


 黒瀬精機が言いたいことは、結局そこへ戻っていくのかもしれない。


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